N/W日誌
2021年
9月19日(その2)
もしかすると、親切な作者が増えたのか。親切=技術なのか? 「親切で信頼できるが、不誠実で嘘つき」というのは、一切矛盾せず成立する。しかし、この矛盾しないというのは、偽善だ。
不親切で信頼できないことによってはじめて、新しい現実を手に入れることができる。嘘のような現実を。これは「作中主体」があっては、不可能なことだ。
「嘘のような現実」が喚起した「現実のような嘘」は、「嘘のような現実」を喚起する。社会(詠)の対極に位置する「現実」と「嘘」を、演技のように繰り返しながら、矛盾するように「社会」をも取り込んでいく。
9月19日(その1)
ここ1ヶ月で目にした最近の若手(特にここ数年ではじめた人)の短歌に対し(自分は若手未満なので偉そうに言えないが)、アニメのサザエさん的な「シチュエーションを賄うだけの登場人物がすべて出揃い関係性が飽和した世界観」を感じる。モチーフだけでなく語彙に関しても。当然、私の短歌も同様の特徴を持っているだろうけれど。
また、あくまで個人の感想だが、これとは逆に、昔(戦後)の若手の短歌は、前衛とかアララギとか関係なく、長期連載の少年漫画が登場人物を増やしていくような、足りなかったパーツ(人物)を埋めて、飽和を解消させようという指向を感じる。
前者(最近)について、最近の若手は情報に接する機会が増え、目が肥え、短歌の技術も上がっているので、「関係性の飽和」を飽和だと認識する感性をもっている(人が多い)。そのため、(短歌内で)二次創作的な手法で、飽和を解消しようとしているのかな、と思われる例が見られた。しかし、これに関しては、確実に悪手だと思う。解決したように見えて、より飽和していくし、どこかに不誠実な部分が生まれると思う。印象論なので、印象に過ぎないが。
ありえない仮定だが、もしトランプが短歌を作ったとしたら、自身で作る技術がないので、エピソードをもとにライターが「編集」するはずだが、そこにあるエピソードはたぶんあまり類をみない俗悪なものではありつつ、「情報」をもとに編集されたことで、「社会詠」として成立してしまうのではないか。トランプでも(たとえば)カニエでもいいが、そういう危うさが飽和にはあると思う。この危うさを解消するのは、二次創作ではなく(より飽和させるだけなのは明らかだ)、ロジックの強化・判定・峻別だと思う。
真偽の判別によって誠実さを判断しようとすれば、まず真偽の把握のためにフェイクの存在にお墨付きを与えてしまう。言ったもの勝ちというか、言語の加害性が増すだけだと思う。(飽和の一つの例として)立場の揺るぎない傲慢さを破壊するのは、ロジックだけではないか。
文量約一行の中で働くロジックとは何か考えると同時に、ロジックをハッキングする批評から、どうやって言葉(単語)にプロテクトをかけるかという戦いも、想像できる。
9月18日
結局1ヶ月のツイッター期間中で、目的だった「社会詠とは何か」は今のところ分からないままだが、このツイートを見て、大袈裟に聞こえるかもしれないが、ものすごく救われた。これだけで十分ツイッターをやったかいがあった。
9月11日(その2)
純粋にテクストとしてテクストを処理するためには、あまりにも外部の情報が多すぎ、ばらまかれた外部の情報を内部の情報だと誤解する人が実際多いという意味で、SNSは極めて政治的だと言える。
政治性(作者がどう言おうが、「振る舞い」がある時点で政治的である行動、に端を喫した評価)を、偽善的に「読みの修練・巧者」で誤魔化すよりは、露悪に傾いてゼロ(マイナス)にする方が、メディアとしてスパイシーでフェアだという考え方は、自分みたいな共同体に一切属していない、完全に無視されている人間にとっては、よく理解できる。それが上品かどうか、共感できるかどうかとか別として。
自分がもし怒りを感じるとすれば、「自分たち」が(多かれ少なかれ)政治的であるとレッテル付けられた(そうラベルを貼られたことの)ことの言い訳のように、N/W的なものを、そのテクストに大した興味もない(なかった)(わからない)のに、「過去にいた・素晴らしい・不遇な・若死にした・気難しい・作者」扱いしてミューズのように美化される(「だし」にされる)ことだろう。(たとえば)N/Wという名が唐突にでるのだとしたら、ある程度図星だったんじゃないかと個人的には思うけれど。
「社会」と多少関連あると思うので、期間限定とはいえツイッターをしているから雑談扱いで言及したけど、正直どうでもいいというか、共同体外にいたので、自分とは一切関係ないというか、人によって程度の差はあるのだろうが、よく盛り上がれるな、というのが実感。
短歌が体験・経験であることから逃れようとするために、社会が仮定されるとしたら、社会と一体化しない形で、かつ視聴者でないまま逃れることは、可能だろうか?
9月11日(その1)
SNSをやっていると、関心があまりない物事に対してもつい言及したくなる、あるいは共感したくなる。それと同じ力が、短歌にもあると思う。その「したくなる力」自体が「作中主体」と呼ばれている気がする(皮肉だよ)。
つまり、共同体=社会だと誤解させる力。
韻律に重きを置くと、すなわち(意味の・音声の)定型化が始まる。意味の定型化が醜い(ダサい)と認識して、ノイズを入れるのは良い。でもそれでは、ノイズ外の定型(わずかに形の崩れて聞こえる)は醜いままで、ノイズにならないのではないか。ただノイズをプラスしただけの、定型そのものなのでは?
