自然は誰でも受け入れるのに公共緑地が私物化される
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2022-02-02雑記
最近、国・県・市のそれぞれのレベルで、今後のみどり(森林や里山)のあり方について話し合う会議に参加して、いずれも同じような印象を受けた。 それは、行政がみどりの価値について議論しないままに、あたかも私有財産のように資産運用を市場に委ねようとしていることである。 たとえば、国は「2050年カーボンニュートラル達成」のために、「幅広い国民各層が参画する国民運動」が必要と捉え、「企業の事業活動と森林づくり活動を有機的に結び付け、クラウドファンディングやESG投資等の民間資金」を活用するモデル手法の普及を目ざしている。 ある県は、都市近郊にありながらまとまっている里山について、「持続可能な管理・運営による自立した大規模緑地」というビジョンを掲げ、「民間の資金とノウハウを導入」して「緑地の保全と魅力の向上」を図るという。
しかし、これらの方針を読んでみると、その論理は突っ込みどころが満載である。
今日の森林・里山の置かれている状況を見れば、多様な主体が連携することで保全・利用していくこと、そのなかで、これまで以上に企業の参加を促すべきという方向性について、私は何も異論はない。
というよりも、このような手法が必要であることは前提としてよいだろう。
だから、問うべきはその先にある。
何のために、こうした手法を用いるのかである。
そこで、何のためにおこなうのかという目的に目を向けると、民間資金を活用する国の方針には、2050年までに温室効果ガスの排出を全体としてゼロにするカーボンニュートラルの達成が掲げられている。 この目的は、気候危機への対応として世界中で求められていることで、これ自体については何も異論はない。
しかし、この誰も疑問の余地を差し挟めない目的と手法をただ接続しても、それは短絡させるだけで違和感を覚える。
言うまでもなく、森林の価値は炭素の吸収源にとどまらない。 そのなかに「幅広い国民各層が参画する」意義は見いだせない。
国民のなかには炭素吸収源として森林が重要と考える人もいるだろうが、森林には公益的な機能・多面的な価値が含まれているから、幅広い人びとの参画による森林づくりが必要なのではないか。
1980~90年代に全国に普及した森林づくり活動・里山保全運動の背景には、森林・里山がさまざまな恵みやわざわいをもたらしているのは法的な地権者にとどまらないという認識の深化があった。
そして、あらためて森林・里山は誰のものかと問いかけ、地権者だけのものではなく、みんなのもの(コモンズ)であるという見方から、市民参加の森林づくり・里山保全が拡がったという経緯がある。 このコモンズという概念は、最近では斎藤幸平『人新世の「資本論」』などでもあらためて注目されているが、実践的には森林・里山の領域で、すでにさまざまな取組がおこなわれてきた。 私有地の里山を地権者とその有志で保全したり、公有緑地をボランティアが中心になって管理したりしてきた。
近代的な土地所有制度を維持しながらも、土地の所有と管理を分けて考える工夫をこらすことで、コモンズをつくってきた。
しばしば議論になったのは、活動にともなって発生する材の活用についてであった。
公有地の場合、間伐材はもちろん、剪定枝、落葉・落枝に至るまで、こうした資源は所有者のものであると一般には考えられている。 このため、こうした資源から収益を得ることは禁じられる場合が多かった。
自治体によっては、保全活動にともなう発生材は財産放棄するという例もみられたが、いずれにせよ、この問題は団体にとって非常に重要な問題であった。
私は発生材から収益を得ることについて認めるように何年にもわたり行政に働きかけてきた市民団体を知っている。
この団体は地道な調査を積み重ねながら保全活動を継続しており、けっして資源をお金に変えて儲けようとしているわけではない。
持続可能なかたちで資源を循環的に利用するなかで、お金に変えられるならば、そこで収益を生みだして団体の運営費に回そうというささやかな願いを聞き入れてほしいと要求してきた。
そのような市民団体と行政との長年に及ぶ交渉の経緯を思い返すと、近年の民間活力の導入に対する前のめりの姿勢には引いてしまうところがある。
「企業の事業活動と森林づくり活動を有機的に結び付け」ると書かれていても、国民を動員しようとしているだけではないかと疑ってみてしまう。
戦後に国民を動員してスギ・ヒノキを植林した歴史はどう省みられているのか、各地で議論を重ねながら森林・里山のコモンズをつくってきたプロセスはどのように大事にされているのかと問いただしたくなる。 公共緑地では、これまで公共性を担保するために収益を出すことを抑えていた。 民有緑地は、多面的な機能があるからと税金を投入してきた。
