模倣と創造の日本史(14)<日本の教育制度の確立 September 12, 2005
ライシャワーの日本史(講談社学術文庫)では、古代日本から江戸時代終焉までが133頁、その後の明治時代から現代までが325頁と、圧倒的に近代・現代史の分量が多い。通常の日本人は古代日本から第2次大戦頃までをまんべんなく学ぶが、それ故、これほど近代・現代史を学ばないように思える。
しかし、明治以降を詳細に学ぶことは、現在を理解し、将来へ向かうために極めて重要と思える。
ライシャワーの日本史によれば、明治政府は、近代国家に幅広い普通教育のシステムが不可欠なことを認識していた。1871年文部省設置。義務教育を導入。1907年からすべての児童が学校へ通うようになる。義務教育の小学校6年制の上の教育については、政府は主に男子向けの中学校と高等学校という複合システムを推し進め、その上に帝国大学を設け、東京大学をその頂点とする仕組みを作った。教育制度は、欧米のそれとはちがって全く新規に作られた。ほとんどが官製で、当時の欧米の教育制度にありがちな、貴族的雰囲気とか宗教色とは全く無縁で、事実はるかに合理的かつ世俗的で、国家指向の強いものであった。
「教育とは、何よりも近代国家に必要なさまざまな熟練技術を学ばせ、従順で有能な国民を訓練するための政府の一手段とみなされたのである。・・・この高度に合理化された教育制度が日本の社会を大きく変えることになった。」・・「初等教育は、どう考えるかではなく、何を考えるかを人民に教え込む手段となっていた」・・「日本は、教育制度を通じ、国家への服従と画一性を意識的に国民に植えつける近代全体主義の手法におけるパイオニアであるというかんばしくない栄誉を担っているのである」
★上記の教育制度は、日本が西洋に追いつくために取られた、戦略であり、それ自体は、オリジナリティがあたといえよう。しかし、「国家への服従と画一性を意識的に国民に植えつけた」ことは、かなりの影響を与えている。第2次世界大戦の敗戦により、国家への服従という呪縛は形式的には解かれたものの、「画一性」については、なかなか抜けきれないでいる。教育制度自体が、「量産体制」の教育システムである。「どう考えるかを教え、知識創出型の教育が望まれよう。それが知財創出の基である。