人間の思考の起承転結にノイズを入れ込み、遅延(高速)させれば、リアルになるという価値観に、きっとリアルは耐えられない。
引き算と足し算で括られるほど、起承転結はそれぞれ飛躍していく。
白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ/若山牧水
リフレインに似せて、断片がより私を断片に。
雪ぞ降るわれのいのちの瞑ぢし眼のかすかにひらき、痛み、雪降る/若山牧水
うつしなば雲雀の影もうつるべし写真日和のうららけき空/落合直文
たぶん露光について詠んでいるんだろうけど、この短歌の「リフレイン」も、「断片がより私を断片に」する感じがして好きだ。「べし」が効いているのかはともかくとして。
海底に眼のなき魚の棲むといふ眼の無き魚の恋しかりけり/若山牧水
うなそこのうをのまなこにうつらずて あるばとろす は とはにうたびと
そらのあを うみのあを とはことなれるあをさもて咲くほかなき 死びと
なみおとのほかうちよするもののなきほらぬち 化石 つばさのくわせき/吉田隼人
9月10日
短歌におけるご都合主義について考えている。ご都合=脱社会化なのではと思う。そして、キャラクターが介在すれば、ここは社会だ、と誤認させられる。自分は「失敗している短歌」が結構好きなのだが、この問題と関係がある。
9月9日
建物のあいだを濡れた優勝旗みたいな蜘蛛の巣の通せんぼ
愛はためらわない 海の小学生しろくうすぐらく切り抜いた
長い髪のまま飛行場のまぶしさに声が出るみつかってしまった/我妻俊樹「猛獣」
初読の印象ですが、 かくれんぼ・通せんぼ・〜〜ぼ(鬼ごっこ?) の三すくみがあるような気がして、とても面白かった。
9月8日
馬のごと産まれ落ちたるあれこれのひとつに寄れば淋しい井戸さ
やはらかにホースは曲がり脳髄にそそぐかなこの冷やけき夢を/鳴海宥
モチーフとモチーフの間。「空白のモチーフ」が、コップに浮かぶ氷のように、短歌を冷やしている感じがする。
重要なのは、モチーフがいわゆる「名詞」ではなく、不定形で温度によっては溶けてしまう、溶けたものをもう一度「全く同じ形」には整形できないということにあり、氷を溶かそうとする意志に対して、部屋の温度はあまりにも低いということにある。個人的には、この部屋の凍えそうな寒さが良いと思う。
9月5日
外部情報を想起させるためのモノローグとしての短歌は、モノローグであろうとすることで、むしろ、モノローグであることを放棄している。 主体性を単独では維持できないので、情報に頼ろうとしている。もはや情報のトレースこそリアル(写実)だと言わんばかりに。そもそも外部情報が本当だという確証も、(特に現代においては)どこにもないのでは。もしくは本当でありつつ別の情報をトレースしただけとか。ダミーとして配置するのでなければ、モノローグの価値はゼロに等しい。
9月4日
作中主体という言葉がとても嫌いで、自分で使うときはもれなく皮肉で使っているのだが、理由としては、もし作中も主体も存在しない作品が出てきたら、どうするのだろう。どうもしない。短歌の業界では国籍不明の短歌として処理されるはずだからだ。つまり無視、よくわからないもの、上等でないもの。
あるいは皆、履歴書がほしいのだろう。自分が人を雇う側にいると思い込むために。 個人的には、どうせ雇う(「いいね」「引用」する・選歌する・批評する)なら、もっと語りの技術・誠実さ・独創性の方で雇ってほしいと思うけど。
現実に合わない(非現実だ)ではなく、社風に合わない(非短歌だ)だから。ありふれている差別として考えれば、非SNSだ、も。 短歌に虚実を混ぜて現実の自分をよく見せようみたいなものがたまにあるが、そういったフェイクに惑わされるのは、履歴にこだわりすぎているからだ。
雇うという比喩を使ったが、(承認)欲求よりも適切な比喩だと思って使った。今や短歌における「コミュニケーション」は、それぞれがより多く利益を得るための取引ではないかと思っている。
9月2日
観測してもしなくても存在する情報に、アクセスするための知識。観測点を短歌の中に明示することで情報を遮断する手つきは、フリック入力だとして、それ以前の「古典的な遮断の方法」は一体何だったんだろう?
9月1日
分かりやすい短歌=社会的な短歌だと思いがちだけど、分かりにくい短歌=社会的な短歌で、分かりやすい短歌の方が非社会的なのではないか。
作者(短歌作品において仮人格のように顕れる「らしい」作中主体と、その(作中主体の)集合知であるSNS人格+批評などの散文人格)にとって、分かりやすい短歌とはメディアであり、作者外部に働きかけるプロパガンダ以上でも以下でもない。消費する読者とは無関係な、広告という情報に過ぎない。
アンモラルであることがモラルと等価値である以上、ここに社会を構成する仕組みや、共有されるべき価値観は存在し得ない。購買そのものではなく、購買意欲を刺激するだけ。購買に結びつかない情報を、メディアから得てリスポンスをしていると、確かに社会に参画しているという気にはなるが。
8月26日(その2)
意味が生じる前に意味を破壊するのと、生じた意味を最後に破壊するのとでは全然違う。これを混同した短歌や批評が多いと感じるが、通俗的でわかりやすい短歌・文章として消費され、わりと広まることが多い。
現代の短歌には、自分についてのCMか、固有名詞についてのCMか、という2択しか存在しないのではないか。あるいは、固有の意識を購入したいか、共有のスペースを購入したいかの2択、とも言い換えられる。
固有名詞を使わずに名詞を固有させるのは、技術的に可能だけど、そのスペースが共有可能かどうかは、購入代金をどこまで値切れるかにかかっている。書き手・読み手が盗賊であれば、そのスペースは共有可能だ。
8月26日(その1)
宮崎信義の短歌は、時期時期でスタンスの差はあるけど、どれも、ザッピングして見えたものをそのまま詠んでいる、という感じがする。あまりにも通俗的すぎるため、意味が解体された短歌がたまにあって、非常に微笑ましい。
「借り物でない自分の眼で見、感じたことをその中心に向かってうたい上げる」と「口語自由律短歌概論」という文章で書いているが、実は、目に映るものはすべて自分が社会から借りて置き忘れたものだったという「滑稽さ」に、作者総体としての微笑ましい個性があると思う。
あわてても仕方がない 海へ太陽が沈んでいくので少し余計に食塩(しお)をかける
黄色い空のにせもの アドバルーンを青い信号が追い上げる
私は走る キリンも走る 人類の若い歴史をもやして/宮崎信義
8月24日
ひじやうなる白痴の僕は自転車屋にかうもり傘を修繕にやる/前川佐美雄
気の弱いせいねんのまま死ぬだらうポッケに繊維ごちやごちやさせて/吉田隼人
白痴の僕という自己規定がある限り、「自転車屋」は社会を構成する部品とはならず、「白痴」が社会を構成する部品になってしまう。
では完成形とは何だろう。
砂糖/亡霊から砂糖=亡霊になるような、すべての結晶がアフター・サービスとして味覚か叙景をもつような。アフター・サービスをもたない「繊維」が社会の部品から脱落しているところに、「砂糖と亡霊」のモダニズムからの超越があると思う。
佐美雄のこの短歌について、ロジックを破壊するディティールという側面から評価することもできるけど、外部から観察する目・内面からの目に分岐したモダニズム短歌には、逆に、ディティールを破壊するロジックが必要だったのではないか。不勉強で自分が知らないだけかもしれないけど。
8月23日
ある機会を社会へと敷衍させようとする欲望が存在するのだとしたら、社会「すべて」をある機会へと収斂させようとする欲望は可能だろうか。
二千メートルの空で頭がしんとなる、真下を飛び去る、山、山、山/前田夕暮
見る見るかはり来し眼界にかたまりて黄色におきふす山/斎藤茂吉
マリオカートのような、ゲームへの純粋な欲望。
8月22日
死者にとっての社会詠。すでに死んだ者/これから死にゆく者の作る短歌は、想像力「以外」によって、境界の向こう側/こちら側を反転させることはできるのか。死者(あるいはここにいない者)について詠むという傲慢さは、境界をより境界にする。想像力を喚起させるモチーフに依拠すれば、テレビのような感動をもたらすが、現在から距離は遠のくのか。
生活感と批評は一見違うようで、あまりに密接し、すべてをテレビ画面に収めていく。
韻律が良いことが、ポエムを肯定し、社会を肯定する。負の韻律を痕跡にした短歌に、ポエムを残して。もう誰も脱SNSなんて目指さないかもしれない。
が、この歌の自己規定は?
