9(予告・断片・スクリプト)
自分の内部にある感情をありのままに・ひたむきに・実直に書き連ねること。あるいは、声高に宣言すること。シニカルなスタンスも、ありのままの範疇に入る。これまでの時間のなかで、何度も繰り返されている若さや稚拙さについて、「今の」時代に、という枕詞で肯定するのは、無理がある。特に、現在に存在しない人にとっては。
何かを肯定するとき、その新しさについて(つまり技術だ)語ることが批評的だとすれば、感動や素晴らしさ(つまり読んだ私の心情だ)について語ることは批評的ではない。しかし、新しさや伝統という基準から評価を定めるためには、自我を放棄するための手順がなければ、信用がない文章ということになる。
わかりにくく説明しよう。
「私」は批評という映像を見ている(映画ではない)。そこには、「私」の本能を刺激する(「私」のもやもやとした解消されない心の霧を晴らすような)明快な「解答」が、まるで解答であるかのように映し出されている。自我と批評を綯い交ぜに語ることで、「私」は自我を放棄せずに批評について、あたかもイメージを表象したかのように振舞えるのだ。音声は、一定の方がいい。そして、映像を見る「私」は、何も考えない方がいい、というわけだ。映像への想像力を放棄した自我に、何かを語る資格はないのは言うまでもないが、そもそも何かを読む資格はとうに失っているのである。
批評と自我の両輪を駆使することによって、自我が批評であり、批評が自我であるような状態が容易に生み出されてしまう。短歌的自我の典型的な形がこれだ。若くして老成した口をきくのは、誰にだってできる。老人が若さを表出することも、思ったよりは簡単なのだ。短歌的自我に支配された世界では、「私」が思った、ということが、何よりも尊重されなければならず、ディティールは「批評」によって創造されるのではなく破棄されてしまい、複数の短歌的自我によって「批評」が「自我」に変貌するのである。
噂と証言は、無口な人を簡単に殺すのだ。