現代の呪縛からの解放
#読書 #登山
2021/9/26 服部文祥 山日新聞p11
https://gyazo.com/9f97be1d26eb34309d059896be495bea
廃村に残る小さな古民家をただ同然で手に入れて、三年が過ぎようとしている。上流の湧水を引き、雨漏りを直して、土間を打ち直し、かまどを整備して、便所の穴を掘り、抜けた床を張って、崩れた土壁を塗り、窓を新設して、五右衛門風呂を復活させ、ソーラーパネルを設置して、畑の獣除けを直して、耕し・・・。
譲り受けた当初、イメージしていたのは築110年の古民家で別荘生活することだった。だがそこには、ほんの少しだが決定的な違和感があった。
母家をよく見ると、くぎを使っていないのはもちろん、建材の全てを現地で調達しているようだった。梁と柱は槍かんなで荒仕上げされ、土間と土壁は裏山の土からできていた。
食糧を燃料を山中で調達しながら道のない山塊を長く旅するという登山(サバイバル登山)を20年ほど実践している。イワナや山菜を採りながら河原や森で眠るので、山旅中はお金を全く使わない。「生きる」が「(金を)を稼ぐ」とほとんど同義になってしまった今の世の中にあって、お金を使わずに長期間過ごすことで生きる意味について考えさせられた。
そんな経験があったからなのだろう、古民家のすすけた梁に浮かぶ槍かんなの削り跡を見ていて、物を購入しないで現地調達することが、実は生きる楽しみを生むのではないかと思った。古民家最大の魅力は、見た目が昔風の現代的別荘生活ではなく、自給自足が現実的かつ自然にできることではないかとピンときたのだ。
必要なものは買った。ビス、ペンキ、石灰、ホース、ソーラーパネルとバッテリー、12ボルトのLED電球、そしてお米。だが、修繕のための木材と土は裏山から運んだ。生活用水と燃料も全て山から得て、明かりと僅かな電力だけ太陽光で賄う。現金をほぼ使わない暮らしには、生きるには現金収入がいるという現代の呪縛からの解放感があふれている。
おもちゃのトカゲと生きているトカゲを並べて「どっちが本物?」と聞かれたら、よほどひねくれていない限り、生きているトカゲだと答えるだろう。「本物」とは複雑な概念だが、自然物は本物で、それを模した人工物はニセモノというのは「本物論」の柱の一つといえる。
私が登山や廃村生活で現地調達する食べ物や燃料は自然物である。労力、知力、技量で手に入れるので無料だ。自然物=本物=無料と頭の中でつながり、それでは逆に「有料=ニセモノ」なのかと考えた。これは奥行きのある問題で、私の最近のテーマになっている。
色々考えた結果、「本物は売っていない」は、ちょっと言い過ぎだと結論付けた。ただ、何かを購入するとき、自分は何を買おうとしているのか、一つ一つ検証してみるのは、人生を楽しむために無駄なことではない。
関連記事
「山はお金がかからない」“サバイバル登山家”になって22年…なぜ服部文祥は廃村暮らし(電気なし、ガスなし、水道なし)を選んだか