わたしのあたまのなかになんにもあたらしいものがなくなつたとおもふとき家へかへる
うすくらき
風呂場の光にしみじみと、
見るわが肉の赤き光かな。/西村陽吉
いろいろなものに対し、服装と口調にすべてを明け渡してから、批評をはじめたら、と思う。
8月21日
私が小野茂樹が好きなのは(全肯定はしないけど)、弛緩した語りに対して誠実だからかもしれない。「ホットケーキ論」は誠実さが勝ってしまったものの、抒情を偽装するのに成功した稀有な例。
蜜したたるケーキのかけら耐へきたる不在の遠き飢ゑ満たすべし/小野茂樹
「蜜したたる」という無防備で安易な破調は、「耐へきたる」をノイズ化して、下句を有害に(苦く)している。
崖のように崩落したケーキが残した最後のピース、ケーキがケーキであったことを証明するのは満腹感=実感。そこにたどり着くまで、本当に耐えてきたのか? しかし、雨のような蜜は、不在を証明してくれる。この証明は舌を麻痺させてから、ゆっくり飢えさせる。
8月20日
(ここ数年の短歌についてほとんど知らないので実情と少しずれているかもしれませんが)社会詠(機会詠ではない)からドキュメンタリーにどうやって接近するかが、2010年代からやり残されたテーマの一つだと個人的には思う。
ここでいうドキュメンタリーとは、脱フィクションでもリアリズムの強化でも、体験の普遍化でもない。 対象へいかに親和するか/しないか、対象がいかに親和してくれるか/親和しないか。 脱コミュニケーションが鍵かもしれないと、まだ考えている途中の段階。
8月19日
社会をいかに映し出すか、ではなく、社会をいかに共感たるものにするか、つまり「社会対自分」を人々(アンチ社会)の心へ訴えかけるものにするか。もしこういった目的こそが、ある短歌のコアだとしたら、アンチ社会=自然なのではないか。その場合、自然とはいったい何だろう?
自然であるという仮定がなければ、多くの社会詠は存在しようとする意志さえ持ち得ないだろう。現在地を求めようとする自分探しの旅にも、残念だが旅費は必要だ。旅費を払わない旅、という意味で、社会詠を分析してもいいかもしれない。
たとえば、
「先生、吉田君が風船です」椅子の背中にむすばれている/我妻俊樹
この短歌は、「旅費を払った旅」として、存在しようと「しない」という姿勢において、一種の社会詠かもしれない。
2020年
6月30日
・今日は7月1日です。6月30日はもう存在しません。
6月29日
・昼まで雨が降り続いていた。外出。久しぶりにコロッケを食べる。
6月28日
・半年ぶりに気に入っていたカレー屋に行くが、跡形もない。空き地になっている。ただこれはコロナとは関係なさそう。味は良かったが、立地が悪くもともと流行っていなかった。直帰。CDを聞いて過ごす。
・鶏が先か卵が先かという議論があります。鶏も卵も先ではありません。どちらも遅れてやってきたものです。先にあるのはDNAであり、現代においては畜産業の従事者であり、消費者である。消費者が望まなければ鶏も卵も存在しない。では野生の鳩と野生の鳩の卵では、一体どちらが先にあるのでしょうか。ヒントは野生とは何か、です。
・一義的な価値観(だけ)を有する言葉を、多義的に再解釈するシステムコード。詩的飛躍と散文的飛躍の差を知っているか? 詩的飛躍は、「敵」の思想を取り込むことでしか生じない、つまり一人のテロリストの誕生というわけだ。テロルが詩「的」に射られるあいだはいいが、やがて「的」は壊れるだろう。想像力とは散文的飛躍のことだ。そして詩的飛躍は跳躍でも飛行でもない。パフォーマンスでそう見えるだけである。
6月27日
・パッケージを工夫して権威志向・権威主義・差別性をあたかもフレンドリーであるかのように装う批評・歌集、というのがかつてわりと多く存在し、それらがフレンドリーの文脈で、あたかも聖書・聖者であるかのような持ち上げられ方で評価される、という地獄絵図がかつてわりと多く散見されました。しかも批評⇄歌集の往復によりその権威性がマッチポンプのように増していくタイプの地獄が。Twitterで権力を持つ=フォロワーが多く断言的な物言いの多い(若手、男性、が多いですね)歌人が、「評価する」ポジションを取ろうとあくせくつぶやいている「字面」が目に浮かびますね。
・ひと昔前の世代の差別主義・男性中心主義・権威主義、を批判する若手男性歌人が、彼が属したコミュニティでは、スキンシップにかこつけたセクハラをしていたり、常軌を逸した(ネット含む)ストーカー行為に及んでいたり、ナルシシズムを自己正当化で覆い隠し、あたかも被害者面をした虚偽に塗れた演技で、まさに自分の思い通りにいかないのは女性や周囲が悪いと言わんばかりにコミュニティを破壊したり、とクローズとオープンで発言と行動が矛盾している場合、そういった人間がおこなう男性中心主義を批判した批評というのは、どの程度効力をもつものでしょうか。こういった実のない批評が、あたかも正統なジェンダーの批評として流通しているのが、現在です。自分の考えでは、これこそMe Tooが否定した世界だと思うのですが、パッケージの巧妙さ、批判された側の権威たちの「自分たちが寛大であるということを示す以外に何の意味ももたない、物わかりのいい態度」によって、多くの人間に受け入れられてしまいました。
・上記のことを思い出したのは、たまたまある文豪のセクハラ疑惑が死後に明らかになったからです。その文豪をあたかも聖者のように神聖化していた人たちは、セクハラという事実により、それまでの自身の言説とどのように直面するのか(直面しないのか)という興味です。きっと聖者について語ることで、自身の差別性・欺瞞を自己正当化しようとしていたのでしょう。
・聖者、というとイメージが固定されるのであれば、仲間でも道化でも新鋭でも、何でもいいです。何でもいいというのは、つまり何かを冠するというのが、今後は権威の一つになるのではないかと思うからあえて限定しないという意味です。権威とは一般に知れ渡っている権威と、クローズドな場における権威の二種類あり、それらを区別できない自分の頭で考えることのできないSNSでわかったような気になっている人々によって、「そんなことで怒るなんて」という倫理観の問題へとすり替えられてしまいます。
・最初の話に戻ります。パッケージとは、具体/抽象、もしくは具体/本質の関係で考えると分かりやすくなるかもしれません。Me Tooが告発・当事者性・行動に基づくという意味合いにおいて、批評の内容と書き手の行動の矛盾がある場合、批評の内容(具体)がどれだけ「正しい」ものであっても、正しさは本質(現実におけるハラスメント)によって無価値になるということです。パッケージとは具体のことだと考えても相違はないでしょう。誰でも「正しいこと」は言えます。それを吟味することは、SNS上では不可能で(もしくはラグが発生する)、もし時間差で事実が明らかになったとしても、権威が生じてしまうと事実は批評に対し効力を持ち得ません。これが理想に近づいた世界でしょうか。
