視聴メモ(そ):熊野純彦「他者と共に在る生」(2009年度学術俯瞰講義「死すべきものとしての人間-生と死の思想」第10回
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どれだけ広範囲の影響力を持っているか
思想の画期性
なぜ有限的な生を肯定しなければならないのか? 7:30
生の否定に行き着く思想は二級品
自分は贅沢なものを食べながら自殺について説く
人間以外の存在は現存在ではあり得ないのか? 15:00
「存在とは何か?」と問う動物は、(常識的に考えて)人間以外にはないだろう
死だけでなく「痛み」によっても私固有の生を取り戻せるのではないか? 21:00
sich Gefinden → Befindlichkeit 情態性 人間の生は常に「気分」がまとわりついている
人間にとって最も基本的な「気分」=「情態性」は「不安」である 24:00
私たちはどこから存在(世界に到来)し、どこに立ち去っていくのかもわからず、とにかく存在している
存在する理由や根拠が隠されている = 被投性
被投性に基づく不安
現存在はその都度さまざまな気分にあるにせよ、そこから逃れることのできない根本的な気分があるとすれば、それは「不安」である
世界は馴染んでいる道具存在者の集まりだったはず 28:00
それにもかかわらず、「不安」
「不安」に囚われた時、世界は「不気味(der Unheimlich)」なものとなる
heim → 家
世界が慣れ親しんでいるという感覚が錯覚かもしれない
それはいつまで自分の生が続くであろうという思い込み(忘却)と連関している? 31:00
私たちがいつか死ぬ(そこから離れていく)ということに気づいた時、世界が不気味なものとなるかもしれない
「人は死ぬ」と発言する時、そこでは「自分の死」はまだ遠いことのように考えている 34:00
ハイデガーによれば迂闊
Tod = Ende = Grenze
境界・終わりは生の全体を示す
「自分の死」を遠いことのように考えている人は、生の全体を捉えられていない
↔︎ 必ず到来する死を意識することで、人は固有の生をとらえることができる
ramen.icon「必ず到来する死を意識する」というのはつまりどういうことなのだろうか?
死に関わる存在であることを引き受けることにおいて、自分の有限的な生を我がものとする 43:00
「先駆的な決意性」
上の考えがどのような希望をもたらすか?
旅に出ると、そこでの何気ない日常は、一回的で反復不可能な尊いもののように思われたりして、大したことないものでも写真に撮ってしまったりする
だとするならば、私たちが普段生きている日常も一回的で反復不可能なものに他ならないのではないか?
私たちが大病に罹るなどして、死が間近に感じる時、日常も一回的で反復不可能なものに見える?
前線の兵士にこそ「死への先駆」的なあり方を取りやすい?
「私の死はまだ遠い」という感覚と、「未来はまだない」という感覚は密接している? 59:00
私たちは「未来」を「まだない」もの、「過去」を「もうない」ものとして考えている
しかしそうではなく
過去は単に過ぎ去ったものとしてではなく、「既在」ものとしてとらえる
「未来」はまだないものとしてではなく、今まさに来ようとしている「将来」としてとらえる
ramen.iconこのように時制の捉え方を転換することでどうするのか?
ハイデガーに対する批判 1:01:
レーヴィット
ハイデガーはあまりにも早く日常性を、固有ではない生の次元、非本来的なあり方として打ち捨ててしまったのではないか?
日常において他者と共にあるあり方、を覆い隠してしまったのではないか?
和辻哲郎
この他ならない私の死だけが、死の問題だけであるのか?
臨終、通夜などの問題を捨象している
ハイデガー批判としてはすれ違っているのではないか? 1:07:
しかし、ハイデガーとは別の死についての問題を提示している
身体的な痛みの経験は、無の不可能性を示す
われわれがどれだけ消し去ろうと思っても消えずに、その存在を主張し続けるのが「痛み」
「無」のあり得なさを、痛み・苦しみが示すのではないのか?
「死」はもはやそこでは私たちは受動性でしかあり得ないという側面をハイデガーは見落としている? 1:19:
ハイデガーにとっては「自己の死」による「自己の生の全体の獲得」が肝要であったのに対して、「他者の死」を見落としている 人間は他者の代わりに死ぬこと(誰かの身代わりとして死ぬこと)もある 1:21:
上のことが、ハイデガーが思うほど周辺的な事柄であるのか?