読書メモ(そ):「前期ウィトゲンシュタインの幸福論」
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第一節
言語によって表現できるものを言語によって表現する(記述する)こと
言語によって表現しえないものを、言語表現(記述)されたものを通して窺い知ること
「論理命題や数学の等式…は何も語っていない擬似命題である」とはどういうことか? 2 論理命題などは経験的に真偽がつけられる命題ではない?
「記述の形式を与えるもの」とはどういうことか?
「記述の形式を与えるものは記述可能ではない」とはどういうことか?
『論考』における倫理についての語りは、倫理の命題が擬似命題であることを理解するために必要なだけであり、正しい理解を得た人にとっては不要となる「治療的言説」である 3
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第二節:幸福に生きるとは?
a:「世界との一致」
世界
現実 = 事実の総体
不変の実体を基にした永遠の相の下の世界 = 論理空間
論理空間における対象は、時空間の中に位置付けられた「生起し消滅するモノ」とは異なり、無時間的な可能性を構成する「不変のモノ」である 4 対象は事実から取り出され、またそのような事実とは私が経験する事実である 4
したがって、対象は私の経験に依存する
→ そのような対象が構成する、世界も論理空間も私の経験に依存する ⇔ 「世界は私の世界である」
「主体は世界に属さない。それは世界の限界である」
主体 = 事実を経験し、対象を取り出す私 5
↔︎ 世界を構成する対象は、客体である
⇔ 行動し思考し表象する主体ではなく、存在論的経験の主体 5
存在論的経験の主体は、出会う対象領域によって決定される
→ 対象領域が異なれば、過去の私(主体)と現在の私(主体)は異なる私である
対象(基底)が変わるのにつれて、論理空間・世界も変動し、さらに私も変化する?
→ 私は私の世界である
なぜか?
経験した対象・論理空間が異なっていても同じ私(主体)であると考えてもよいのではないのか?
b:「生の意義への信仰」 5
主体は動作主体・表象主体ではないのだから、世界の中で幸福や不幸を感じることはない 5
ramen.iconなぜ?
「世界の意義は世界の中にはなく、世界の外にある」
「「事実の総体としての世界」にも論理空間にも幸福が属する余地はない」のはなぜか? 6
生と世界に意義があると考え、そのように生きることを可能にするのは「信仰」である 6
「世界との一致」だけでは、生が意義を持つことは導けない 6
私たちは「生きている」と思いがちだが、実は「生かされている」ことを認識すべきだとウィトゲンシュタインは考える 6 私たちは存在論的前提としての主体であり、世界を成立させている本質的な存在である
「論理空間の中に自我が存在しないことを見てとり、自我を投げ捨て、世界と合一化し、幸福を信じて生きる。これこそ「生かされている」ということである」 6 c:「