・権威と真逆の位置にあるのは、無名、もしくは無言です。そして意外に思うかもしれませんが、行動です。念のために言えば、匿名とは権威の別形態です。
・何が行動にあたるのかという思考が必要だと思います。行動が十人十色、個性をもったときにSNSとは無個性な場所だという気づきが生じるはずです。自分はその先に、Twitterという巨大な匿名・実体のない聖者を破壊する何かがあると信じたいと思います。
・「恥を知れ」と思います。
・自分は告発できるという自由が、現在のいいところですね。5年前には自由がなく、怖いやつだというレッテルを貼られ、誰も話を聞いてくれませんでした。まだ完全にはほど遠いですが、内容について理解される確率は、時代の変化によって増していると感じています。
6月26日
・「そこで彼は、夜になって欲しい、暗闇の中で心安らかに過ごしたいと思う。光というのは、尋問室で当てられる電球の明かりがそうですが、何かを追及するような暴力性を秘めていませんか。私は、個人的には暗闇がいいと思っています。暗闇では、心が穏やかになります。」
・zoomの画面に関するネタ画像が流行っていたみたいです。小津安二郎作品の映像の一部、あるいはマーベルや手塚作品のキャラを、オンライン会議風にキャプチャしたり・・・。以前からオンラインでの中継や会議自体はありましたが、それがコロナにより一般に普及したということでしょうか。もしくは画面の分割、分割した画面自体に向き合うこと(ゲーム実況やskypeとのは向き合い方とは少し違っていますね)のが目新しくうつったのかも。
・個人的に、コロナにより生じた「オンラインの画面」でもっとも印象に残っているのは、2020年3月19日アテネでの聖火引き継ぎ式で流された、元アスリートたちのビデオメッセージです。
・3月2日からの小学校の休校が要請されたのは、2月27日の第15回新型コロナウイルス感染症対策本部において。zoomが日本の小中学校へのzoomサービス無償提供を開始したのが3月1日。「リモート飲み会」がはじめて地上波に取り上げられたのは、2月28日です。それ以前も「対コロナの」オンラインでの飲み会はあったようですが、本格的にブームとなったのは、「三密」という言葉が生まれた3月9日以降か。精密な検証が目的ではないのでここでは端折りますが、企業のコロナ対策は、中華圏・イタリアとの付き合いによって差はあれ、テレワーク化(できる)企業のオンライン化は、2月下旬〜3月上旬に本格化していたように思います。オリンピック延期3月24日志村けん死去3月29日付近から「自粛ムード」が始まったと記憶していますが、上記の出来事を鑑みるに、ムードの醸成は3月中旬だったと考えて異存はないでしょう。
・本題に戻りましょう。印象に残っている「オンラインの画面」、元アスリートたちのビデオメッセージですが、これは分割画面ではありませんでした。大画面に一人がフィックス・バストショットで映っていました。正確には「zoomの画面」「オンライン会議の画面」ではなかったですが、この映像が自分が最初に見たと記憶する、いわゆる「zoomの画面」でした。
・この画面を見たとき自分が思ったのは、これは誘拐事件の人質の映像だ、というものでした。どこか閉鎖された場所で、人がしゃべらされている映像。カメラは余計な情報を排除するため固定され、人質はカメラに向かって目を逸らさず、情報をしゃべる。少なくとも私は、こういった構図を、フィクション以外の場所では、「人質の映像」以外では見たことがありませんでした。映像である必要がないのに、映像である理由とは?
・これは決して「元アスリートの映像」とはなり得ません。「人質の画面」です。また、あくまで「zoomの画面」であり、「zoomの映像」ではないのです。
・元アスリート「たち」は、正確には2人いましたが、あなたはどちらを思い浮かべましたか。もしくは、「人質の映像」と聞いて、どの国の何を連想しましたか。何を思い浮かべたかによって、あなたの偏見、場合によっては差別意識が明らかになるでしょう。
・作品には賞味期限があり、ある程度の時間が経過すると切れてしまう。だがコロナ以前の価値観に基づいており、同時にコロナ後の価値観を予測した(しようとした)ものであれば、つまり、過去と未来についての文章・批評であり、現在のものではなければどうだろうか。N/Wの場合、未来についての文章を未来に発表するつもりはなく、剥げたペンキを塗り変えるように過去の価値観を広げることに意味はないと思っている。
・賞味期限の無視は、SNS的価値観であると同時に、結局はSNSへの敗北を示している。
・SNSへの怒りはより広がっている。私はそれらがコミュニケーションという「用語」に守られているだけで、用語をはぎ取れば、SNS利用者の手が掴んでいるのは利用者自身の首だと思う。
・ベランダの掃除(日誌的記述)。
・短歌の<今の>批評は、いわゆるゼロ年代にあった居酒屋談義に終始していると思う。結局、マジョリティたちがマジョリティの用語でマイノリティの価値観を評しているだけで、ハッシュタグのような<同調>が<それらの>価値観を、<その>価値観へと、批評をあたかもマイノリティであるかのように偽装させている。
6月25日
・今月中旬くらいから急にアクセス数が増えました。それまではほとんどアクセスがなく、とても居心地のいい空間でした。きっと誰かがSNSで「拡散」でもしたのでしょう。引越しを考える頃かもしれません。元々TOM第一期がそろそろ終わるので、日誌の終わりが近づいているところでした。ただ、この日誌が誰からもほぼ全く読まれない(数回しかクリックされない)のが私の目的のひとつだったので、達成感からはほど遠いですね。SNS大好きな短歌関係の人たちには、理解できない気持ちでしょうが。
・読んだもののリンクを貼り紹介するという行為は、基本的には下品だと思います。かつてはリンクを貼るのにも許可が必須でした。自分がインターネットをはじめた頃も、多少その面影が残っていました。現実世界に置き換えて、自分のアドレス(住所)を無許可で不特定多数に晒されたとしたら、嫌な気持ち以前に迷惑ですよね。肖像権についてはだいぶリテラシーが向上してきましたが、それでも10年くらい前までは、他人の写真を勝手にSNSにアップする人が大勢いました。今でも露悪的な「晒し」は存在していますが、それが下品だ迷惑だという認識は、一般常識として多くの人のあいだに共有されてきたと思います。紹介・リンク貼り、あるいは宣伝についても、時代を経るにつれ、次第にリテラシーが向上してくると思います。個人的にはそうあってほしいですね。リテラシーとは、何が下品で何が下品でないかを考える、ということで、自他の状態自体を否定するものではないです。と、こう補足するあたりに、まだリテラシーを信じていない感じが、垣間見えるでしょうか。
・東欧の映画をいくつか。構造がわかりにくいものが多いですが、音声と構造の分解について考えていくことがヒントになりそうです。
