作文のお作法
1. 書くことについて,何を書き,何を書かないか
1-1. 何を書くか
書き物をする上での指針
書き物をする上で避けるべきこと
1-2. 何を書かないか
書き物についての自分史
書き物をする上での姿勢や心構え
書き物をするための道具の選択
書き物をすることで得られる効用
2. なぜ書くか (動機・目的)
なぜ書くのか.書きたいからだ.と,快刀乱麻な即答が許されるなら苦労は少ない.
書きたいものを筆のすさびに書きつける気ままな作文だけでは,この世界は立ち行かない.
人は往々に強いられて書く.
誰彼に強いられるともなくまとまった作文をする人間は,おそらくそう多くはない.
2-1. 好きで書く
さて,気ままな作文に際しては,それこそ気ままに書けばいい.
好きに手を抜けばいいし,好きに手を入れればいい.
なぜそんな無作法が許されるかといえば,
書きながら,それを読む人間を具体的に想定しなくて済むからだ.
もちろん,想定して書いてもいい.
気ままな作文とはいえ,具体的な読者を想定して書かれたものが,
そうでないものに比べてずっと読みやすいということはあるだろう.
しかし,そこに義務はない.
2-2. 強いられて書く
ひるがえって,強いられてものを書く時,そこにはいつも具体的な読者がいる.
例外は極めて少ない.
無視しても差し支えないだろう.
だから無視して断定する.
人が強いられてものを書く時,その書き物には必ず想定すべき読者が具体的に存在する.
想定すべき読者が具体的に存在する時,彼や彼女を無視して書き物をすることは出来ない.
なぜなら,具体的な想定読者が存在する時,そこには具体的な想定読者からの具体的な要求が存在するからだ.
強いられて書く時は,これらの具体的な要求を満たすために書くことがほとんどだろう.
そこには義務がある.
2-3. 義務
では,その義務とはどのようなものだろう.
読者からの具体的な要求は,それが具体的である以上,内容も形式も様々だ.
とはいえ,書き手が読者に対して果たすべき義務は限られている.
読者は書き物に対して,具体的な効果を期待している.
それは特定の知識の獲得かもしれないし,ある種の感情の喚起かもしれない.
いずれにせよ,書き物が期待される効果をあげるためには,その内容が読者に伝わらなくてはいけない.
可能なら,過不足なく伝わらなくてはいけない.
さらに可能なら,容易に,そして効率よく伝わらなくてはいけない.
つまり
強いられた書き手が書き物の中で果たすべき義務は以下のようなものだ:
読者の期待する効果を内容の伝達によって実現すること.
その内容が,過不足なく要求を満足していること.
その内容が,容易に効率よく伝わるように工夫されていること.
そして,確かに期待する効果が得られたと読者自身に認識させることも,
広くとらえれば書き手の義務と言えるかもしれない.
3. どのように書くか (手法・指針)
さて先述したような義務を果たし,読者の期待に応えるため,
強いられた書き手には何ができるだろう.
もちろん,”読者の要求をきちんと聞く(読む)”というのは大前提だが,
要求が要求としていつもまとまっているとも限らない.
世界はそんなに綺麗ではない.
それでも義務は義務として果たさなくてはいけない.
だから要求の内容や形式を問わず無心に採用できるいくつかの手法と指針を,
僕は自前でこしらえた.
以下でそのひとつひとつを挙げながら,簡単な解説を付けていくことにする.
3-1. 文は短く
長い文は読みにくい.これは言語記述一般に適用される大原則だ.とはいえ,あくまで原則なので,例外はある.しかしその例外は,訓練された高度な修辞と透明な構造によって支えられた技術の結晶だ.世界に溢れる多くの長い文のほとんどは,単に書き手の練度の不足によってそうなっている.
練度の足りないうちは,とにかく長い文を書かないことだ.そのためには,
・ひとつの文ではひとつのことだけを表現する
ということを意識したい.
では,長い文,すなわち読みにくい長さの文とはどの程度の長さの文か.基準として,
・ひと呼吸で読めない文は長すぎる
ある文を声に出して読んでみて,途中に息継ぎが必要であれば,その文は長すぎる.適切な接続詞を間につないで複数の文に分割すべきだ.
もうひとつには,
・読点が3つ以上ある文は長すぎる
ある文を見て,3つ以上の読点が含まれていた場合,その文は複雑すぎる.ひとつの文がふたつ以上の内容を表現しようとしていないか,確認するべきだろう.
3-2. 形容詞の節約
形容詞は文を読みやすくも,読みにくくもする.文を読みやすくする形容詞は,形容対象をよく説明する形容詞だ.
一方で,ただ形容したまま,その実態を説明せずに文中で役割を終える形容詞もある.これは読み手にとってノイズでしかない.多くの文章は,ほとんど役割を持たない不要で冗長な形容詞であふれている.
形容詞を使う場合,可能な限りそのように形容した動機や背景が読者に伝わるようにする.なぜそのような形容に至ったのか,形容詞を用いずに説明できることが望ましい.もしできないなら,それは形容として不適切か,あるいは形容詞が必要な場面ではない.
