篭橋一輝×吉永明弘 「「自然の価値」を論じなおす:関係価値と自然の代替不可能性――環境経済学と環境倫理学の対話」を読んで
#つぶやき
2024-07-11 facebookに投稿
篭橋一輝×吉永明弘 「自然の価値」を論じなおす:関係価値と自然の代替不可能性――環境経済学と環境倫理学の対話
桐朋の後輩でもあるラボ同期が教えてくれた対談記事をシェアします。
なぜ自然や生物を保全するのか?という素朴な問いに対して、哲学的な理論武装というか、納得できる理屈は必要なのに、今よく見られる理論武装らしきものは全然しっくりこないと常々感じていて、その辺のヒントになりそうに思いました。
ちなみに、対談者の1人の吉永明弘さんは学部時代に受けた環境倫理の講義を担当されてました。懐かしいです。
記事内の吉永さんの発言を少し引用します。
「自然の「機能的価値」を重視する人々は、ある意味ではマクロで長期的な展望を持った見方をしているので、その立場からすると、「かけがえのない」目前の自然を残すことを主張する人々は、近視眼的な「感情論」を語っているように映るかもしれません。しかし、「かけがえのない」という感覚を軽蔑するならば、人間の道徳の大部分が崩壊してしまうでしょう。
例えば会社の中で「おまえの代わりはいくらでもいる」と言われたら、機能的にはその通りだとしても、ひどく傷つきます。そうした言動は非難の対象になるでしょう。また、昔はネコを飼う理由として、ネズミを捕らせるため、という理由がありました。その際、ネコが機能的価値としてしか見られていない場合には、死んでしまったら代わりのネコを調達すればよいということになります。しかしそのネコに名前が付けられ、家族同様に扱われたならば、そのネコはその家族にとって「かけがえのない」ものとなり、「死んだら代わりを連れてくればよい」などと言おうものなら白い目で見られることになるでしょう。
その人、そのネコが「かけがえのない」存在であると主張することは、近視眼的な感情論として切り捨てられてよいものではありません。このような「かけがえのない」関係性は、近所の森や川といった生態系との間にも、人工物(駅舎、校舎など)との間にも成立します。」