6月24日
・夢を制御するために、世界を鳥瞰することから始める必要がある。だが鳥瞰の字義から決して逸脱してはならず、俯瞰であってはならない。
・「真実は遠く、近づきがたく、ともかく後れて来る。人は、どんなに寄り集まったとしても、事実確認や推論や演繹によっては、そこへ真に到達することはできず、その炸裂をもちこたえられないのだ。こういうわけで「意識の流れ」は、真実への接近のためにもっとも理想的な証言者であり媒体である。それは伝染の作用と共有された苦しみの力によって形成される。」
6月23日
・読まなければいけない本など、この世に一冊もない。作品についても同。マストな本など存在しない。
・マストとは、インフルエンサーのCM用語だ。
・読む自由、読まない自由がこの世界(自由な社会)にはあるはずだ。
・「固有名詞は、各々の文化の分類の体系の極限に位置するものであるとしても、分類の体系を超えでた地点を、何らかの実体的な<先駆的な意味されるもの>としての個体といったようなものを指し示すものではない。固有名詞が、多くの場合、個体を直接に指示して主語の位置に立つ<名前>としてではなく、むしろ本来述語としてパラフレーズされるべき<記述>として使われることは、ラッセルも『数理哲学序説』で認めているところだ。」
6月22日
・SNSで見たもの以外は読むことができない/反応することができない人が増えたのは、SNSにおいて馬鹿にされることの多い(これには注がいりますね。SNSの中のあるSNSで、といってもいいかもしれません)、地上波を見る人々と大差ないのではないか、SNSの地上波化ではないかと思います。SNSも、もう古いのでは。
・SNSでの「行動」が、何かを「本当に」変えたことがありますか。もしあるとすれば、それはSNSでの「行動」のおかげではなく、そして変わったように見えて、実は何も変わっていません。別のメディアの形を探るべきです。
・見せかけのヒューマ二ティは、他者への関心のなさを露呈させ、本来は良心を形作るはずのディティールを、目的の散逸したフェティシズムへと堕落させる。
6月21日
・6月も終わりに近づいてきましたね。
・分かる/分からないの二元論で物事を片付けたこと、分からないものを分からないと嘲笑する老人・古株たちへのアンチテーゼとして、実は分かっていないものを「分かる」へと雑にカテゴライズしたことが、2010年代短歌(界)の失敗だったと思います。何がどう分かるのか分析を怠り、「分かる」に組み込んだ「分からない」ものを、「分かる」で解決してしまった。新古典的・文献主義的・教養主義的な懐古ブームは、そういった分からないものはないという、知ったかぶりの素地のもとで、発現していたように感じます。
・再評価する、というときの主語は何でしょうか。アマゾンの原住民には、何かを再評価することはできないのでしょうか。
・今後、自分の予想ではいろんな物事への再評価ブームみたいなものがやってくる気がするので、牽制の意味で先に書いておきました。
・韓国映画を2本。芝生の手入れ。公園に散歩。
6月20日
・写実とはInstagramのことである。
・斎藤茂吉がInstagramをやっていたら、彼の短歌・歌集を読むことはなかっただろう。彼の短歌はすべてインスタ映えで説明できる。だがそれは決して価値がないというわけではない。
・「われわれの内部の持続とはなにか。それは質的多様性であり、数とは似たところがない。有機的発展ではあるが、量の増大ではない。純粋な異質性ではあるが、中にはっきり区別されたさまざまな質を含まない。要するに、内的持続の諸瞬間は、互いに外在的なものではない。」
6月19日
・「」はすべて引用です。この日誌はTOM(第一期?)が終わるまでは続きます。
・最近の演歌・J-pop・アニソンをまとめて聴く。くだらないものが多いですが、壁に直面しているというわけではない。ジャンルの飽和とは違うのか?
・「映画は感染を主題にしていると言うこともできるだろう。」
6月18日
・カーボンブラックな夜が朝焼けで溶けておはよう。今日は早起きをして、庭の手入れ。
・「太陽は自分でも手に負えない自分自身の熱のため疲れはてたかのように、ぼんやりかすんでいた。そして水はーー人間の争闘の空しさを無言のうちに示しているような、いまにもその空しさをあらわに曝け出してみせそうな水はーー彼らを載せている、ただの脆弱な機械に過ぎぬ船に、押し寄せてはひたひたと音を立てていた。単調な、無邪気な、小さな音ーーその音はいつまでつづいても一向に平気なようだった。彼らはさおでボートを押しながらゆっくりと動き回った。」
・『対音楽』を今聞いてみると、当時思ったよりも良かった。『海賊版』に対しては、そういう感情は抱けないが…。その辺りに見えない壁がある??
6月17日
・巣ごもり・巣ごもり消費という言葉が言われ出した当初から(どうせ言い出したのはSNSの「人々」か広告代理店でしょう)、この言葉に対して、言いようのない気持ち悪さと怒りを感じていたのですが、当時、この言葉に対して違和感を抱いている人は(発言は)、自分の観測範囲には全くいませんでした(観測外には当然いるでしょう)。日本の「コロナ祭り」において、屋形船・クルーズ船など除けばごくごく最初期に出てきた「巣ごもり」という用語は、「stay home」や「自粛」、「テレワーク」よりも悪質な、他責の「用語」であり、自身を動物化する自虐的な言葉なのですが、自覚がない人が多いようで、「自粛」の影響を受けている企業・店舗ですらマーケティング・広告の際に無意識に使用しています。
・追記すれば、間接的にであれば「巣」がない人々への支援者以外からは抗議がありましたが、他の人々からは「巣」とは何か、「巣ごもり」するのは何者か、人間は本当に「巣」に住んでいるのか、という問いはありませんでした。当然ですが、この世界の人間は、カフカの登場人物ではありません。ある種の喩は、人の差別意識や鈍感さを露呈させます。
・本来は、巣ごもりという言葉が出現した瞬間に、SNSでのハッシュタグの抗議が起きなければいけなかったはずです。ブルーインパルス・アベノマスク・検事長など、具体的なイメージが形として提示されなければ、SNSでは「敵」を認識できない。そして「敵と味方」という認識しかできない。
・言葉に対する鈍感さ・想像力の欠落は、SNSにより加速しています。所詮、SNSはCMの場だったということです。CMのつもりでなくても、すべてCMへと吸収されてしまいます。
6月16日
・「だが、現実にはわたしたちの精神はもっとすばやく-ーあるいは、場合によってはもっと緩慢にーー動くのだ。その動きはもっと多様であり、ゆたかで、もっとたよりないものである。わたしたちの精神は、途中をいくつか飛ばしたり、≪重要ではない≫要素を厳密に記録したり、復習したり、後戻りしたりする。こうした心理的時間こそまさに、その奇妙さ・欠落・固定観念・暗黒部分によってわたしたちの興味をそそるものである。なぜなら、それこそわたしたちの感情の時間であり、わたしたちの<生>の時間だからだ。」
