自己目的的活動
「人生の意味に関するゲーム説の提唱」p. 51
≒ 「遊戯」
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自己目的的活動は、広義の遊戯的活動と考えることができる。これについてもシュリックを引用しよう。人生の意味は自己目的的活動に求められるべきだと述べる先の引用部分に続けて、彼はこう述べる。「実際にそのような活動が存在する。首尾一貫するために、私たちはそれを遊戯(play)と呼ばねばならない。なぜなら、それこそが自由で無目的な活動、すなわち、実際にその目的を自分自身の内に持つ活動の名前だからである」(Schlick 1979: 114)。「遊戯」とは、それをすること自体に快や楽しみがある活動である。それゆえまさに自己目的的活動の呼び名として適切だろう。
それをすることが楽しいことと、その楽しみがその行為の目的であるかは、必ずしも同時にあらねばならないのではない/arpla/久住哲.icon
下の引用のように
自己目的的活動#623fbaac7427b700007522b3
目的が活動の内にあるというのがレトリックとしては分かるが、意義が分からない/arpla/久住哲.icon
「目的」の語義が狭い可能性ある
ramen.icon一応ここシュリックによる「ショーペンハウアー的ペシミズム」と「それに対するニーチェ的な解答」の解釈#62443d7b7427b70000cdf37aで述べられているような「ショーペンハウアー的ペシミズム」を乗り越えるという意義がある(と筆者は考えている)のだと思う
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「遊戯」と「労働」は必ずしも不調和なものではない
例えば、収入を得るための職業上の仕事や日常生活を維持するための仕事は基本的に労働の性格を持つが、もしその活動自体が喜びや充実を与えてくれるものとして自発的に求められるのであれば、遊戯となりうる