しかし,そのような推敲はえてして非常に面倒くさい.だからまずは,
・安易に形容詞を使わない
ことから意識する.
3-3. 接続詞を多く使う
一般に文章が読みにくい理由は多種多様だが,論理的整合性が取れていない,というのはその主たる原因のひとつだろう.これを回避するためには,文章の論理的整合性を確認するためのコストを下げればいい.つまり,ある文とそれに前後する別の文との関係を明示できれば,この確認は容易になる.
ところで,日本語における接続詞というのは,それが繋ぐ文同士の関係を明示するための品詞だ.これを文中で適切に用いれば,文と文の関係はグッと見通しがよくなる.
では,接続詞の適切な用法とはどのような用法か.簡単だ.
・なるべく多用する
これに尽きる.本来,ある文章の要素として各文は,それぞれが有意味で固有な役割を持っているべきだ.そして,すべての文が有意味ならば,有意味な文同士には必ず有意味な関係性が存在する.すると,すべての文と文との間には,そこにふさわしい接続詞が存在する,ということにもなる.この仮定を受け入れるなら,省略するだけの十分な理由がない限り,接続詞は明示すべきだろう.
そうすれば,書きながら常にその文章全体の論理的整合性を意識するようにもなるはずだ.
3-4. 終助詞の統一
終助詞は語調と文体を強く制限する.例えば,以下のような傾向がある:
・ ”です・ます” 調は丁寧で平易な文体を要請する.
・ ”である” 調は厳密で格調高い文体を要請する.
・ ”だ” 調は標準的でよく整理された文体を要請する.
どれを選んでもいい.しかし,一度どれかを選んだなら,変えてはいけない.ひとつの文章の中で終助詞がバラバラなのはいただけない.
読みやすい文章は,終助詞の選び方がほどよく統一されている.そうでないと,読み手は終助詞のバリエーションごとに書き手の意図を読み取ろうとするからだ.もしそこに特別な意図が無ければ,読み手に余計な負担をかけてしまう.
また,そこに特別な意図を込める場合も同様だ.意図した演出の効果を存分に発揮させるには,他の部分との差異が際立っているに越したことはない.
3-5. 数字表記の統一
熟語などの特殊な例をのぞいて,同じ文章内に漢数字とアラビヤ数字を混在させてはいけない.読み手はその表記揺れに書き手の意図を汲み取ろうとする.漢数字で可読性が落ちる箇所がひとつでもあるなら,迷わずにアラビヤ数字を使うべきだ.
3-6. 主語と動詞を密着させる
出来る限り主語と動詞を密着させよう.これを疎かにすると,どれだけ文意に工夫を凝らしてもその意図が掴みにくくなる.特に文にボリュームがある場合は主語を文末近くに配置して,掛かる動詞との間に他の要素を挟まないようにしたい.
3-7.並列と直列
文中で複数の情報を提示する際,それらを並列化するか,直列化するか.は本質的な問題だ.つまり,情報を提示する順序に意味がない場合は並列化,意味がある場合は直列化すべきだ.あるひと塊の情報が,うまく並列化も直列化も出来そうにない時,そもそも提示すべき情報が整理され切っていない可能性が高い.それに気がついた時こそ,情報の構造化プロセスを再検討すべきタイミングだ.
3-8. 動詞には和語を使う
漢字は偉大な発明だ.
この表意文字はまるで絵画のように意味を圧縮する.
しかし,圧縮された意味を解釈によって解決することも読解コストになり得ることは念頭に置いておこう.
ある程度成熟した書き手は,しばしば漢字,ないし漢語を使いすぎる.
この傾向は特に動詞について顕著だ.
なぜなら,自分の表現したい内容をギュッと圧縮して出力できるからだ.
しかしこれは,いじわるな言い方をすれば,
読者に情報を”解凍”させるコストを押し付けているとも言える.
情報の圧縮にある種の技術やエレガンスを感じる向きもあるだろうが,
それを解釈することが読者のコストである点に変わりはない.
本来書き手が注力すべきは,情報の圧縮ではなく,
情報の抽象化だということを忘れてはいけない.
ではどの程度の抽象化が妥当か,というのは非常に難しい問題で,
一般的な回答はおそらく一意には存在しない.
そこで,そんな難題に対して僕が使っている手法が,
漢語の和語による言い換えだ.
もう一歩踏み込んで,ひらがなを多用すること,と言ってもいい.
和語の多くは漢語よりも平易な表現と認識される.
情報の圧縮率が低いからだ.
その分,ともすれば幼稚でぎこちない文にもなりかねない.
この辺りの調整に書き手の腕がでる.
しばらくこの言い換えを試していると,
自分がいかに漢字や漢語の持つ雰囲気を駆使して文章を書いているかを実感することになるだろう.
雰囲気で選んだ言葉で伝わるのは,雰囲気であって情報ではない.
また,ある表現について漢語を使わずに言い換えるとしたら?
と考える機会を持つだけでも,表現の幅を広げる訓練になる.