・InstagramミームがTwitterミームに噛みつき、TwitterミームはTikTokミームに噛みつく。TikTokミームはInstagramミームに噛みつく。今はそれで終わっているが、やがて大きな一輪の花になるでしょう。
・「そしてついに音楽がこの声の上にかぶさってしまう。」
6月15日
・もし岡井隆がTwitterをやっていたら、彼の三十数冊あるはずの一冊すら読む価値のないものになる。少なくとも、おそらく、私は一冊も読まないだろう。
・岡井隆は数数ないSNSと双方向の違いを理解した歌人だ。彼の短歌はごく初期をのぞいて、双方向性に特化している。
・写実とは究極の自分語りであり、双方向とは真逆の概念だ。
・岡井隆は双方向の概念を有する短歌・歌集を生み出すことができるが、コロナについて読む資格のある歌人ではない。なぜかといえば、彼の短歌はすべて「根本的にくだらない」からだ。このくだらなさは、ダサさと言い換えても(読み換えても)よく、ある領域においては面白さにもつながるものである。
6月14日
・3本連続で蚊帳に閉じ込められる人が出てくる映画を観た。わたしが子供の頃は、鴨居に打ち付けた釘に紐を掛けるタイプの蚊帳を使っていましたね、ぎりぎり。
・甘海老、白海老、皮剥、的鯛…。
・味噌汁(ほんだし使用)、ランジェ公爵夫人のように。
・あるものがダサく感じる瞬間があるとすれば、そのものが本当に理解される瞬間がきているということだ。しかし、ほとんどの場合、その瞬間は忘却される。
6月13日
・一つの動詞の要求範囲と一つの文体の要求範囲は、明らかに解離している。前者をコントロールすることは、自我の崩壊とイコールである。
・空想が音楽的な効果をもたらすためには、思弁を素因数分解しなければいけない。素因数分解とは、アニメの猟奇殺人鬼が、頭にドリルで穴をあけるような、澄み切った暴力性のことである。
・ブライアン・イーノ三昧。
6月12日
・ジュンパ・ラヒリの「停電の夜に」が自分の知っているなかで最も顕著な例の一つなのですが、ディスコミュニケーションを機軸にした短編に、「答え合わせ」は必要でしょうか。もちろんこの短編の読みどころは、細部と細部が衝突する火花のような陰り、にあるわけですが、しかし初読のときからずっと違和感があったので、決して好きな短編ではないですが、折に触れて読み返します。
・一時期、たとえば皮膚科の待合室で意味もなく流れ続けている『トムとジェリー』のようなノリで、『だがしかし』第1期を家にいる時はつねにループさせていた。このアニメがウロボロスの構造によって支えられていることは、第12話が第1話に噛みつく時に明らかになる。デフォルメされた駄菓子キャラの小芝居は、蛇の牙によって砕かれた尾であり、駄菓子の甘いイメージの破片でもある。
・読書記録:『幻の下宿人』ローラン・トポール 、『移民と現代フランス』ミュリエル・ジョリヴェ
6月11日
・朝、ノイズミュージックを聞いて過ごす。
・「世界のなかでの主体の困難な誕生をよりうまく示すためには、登場人物がノイローゼ患者であるのは好都合である。しかし、カメラは、たんに登場人物と彼の世界とのヴィジョンを提供するわけではない。カメラは別のヴィジョンを強いるのであって、この別のヴィジョンのなかで登場人物のヴィジョンは変換され、反省=反映されるのである。上記の〔主体の〕二重化こそ、パゾリーニが「自由間接主観的」イメージと呼んでいるものである。・・・内容の自律的なヴィジョンとして打ち立てられる或る純粋な<形式(フォルム)>に向かって、主観的なものと客観的なものとを止揚することである。・・・わたしたちは、知覚イメージと、それを変換するカメラ−意識との相関関係のなかに取り込まれているのである(イメージは客観的であったのか、それとも主観的であったのかという問いは、もはや提起されていない)。」
・芝生に除草剤を撒いたので窓を開けることができない。クーラーをつけ、日がな無音の外を眺めていると、考えが普段よりまとまる気がする。
・SNSでこそ(さらに)ディスタンスが求められているのではないかな。ところでまったく関係ないですが、『パプリカ』おもしろいですね。
・「残留した惰性」「理性は引き下がって人の衝動に譲らねばならないからだ」残雪
6月10日
・パヴェーゼを2、3年ぶりに読みはじめる。『流刑』が文庫化するのをきっかけに知ったので、作品によっては読んでから10年近く間があいていることになる。だがエピソードや言い回しなど、かなり活き活きと頭の中に残っていた。再読する意味はあるのか。当時読み取れなかったことは、書かれていなかったことである。
・いわゆる任侠映画をいくつかまとめて観る。
・買うか悩んでいたあるソフトを購入。
6月9日
・だいぶ初夏らしくなってきましたね。
・横溝正史を読もうと思っていろいろ手にとってみるけど、やっぱり退屈すぎてほとんど読まずに諦めました。全部茶番に見えてくる感じは何なんでしょうね。文章がもたもたしている。ようするに下手なせいなのかな。
・キャスキッドソンのボストンバッグを買いました。寝てるスヌーピーの上にウッドストックが座っているやつ。
・昔、クーリーハット(coolie hat)のイラストを描こうとしたけど、クラゲみたいなへなちょこな絵になってしまった。つまり、苦力が何かわかっていなかったということだろう。あるいはウェスタンハット、コサックキャップ、カノチエ、テンガロンでもマッシュルームハットでもいいのだけれど、それらを「観る」のでは理解することはできないということだ。バッグでもドレスでも同じことが言える。
6月8日
・昨日書いたことと関連するが、社会詠の無責任さはSNSに似ているのではないか。
・同時に社会詠を詠まない歌人のSNSとは、という問いも成立する。
・「なぜ彼らは他のもっと重要なことに対し声をあげられないのか」
6月7日
・人々が共有でき誰もが使用できる手軽さと記号性(シニフィアンとシニフィエの一体化)を有するコードがある場合、その使用に関しては、個々のテレビ/テレビミームの中において、という制限/限定が必要とされる。
・我々-人々は、私ではない。
・SNSに対する途方もないない憎悪。短歌はSNS化している。SNSを「前提」とした恋愛リアリティショーと大差なく、批評を弄すれば弄するほど下品さは際立つ。
・テレビとは自分一人、家一つ、もしくは街一つが見ているべきものであり、複数であってはいけない。
6月6日
・北関東におけるジョイフルトレイン。街に霞がかかった感じ。
・本屋に短歌の「総合誌」があったので、珍しく(5年ぶり?)手に取り、目次だけぱらぱらと。特集内容と、そのメンバーで笑ってしまう。本当に何の思想もなく編集しているのですね。ただそういう無内容さが「総合誌」たる由縁か。中身は1ページも読まず(読んでいないので、ぱらぱらではなく、ぱらり? あの観音開きの目次も古くさいですが、そういう形式は、電子書籍化したら、どうするんでしょうか。意味もなく残しているから、どうでもいいのかな)。