ここには緑の公共性や公益性についての議論があり、どう論理を組み立てていくのかという人びとの知恵がみられた。
ところが、近年の議論は、議題を設定する行政や公的機関側が、私たちには儲ける手段がないし、持続可能な管理はできないので、経営能力のある民間企業にお任せしますという内容なのである。
これまで緑の公共性について考えをめぐらせてきたという自負が、みじんも感じられない。
このような姿勢は国レベルだけではない。
私が住む町田市の「里山環境活用保全計画(案)」も、行政計画としては驚くほど公共性の視点と論理性を欠いた内容だったので、パブリックコメントに長い文章を書いて送った。
(→(仮称)町田市里山環境活用保全計画(案)に対するコメント)
また、冒頭に挙げたある県の方針も同様であった。
緑地の経営で自立を目ざすとは、いったいどういうことなのだろうか。
もし、この自立の意味が経営的な自立を指すのであれば、この緑地では収益性の高い事業に集中させることが合理的であるだろう。
公共緑地を所管する担当部署にみられるこのような姿勢は、あたかも自分が負債を抱えてしまったので、損切りして早めに売り抜けしようとしているようである。
しかし、当然、公共緑地は彼らの私物ではない。
役所のものでもない。
市有地の場合、狭く言えば、市民のものであるし、広く言えば、もっと多くの人びとみんなのもの(コモンズ)である。
そのあり方について、いい加減なプロセスで決めないでほしい。
だから、あらためて問うべきことは、私たちが森林・里山にどのような価値を見いだすのかである。
先日、NORAの活動場所である川井緑地で、カンカンと金属を叩く音が響いていた。 近づくと、知り合いの女性が、ひとりでステンレスの板を叩き、スプーンを作っていた。
数週間前、生木を加工するグリーンウッドワークの講座があったとき、その人は私と一緒に参加していた。
ものづくりが好きな方であることを知っていたけれど、なぜ森に来てスプーンを作るのか興味がわいて、しばらく言葉を交わした。
その人は、家の中で金属を叩くと近所迷惑になるといけないから、近くの森に来て、好きなことをして、保全活動に参加しているという。
また、その人は災害が起きたら川井緑地に来たいという。
たしかに保全活動にともなって薪はたくさん備蓄しているから、川井緑地には防災里山としての機能もある。 その人にとって、被災したときの心の拠り所として川井緑地があること。そのことが素敵なことだと思った。
その人は、親の遠距離介護があるために、決まった仕事に就くのが難しい。
福祉の周辺的な仕事をこなし、その労働環境のひどさに驚きつつ、時間を見つけて川井緑地に来ている。
その人は、子どもを学校に通わせていたとき、計算上は週に8日分働いていた。
当時は、子どものためと思って、力の限り休みなく働くしかないと思っていた。
今の自分からすると、その頃の自分にもっと力を抜いて生きたらいいと言いたくなる。
だから、いま都会で働き過ぎて疲れている人、生きづらさを感じている人に、もっと、まちの近くの里山に来てほしいと思っている。
忙しすぎて森や自然に目が向かないような人にこそ、里山が必要だと思っている。
ある研修では、こんな話を聞いた。
その人は、小学生から不登校になり、その後しばらくして引きこもり状態になった。
30代前半で社会復帰しようと外に出るようになったが、通常の仕事はきついので、ボランティア活動を中心におこなっている。
こうした自分の履歴について、ときどき話すときがある。
このような悩みが打ち明けられたとき、研修の講師は、「森は誰でも受け入れてくれる」「一人でもふらっと入れる森があちこちにあればいいと思う」と言葉をつないでくれた。
私にとっては、とてもしっくりとくる言葉であった。
このように緑の価値とは、誰にとっても同じように存在するのではなく、一人ひとりによって個別具体的に見いだされるものだと思う。
だから、一般的な森林・里山について議論しても面白くない。
ある森林・里山を持続可能なかたちで保全活用していくには、どうすればよいのだろうかと具体的に考え、実践を通して仕組みをつくっていくことが必要なのだと思う。
このことを踏まえて、どれだけ議論を一般化できるのかと考えると、順応的ガバナンス論が参考になると思われる。
すなわち、特定の森林・里山の意味や価値について考える場をつくり、その価値に共感する仲間が集う場をつくり、保全・活用を実践して、そのフィードバックをもとに次へと向かう仕組みをつくることが、大事だと言えそうである。
ともあれ、これまで緑の公共性をめぐる議論の蓄積や、市民参加による森林づくり活動・里山保全運動の経験をないがしろにして、経営的な観点からのみ緑資源の価値を捉え、民間活力の導入を訴えるような潮流には警鐘を鳴らしたい。