7(『テクストよこんにちは』)
1
「本当に文学がしたい?」というタイトルの文章を、僕は2014年に書いたのだが、発表する機会もなく、また、残念ながら文章を書き終えることもできなかった。その文章をもとに、「妄想の運命の女(ファム・ファタール)を歌い続ける醜悪な人(々)について」、というタイトルの文章を、僕は2015年に書いた。そちらもやはり完成しなかったし、もちろん発表する機会もなかった。そしていま、あらためて文章を書こうとしているわけだが、この文章もおそらく書き終えることができないだろう。圧倒的なまでの無力感と、途方もない眠気に苛まれてしまったからだ。おそらく僕はこのまま眠ってしまうだろう。
だが、これから語られるはずの「ゲーム短歌」のために、その文章の無残な残骸をここに曝しておこうと思う。それは過去に書かれたものであり、過去のある時点で書き換えられたものであり、いま、書き換えたものでもある。
2
私は、川島信敬という優れた作者の短歌について「語る」ために、きわめて複雑な過程を取らなければいけない気がしている。
4
僕が「短歌」を読んでいた(そして書いていた)のは2016年までなのだが、はっきり言って、2016年まで、さんざん嫌な目にあった。不当な目にあっている人もたくさん見た。本来であれば論理や言葉によって救済されるべき人・事柄が、いわゆるSNSで、想像力の欠けた倫理を大声で撒き散らす人によって、いわば、木っ端微塵にされていた。
抽象的な言い方をすれば、ブームとしてすべてが消費されてしまい、建前だけが残ってしまったのだ。
想像力の欠けた倫理をピュアに信じてしまう人がいるのは、今のご時世、短歌の業界に限ったことではないけど、評論や作品というピカピカのカテゴリーへと、お手軽に昇華されてしまうのが、「短歌」の特徴だろう。
こぎれいな自虐や改心、もはや開き直ってしまったために事実のように見えてしまう小理屈。ワイドショーのようだ。何かを知っているかのような振る舞いだけが大切だ。倫理観と、知ったかぶりが、知識や知性へと簡単に様変わりしてしまう。暴力と一緒である。経歴や業績は確かに何を読むかの選別の基準にはなるが、あくまでも書かれたものに対してのみ、つまりテクストにおける信頼にすぎない。だから、ある人間がある発言をするのであれば、発言の届く範囲の差についてよく考察してから、小さな声でするべきでは? そして、他人に対する想像力が欠けているのであれば、何も発言する権利などないのでは? 少なくとも、短歌やその周辺においては。
僕は、対抗するための明瞭とした言葉や理屈を持ち合わせず、ぼそぼそと、よくわからないことしか言えない。要するに、蹴散らされたわけだ。そういうのは違うんじゃないかな、以上の言葉を探し出すことができなかっただけで、自分の考えはしっかり持っているつもりだけれど。
仲間が多い人間が無言のなかで力を増していき、細かい嘘から真実が捏造されていくんじゃないか、と不安な日々にも、急に、「何かを書こう!」という気持ちが湧くことがある。純粋な衝動、とまでは言わないけど、自分の中に何かぼんやりとしているけどはっきりとしたものを見てしまったような、確信があるからだ。それが、偶然にも再び「短歌」だったというわけだ。
新しく「短歌」を読むことがすっかりなくなってしまったので、新しい理論や情報は何も書けないだろうが、自分の好きなことだけを真剣に考えることが、倫理や論理を打破するための、知性の第一歩だろう、と信じてみよう。
さて、前置きはこのくらいにして、自分の好きなことだけを書いていこう。
5
私が短歌を読んでいた最後の年、2016年にもっとも読み込んでいたのが、川島信敬の短歌だ。短歌のもつ無意識の欲望に、「欲望」というシールを貼りつけてから意識へと引きずりだす川島の短歌は、いわゆる「歌」への嫌悪感に対する清涼剤(この言い方は川島の短歌の本質であり、最高の批評用語だ)のようである。
婦人科の待合室でハーレクイン読んでいた/半額になったお刺身の色