・総合誌というと短歌をやっている人からすればマジョリティなのでしょうが、ようするに非常に限られた趣味の限られた領域に絞ったアマチュアリズムの同人誌といったところでしょう。アマチュアリズムに則り雑誌が運営されており、アマチュアリズムに賛同できない読者は必要ない。回覧板みたいなものですね。SNSよりは、形態に合理性があるのでは。
6月5日
・ウォーレン・バフェットは飛行機に乗っているのが自分一人だと気づいたら恐怖するだろうか。
・N/Wの作品は、すべて政治・経済に対する具体的な批判であり、グローバリズムへの批評だと思っていますが、先月のネットプリントもまったくそういった反応はなかったようで、そもそも反応自体もほぼなかったようで、そして相変わらず全くといっていいほど読まれていないのは印刷部数を見ればわかるので、チラシの裏に短歌を書き殴ってゴミ箱にすてたほうがよっぽどいいのではないかというくらい。
・こういったことを書くと多くの人に読まれたいのかと思うでしょうが、実際は真逆です。今後はさらに読者の数をどんどん減らしていきたいですね。つまり、ゴミ箱にすてる方が、たくさんの人数に読まれるより価値があるということです。いまくらいの中途半端さが一番不快。なので、こういったみっともないことも、あえて書いておきます。
・「これは特に恐怖の問題と大きく関係しています。・・・凡庸な映画作家、つまらない作品しか作らない映画作家というのは、スクリーンに存在する恐怖を利用します。影や投影と戯れること。そこに恐怖がある。光が消えたり点いたりするというのは恐いでしょう。劇映画であれ、記録映画であれ、ひどい映画作家というのは、私たちの恐怖心をつまらないやり方で利用するのです。恐怖、欲望、投射。この三つの言葉は心理学や精神分析でよく用いられる言葉です。・・・みな混乱してしまうのです。」「・・・「チャップリンの映画のなかで描かれているよりもしっかりした扉を一回でも見たことがある」と言う人がいらっしゃるのであれば、私は一万円を差し上げようと思います。賭けですね。」
6月4日
・地上波とSNSには大差がないというのが今の考えです。SNSが凌駕したのではなく、地上波を見ている観客がSNSに移っただけで、両者とも観客の醜さを反映した結果に過ぎません。SNSでは、個人の作品や見解がCMとして存在しています。
・短歌のCM化に拍車がかかっている。
・ホラー映画では恐怖の継続ではなく、断絶に意味がある。持続が継続へとつながると、コメディになる。多くの人はコメディに恐怖する。
6月3日
・株をやってるわけでもないのに、ボーイングについてずっと調べ続けている。
・グローバルと固有名詞の関係。固有名詞は撹乱するためではなく、集中するために使用されている。
6月2日
・「#」というタイトルの連作の構想が浮かび、短歌自体も頭のなかに5、6首浮かぶが、細かいところがいくつか気に入らず、今は作るのをやめる。
・朝からドイツのダンスミュージック系のレーベルのアルバムを聴きまくる。
・「≪われ童子の時は語ることも童子のごとく、思ふことも童子のごとく、論ずることも童子のごとくなりしが、人と成りては童子のことを棄てたり≫/ぼくは、この予言を実現したいとねがう。ぼくは、あの鏡をうちわって、解放されたい。」
6月1日
・「バルサザー ああ、私を好きになってくれないかな。
マーガレット そうならないほうがあなたのためよ。だって私、欠点だらけですもの。
バルサザー たとえば?
マーガレット 大声でお祈りをするとか。
バルサザー ますます気に入った。聞いているほうはすぐに「アーメン」と言える。」シェイクスピア『から騒ぎ』
・夜に雨が降っていたようで、起きてカーテンを開けると地面が黒っぽく濡れていた。今日は用事があり遠出するので、朝ごはんは簡単に済ませた。全部J・G・バラードみたいに思えてくるね。
・パリのディスコティック・バス、全然違うけど、街宣車みたいで笑った。ラジオ体操バスとかあってもいいかもしれない。
・読書記録:『火星の虹』ロバート・L・フォワード
5月31日
・突如時事ネタ?ですが、「鬼滅の刃」最新刊購入の行列に、2020年日本の政治・経済・社会問題が凝縮されていると思う。
・引用は、メアリ・E・ウイルキンズ=フリーマンですね。何のことかわからない人は、作品を読んでください。
・相変わらずまったく短歌を読んでいないけど、たまたま見かけた俵万智のコロナ短歌はとてもよかった。コロナについて詠んでも力が削がれない歌人は俵万智くらい。自分の考えでは、コロナは他の時事・社会詠とは異質で、多くの「歌人」にとってツイートはできても短歌にはできない。技術的に、短歌=語りを達成しているのは、現在俵万智(と花山周子)だけだと確認。
・ピコ太郎の新曲『PPAP-2020-』のPVを見た。常々、世の中にあふれかえっていた手洗い動画を、しょうもない下品だ卑猥だと思っていたけど、このPVを見ると、下品で間抜けな動作だけが強調され、最後のPray for People And Peaceという胡散臭さへと自然につながっていてgoodだった。バンクシーより皮肉が効いている。映像面での「手洗い動画」のアウフヘーベンは達成されたので、次は静止画・言語での達成が望まれる。
5月30日
・最近まで割り算がわからなかった。できないのではなく、わからない。四則演算はまるで当然のようにできるが、割り算だけが、結果は出ても、いまいちイメージが浮かばなかった。
・割り算と文章を読むことは似ている。
・2×2=5であってもいいが、2÷2は必ず1でなければならない。
・短歌はインターネットミームとして存続しているが、テレビミームとしては存続していない。私が読みたいのはテレビミーム化した短歌だ。
・とどのつまり、と書いてあるのを見ると、グリーンランドの岸辺に上がろうとして群がっているトドの大軍が思い浮かぶのですが、とどのつまりなんて言う人も書く人が年々減ってきたためか、トドを見る機会も減ってきた。
・そういえばトドカレーって缶詰以外もあるんですね。今日は特に何もせず、夕方にホッピーを買ってきて飲んでます。北極っぽくていいですね(適当)。
5月29日
・午前中は、知人からもらったデカルトの伝記本を読んで過ごす。デカルトがオランダに引きこもる過程は、極めてアメリカ的。イタリアに住んでいた友人からの手紙に、アムステルダムから「私のいるこの大きな町には商業に携わらぬ人は私のほかにひとりもなく、人々はおのおの自分の利益を一心に心がけているので、私は一生ずっと誰にも会わずに暮らして行けるほどである。・・・」という返信、そしてオランダで20年暮らしてしまうところが特に。
