苦手は研究の母
研究対象は得意分野とは限らない
グループウェア(複数のユーザが協調して利用するソフトウェア)の研究活動を行なっていた研究会が内紛のために崩壊してしまったことがあるという話を聞いたことがあります。一緒に仕事をする方法について研究している人々が集まっているはずなのにグループ運営が苦手だというのはどういうことなんだとおおいにツッコまれたはずですが、よく考えてみると、私自身も情報整理が超苦手なのに情報整理システムの研究を行なっていたりしますし、直感とは異なり、どうやら人は自分が苦手なことを研究テーマに選んでしまうことが多いようです。調べてみたところ、実はこれはよくある話で、苦手なことを研究テーマに選んでしまう傾向は「専攻分野反転の法則」とか「研究補償説」と呼ばれる定説だということがわかりました。こういう傾向はIT関連の人達に限るわけではなく、言語学の研究者は何をしゃべっているのかわからない人が多いし、音楽学の研究者は音痴が多いなどという噂までありました。 私は「ユーザインタフェース」のソフト/ハードの研究開発を行なっているのですが、これは使いにくいシステムを改良したり、使いやすいシステムを新発明したりするという仕事です。最近のパソコンは徐々に使いやすくなってきてはいるようですが、まだまだ世の中は使いにくいシステムで満ちあふれていますから、ユーザインタフェースの研究という仕事はまだまだ需要がありそうです。
使いにくさの発見
使いにくいシステムをみつけて文句を言うだけなら簡単なのですが、世の中なんでも他人のせいにする人ばかりではなく、機械がうまく動かないのは自分の責任だと思ったり、自分の能力不足のせいで使いこなせないのだと思ったりする人は意外と多いようです。レンタルビデオの返却を忘れて高額の延滞金を請求されても自業自得だと納得している人が多かったりしますし、悪いシステムを見たときその悪さに気付いて文句を言うのもひとつの才能であるようです。
ユーザインタフェースの研究で有名な心理学者のDonald A. Normanは使いにくい機械を発見することの名人で、さまざまな機械の問題点を的確に指摘する多くの本を執筆しています。機械が使いにくいのは人間のせいじゃないんだ/使いにくいと思ったときは正直にそう言っていいんだ/ということを世間に知らしめた功績が大です。 苦手なことを研究する
私は機械の使いこなしが苦手なので、Norman氏と同じように、使いにくさを発見するのは得意なほうです。昔、「Windowsの使いにくさをなんとかしたいと思っている」と同僚に言ったところ、Windowsのどこが使いにくいんだと不思議がられたことがありました。Windowsを使う達人にはWindowsを改良することはできないはずですから、ものを使うのが苦手であることはインタフェース研究者の資質として重要なのでしょう。最高の情報整理システムを作れる人がいるとすれば、システム作りは素晴らしく得意なのに情報整理が絶望的に下手な人間なのでしょう。そういう人は沢山いそうなものですが、最高の情報整理システムがまだ出現していないところを見ると、両方の資質をもつ人は少ないのかもしれません。
「好きこそものの上手なれ」とか「必要は発明の母」とよく言われますが、実は「苦手は研究の母」というのも正しいと言えるのでしょう。なんでも得意な人は新発明が苦手なはずです。ちなみに最高に頭が良い人は工学の研究者には向かないそうです。何ができて何ができないか最初から予測できてしまうからです。苦手がない人は工学の研究には向いていないのかもしれません。
苦手を仕事に活用する
私は奇麗に字や絵を書くのが苦手なので、優れたエディタや入力システムや出力システムが欲しいといつも思っています。整理も苦手なので情報整理システムや検索システムを模索していますし、絵を描くのが苦手だから「お絵描き支援システム」が欲しいと思っています。一方、楽器は人並に弾けるので「楽器演奏支援システム」が欲しいとは思わなかったりします。私がお世話になっている様々な便利なシステムは、みんな何かが苦手な人達が作ったものなのかもしれません。
本物のプログラマは「プログラム開発支援システム」(IDE)を使わないような気がしますし、Paul Grahamは「オブジェクト指向なんか要らない」と言っていたような気がします。バリバリプログラムを書くハッカーにはソフトウェア工学は不要なように思われるので、ソフトウェア工学はプログラミングが苦手な人の研究分野なのかもしれません。私はテキストエディタや日本語入力システムがなければ全く文章を書くことができないのですが、優れたテキストエディタは多分テキスト編集が苦手な人によって開発されたものなのでしょう。 苦手な分野を研究対象にしがちだからといっても成果が出るとは限りません。アイデア出しが得意な人はアイデア生成支援システムなど作らないはずですから、すごいアイデアにもとづいた「アイデア生成支援システム」の登場は期待薄です。同様に、金を儲けるのが苦手な私が金を儲けるための研究をしても勝算は低そうです。文書作成を支援する「執筆支援システム」か「締切遵守システム」あたりで我慢するしかないのかもしれません。