わかってる(だから黙ってろ)ジェラードピケで上げるエセ女子力
「設定」『率』3号
食べたものぜんぶ吐く朝/過食嘔吐のひきこもりは少ないと斎藤環
コンビニでガム買うみたいに簡単に手に入る個性のアレゴリーとしての青文字
「設定」『率』3号フリーペーパーWEST
婦人科の待合室・ハーレクイン・(少し古い)お刺身。これらの単語の配列によって想起されるのは、「昼ドラ」にでもありそうなチープ(過ぎる)としか言いようのない状況だが、しかし、〈今度ムシャクシャした時はなんか別なモンを使ってくれよな/バイブレーターでもキュウリでも(吉田秋生『ラヴァーズ・キス』)〉という詞書に照射されるようにして生まれた「設定」は、その設定がチープであればあるほど、作中主体の息苦しさが増していく。
スーパーマーケットの半額で売られている刺身を見た作中主体は、それまでいた婦人科での出来事を回想し始めるのだろう。スラッシュによって、婦人科とスーパーマーケットという二つの場における時間が一首のなかに並立されている。刺身を「見る」のは、偶然性の高い出来事だが、ハーレクイン・ロマンスを婦人科で「読む」という行為には、異様なまでの作為性がある。あくまでも設定として、俯瞰的に状況が述べられているだけなので、果たして作中主体の演技なのかどうかは判別がつかないが、こういった状況において特に必然性のない動作を強制すること(あるいは比喩表現の使用)は、川島の短歌の特徴の一つである。掲出した四首だけを見ても明らかだが、下句に向けてだらだらと(いわゆる歌の)定型からあふれ、伸びていくかのような(いわゆる歌の)韻律。設定の重みで弛緩し、強制されることによって、(いわゆる歌の)定型というボイスにひずみが生じているようにも思える。
ところが、作中主体は行為の(強制された)作為性を了解しつつも、それがあたかも暗黙の了解であるかのようにして何も語らず、自身の挙措のチープさについて深く踏み込んで考えようとはしない。「エセ」女子力と言って、韜晦を微妙にちらつかせることで、パーレン内の「黙ってろ」という心のコアにあるはずの自我を、女子「的」にコーティングしていく。あるいは、斉藤環や青文字(雑誌)という「いかにも」な「記号」を、テンプレートだと言わざるを得ない自身の行動(食べたものを全部吐く)や思考(わざわざガムを買うような行為だと言及するのは、離れ難さの裏返しだろう)に対して、二物衝突的にぶつける。
これらの客観視によって、作中主体は安っぽい自分を強調し、演出している。低俗な言い方をすれば、コピペ通りの人生に敢えて踏みとどまろうとしているかのように。
作中主体は自身のコピペみたいな状態・状況に、少なからず愛着を覚えているかのようだ。
欲望という言葉から、人間は何を連想するのか。金銭や名誉や地位、そして性愛など、一見、その数はたかが知れているように思えるが、これらはあくまで何かを希求したために手に入るものであり、ただの結果だ。
一方、欲望「する」ことーー希求するという行為そのものーーは、千差万別である。いや、千差万別であってほしいと、少なくとも僕は思っている……と留保しつつ言った方が正確だろうけれども、どちらにしても、行為それ自体については状況や生まれや育ちによって、その求めようとするやり方はかなり変わってくるはずだ。
よくあるシチュエーション。油断すれば、欲望のために口をついて出てしまう、テンプレートな発言。欲望の目的自体は、どれだけ通俗的であっても(利己的でなければ)人間性に直結しているからいいのだが、そのための行動までもが雛形に押し込まれてしまうと、まるでペットかロボットであるかのようで、そういうとき、何かに従属しているという息苦しさが生じる。
結局は、他者からの視線と、彼ら彼女らの「女性は・男性は・人間は、こうあるべきだ」という最大公約数的価値観への気持ち悪さが、自己のアイデンティティにも直結する欲望について言われたとき、その無自覚さのために、より増幅するから息苦しくなるのだろうけれど、「愛」(朝日新聞二〇一二年六月二十五日夕刊)という直情的なタイトルを連作に付けつつも、「設定」(短歌同人誌『率』や『NHK短歌』などに分割して発表)で、いわゆるサブカルチャー感を前面に押し出した詞書を用いて、テンプレートな人間像を瀟洒に描く川島は、欲望が抱かせられる(そして、抱く)不快感に対して非常に意識的だ。