・「ポタージュはとてもおいしいものでした。このポタージュだけが、あまりにも長いあいだ彼女の唯一の楽しみでした。彼女の唯一の楽しみでした。彼女はこれから先の毎日に思いを馳せました。未来の日々はロザリオの真珠の玉のように、どれも同じで、どれもなめらかで傷がなく、純真につらなっておりました。彼女は感謝の気持ちでいっぱいでした。」
・エドガール・モランの『ドイツ零年』における想像力の欠如は、神話に対する抵抗であり戦争の結果だが、しかし欠如であることには変わりがない。
5月28日
・書こうと思っていて書いていなかった映画論のメモ。
①『ミツバチのささやき』(ビクトル・エリセ、1973)冒頭、移動映画館でアナとイサベルの姉弟は『フランケンシュタイン』(ジェイムズ・ホエール、1931)を観るが、そこで映し出されるフランケンシュタインが少女を抱えて歩くシーンには、実は致命的なカットのつなぎ間違いがある。
②『霧の中の風景』(テオ・アンゲロプロス、1988)で、ヴーラとアレクサンドロスの姉弟が母を探すため列車に乗り込むシーン、トラックでヴーラがレイプされるシーン、最後の霧の中の一本の木へと歩んでいくシーン、これら三つを比較し、映画におけるドアが、ドアの形象をなしていないことを証明する。
③『ニュー・シネマ・パラダイス』(ジュゼッペ・トルナトーレ、1988)と『ミツバチのささやき』双方で共通する「上映」するシーン。前者におけるスクリーンを見ず抱き合う恋人たちの下品さについて。逆に後者において、アナとイサベルが精霊に会う=「映画を観る」ために、廃墟へと歩んでいくこと。観ることを忘れなければ消失点へと「消える」ことができること。ドアとは一体何か。遠近法の世界における冒険とは。
・ここに書かれているアイデアを「言語化」する過程が重要なのであって、アイデア自体には何の価値もない。
・N/Wが1人の人間だと思っている人が多いようなので、エラリー・クイーンやほったゆみのように2人による連名・共作だと、ここでお知らせしておきます。ここでは仮にノートン/渡辺と名乗っておきますが、ほとんどの短歌は、ノートンが選んだ語彙にわたし渡辺が助詞を付け加えるかたちで編集しています。しかし、場合によってはノートンの短歌が100パーセントの場合もありますし、渡辺の短歌が100パーセントの場合もありますね。基本的には6対4といったところか。
・2名で短歌を作るとは何事か、と思うかもしれませんが、こういう取り組みはここ10年20年で、お遊びならあったはず。一人でつくったという人、本当にその人が一人でつくったのか、どうしてわかるのか。
・ヒューマ二ティとは、CDジャケットのようなイラストであり、音楽そのものになることはありえない。それはそれぞれの頭の中にあるふわふわしたイメージであれ、音楽自体にはなり得ない。優れたCDジャケットは、CDジャケットとして優れているのであって、それはCDジャケットとして評価されなければならない。音楽とCDジャケットの混同こそ、現在の短歌界の病巣だ。
5月27日
・特に理由もなく購入し読まずにいた去年の芸術新潮をぺらぺら捲っていて、ここ最近テレビについて感じていた「アーカイブ!」という感慨が湧いてきた。自分がテレビに対して求めていたのは「再放送」のみ。情報や笑い、つまりニュースやワイドショー、バラエティ番組など見たくもなかったのだ。10年前のウィンブルトンを最新情報として深夜に見ることが、自分にとっては、笑いであり情報なのかもしれない。しかし、もう5日前からテレビを消したままで音楽ばかり聞いている。
・特集の漫画家の書斎を見ていて、ほとんどの短歌はこういう「書斎の写真」なのかも、と得心してしまう(読んでもいないのに)。自覚のあるなしが重要だ。構図に支配されている。これは、SNSへの嫌悪(というほどの感情はないけれど)と同じですね。そのプラットフォームにいる時点で、自分に近い意見であろうと遠い意見であろうと、すべて胡散臭いというか。満員電車に乗ろうとしている列には並びません、なんてね。
・風とたわむれ、雲とは言葉を交し、/歌口ずさみつつ、十字架の道に酔う。/その巡礼を見まもりつつゆく<精霊>も、/森の小鳥のように快活な姿を見ては、涙ぐむ。 「一 祝福」
・雨は果てもなく尾を曳き降り注いで、/広大な牢獄の鉄格子の真似をし、/けがらわしい蜘蛛たちの、物言わぬ群れが、/私たちの脳髄の奥に現れて、網を張る時。 「七八 憂鬱」 /ボードレール『悪の花』
・どのように「知識の」ナッシュ均衡を保つか。武器貸与法について調べながら。
5月26日
・少し前に、殊能将之の『美濃牛』を読んだ。自分も、檻の中を歩き回る虎を見たことがある。コール・ポーターとアーヴィング・ヴァーリンの連関から、ミュージカル映画における強迫神経症的ふるまいを考察しなければいけない。RKOによるフレッド・アステアとジンジャー・ロジャース共演『トップ・ハット』、Isn't this a lovely day?のシーンで、雨により東屋に閉じ込められた二人は、「まるで時計で計ったように正確な周期を刻み、ところどころ黒ずんだコンクリートの床の上に円を描いて、しなやかな四本の脚を進めていく」(ノベルス版p9)。ミュージカル映画において、アステアとロジャースは2人で1匹の虎であり、スクリーンあるいはスタンダードナンバーという鉄格子に閉じ込められている(カイロの紫のバラ 笑)。そういえばアステアのミュージカル以外の演技は強迫神経症めいたキーキー声で気に触る。
・RV車と名鉄にはノスタルジーを感じる。素朴な「田舎」だなと。
・「中世のオルガン曲に現代のクラブ・ミュージックに通じるものがあるのは、ある意味で当然である。閉鎖された空間に集まってきた聴衆を没我の境地に導く音楽という点では、どちらも同じ機能を担っている」「パイプオルガンは中世のテクノロジーの粋を集めた当時最先端のシンセサイザーだった」(ノベルス版p217)。蘿洞庵、牛舎、洞窟、マンション、動物園……すべて密室!
・ブクステフーデBuxWV149、サン・ラ、ブロッサム・ディアリー、ロジャース&ハート、アン・レノックス。
・「頭蓋骨の内側は暗い。そこには、この大伽藍ほどの光も差さない。頭蓋骨のなかの暗闇に光を導き入れるには、肉が腐り落ち、うつろな眼窩を太陽にさらさなければならない。」(ノベルス版p471)。小男について考えよう。
・相変わらず短歌をほぼ読んでいないので、経験則からおそらくそうだろうという空想なのだけれど、コロナについて詠む歌人(歌人じゃなくても)というのは現在たくさんいるに違いなく、そして自分は1首でもコロナについて詠んだ歌人というのはまったく信用できないなと思う。なぜかというと、彼ら彼女らに、社会詠についての考察がほぼ99パーセント欠落しているのが原因であり、その考察は考察すればするほど、より一層に欠落していく種類の考察である。そして、矛盾するようだけど、逆にコロナについて全く詠まない歌人というのもまた、まったく信用できない。この理由もまた、同じ理由によるものである。