いわゆる都会的な語句をパスティーシュしていく作風から、作者の趣味と(短歌の)「連作世界」とが同期していることは想像に難くないが、ここまで述べてきたように、そこに趣味を開陳する以上の「何か」を付け加えること(短歌のもつ無意識の欲望を意識へと引きずり出しているだけだ、と言ってもいいかもしれない。もちろん、それができる歌人は非常にわずかだから、「だけ」という言い方は適切ではないかもしれないが)を、川島は確実に成し得ている。そのひとつは、ある種の嘘っぽさかもしれない。
ゆっくりと追いつめられて ふたりアマラとカマラのように抱きあう
とりあえず無害だよっていう意味で転校生のような笑顔をつくる
「スピン」『短歌研究』二〇〇八年九月号
爆弾を隠しもってる少年兵 こっそりチワワを飼ってるわたし
『短歌研究』二〇〇七年九月号
ローマ帝国の祖、ロムルスとレムスが双子の兄弟で、狼によって育てられたことはあまりにも有名な話だし、同じように狼に育てられたアマラとカマラとの比較もごくごくありふれているのだろうとは思うけれど、双子の兄が弟を殺すという神話の通例どおりにロムルスがレムスを殺してしまうのとは真逆の、死別による少女たちの感動的な姉妹愛について、狼に育てられた姉妹であるという逸話が現在では嘘の「設定」だったのだと断定されているのを知ってしまうと、所詮は想像の世界上での「愛」だったのかと思えてきて、ひどい皮肉にしか見えないのだが、同様に、これらの掲出歌に滲み出ている独特の弱さも、まさにアマラとカマラの逸話のように、ぱっと見、すごく嘘っぽい。
この一首目は、角川『短歌』二〇一五年三月号の座談会「恋歌の魅力」で、恋の歌として座談会参加者の大森静佳によって引用されている。大森は、〈狼に育てられた姉妹という世界中でお互いしか知らないような孤独な二人が抱き合っている。(中略)もはや男女の枠さえ消えて透明な魂として寄り添っている感じ。すごく心細くて孤島に二人だけいるような寂しさが、今の恋愛らしいかなと思いました〉と、オーソドックスな読み筋から歌を解釈しているのだが、座談会司会者の小島なおの〈(ふたりは:引用者註)何に追い詰められているんですか?〉という率直な疑問は、川島の短歌の別の側面を、図らずとも暗示している。
座談会中の〈これは連作のなかで、恋の歌として読めるようになっているんですか〉〈連作で読んでみたい〉という発言から、小島は連作「スピン」を読んでいないことが窺えるが、前述の疑問に対し、大森が〈大きく言えば、まわりの世界じゃないでしょうか〉と返答していることや、同じく〈この連作は光のある感じで〉と発言する服部真里子が、小島に〈相手をとても好きで抱きあいたくなる瞬間を「追いつめられて」と言ったのかと思いました〉と答えていることからも、この歌を恋の歌として読むためには、連作という「文脈」が必要だと推察できる。
つまり、(いわゆる歌の)相聞対象への心情の揺らぎが通底して流れている「スピン」という連作の存在が、ともすれば設定過剰にも感じられる川島の短歌の、その一首一首の嘘っぽさを、恋の歌へと昇華させている――こう考えると、川島の短歌が内包する二つの性格がより明確になってくる。
自分自身へのアイロニカルな視線と、その裏に透けて見えるピュアさ、という言い方では、ひと昔前の学園ドラマにでも出てきそうなテンプレートな登場人物みたいだが、しかし川島の短歌の作中主体は、そういった雛形を決してそのままの形で享受しようとしていない。テンプレートな短歌にありがちな陶酔を避けるためだけに、技術的な側面から、設定の過剰さによってバランスを取っているのではなく、アイロニーとピュアという二面性を、まるで三日月の陽と陰(欠けている箇所)であるかのようにして示そうとする文学的な意図を感じるのだ。一般的に人々のあいだで美しいと言われている三日月が、美しさという固定観念を取り払ってしまえば、本来は満月でも半月でもない中途半端で不格好な状態に過ぎないように、こういう風に振舞うことができれば素晴らしい・こうあるべきだというテンプレートな人間像の息苦しさを、川島は風俗・文化のパスティーシュによって「見立て」ているのである(というこの断言も、またテンプレートではあるのだが)。
ただ、僕がこういった喩を用いて考えをまとめたのは、永田和宏による論考「喩と読者」(『国文学』昭和五十八年二月号)での、高野公彦の秀歌「黒き月を三日月抱けり起伏なき日々かさね人はこころ病みゆく」についての批評を偶然読んだからで、果たして既存の短歌の喩からある程度のインスピレーションを得て、それをレトリックとして用いるのは文章の書き方として些かアンフェアなのではないかと指摘されると何も反駁できないのだが、永田のこの論考での「見立て」「喩」に関する考察は、川島の短歌の本質にも関わるものだ。
永田は、伊藤一彦が『短歌現代』昭和五十七年八月号の「往復書簡」で自身の歌と高野公彦の歌を並べて比較した際、そのうちの一組に「年の旦」「元旦」という〈詩語としてはほとんど死語化していることばを、あえてモチーフとして択んで〉いることを端緒に、古典和歌においては暦や二十四節気など〈公認の主題〉によって守られていた〈感性の共同性〉とでも言えるものが、和歌革新・近代短歌を経た後の現代短歌においても、〈今なお私たちの意識の中に抜きがたく場を占めている〈賀〉という意識の共同性を、いかに自己の心情の固有性の中に奪い返せるかという試み〉として生きており、さらに、高野の前出の歌の、〈上句の「黒き月を三日月抱けり」という思いがけない新しい発見は、しかし決して単なる〈見立て〉で終るものではない。「起伏なき日々重ね」つつある「人」は、実はそのもっとも大きな部分を作者自身に重ねて読むべきだろう。そして「こころ病みゆく」人が内に抱えている空虚という病巣〉があるのではないか、と述べている。さらに、高野の歌について、〈常識という陥穽にとらえられることなく、いわば〈零状態〉でものを見たのだ。そのことによって、日常私たちがものを見ている、と思って安心していることが、実はいかに一方的な把握にしかすぎないか、(中略)という事実に、一つの警鐘を打ったのだと言え〉るのであり、そのために「喩」の成功こそが鍵になってくるのだとも述べている。
ここまで書けば、勘のいい読者には、「見立て」「喩」の問題が川島の短歌にどう関わってくるのか推測できるかもしれないが、永田の論考について、もう少し話を続けたいと思う。
永田の論考の「喩と読者」というタイトルから分かる通り、この二段組み見開き三枚ほどの文章は、「読者」についての文章でもある。
歌枕・本歌取りなど和歌の技法が、読者の強いコミットを要請するものであり、〈近代短歌史の流れの中で、歌について語られるもののほとんどは、作者の側にのみ焦点を当てたもの言いであった〉と持論を述べた永田は、その批評スタイルの影響下から脱したとは言い難い現代短歌において、読者の問題にもっとも敏感であったのは佐佐木幸綱であったとしている。
ここでは佐佐木の仕事の内実について深く踏み込まないが、永田の論考中の言葉を借りれば、佐佐木が「桐の幹日あたる側をしんしんと蟻かよひゐき午睡ののちも」(高野公彦)について、歌中のありふれた情景に潜んだ〈意味〉を読み取る読者を想定しなければ――つまり、〈〈他者への信頼〉を基盤にした、他者との〈共犯関係〉の期待〉がなければ――短歌は成立しないと考えたことが、僕には、川島の短歌が連作という「文脈」の存在によって変質してしまい、連作を読む読者の存在を希求しているということと、重なる(そして、まったく真逆の考え方だ、と同時に言える)ようにも思えてくる。川島は、これら現代短歌における見立てを更新しようと、連作という〈感性の共同性〉を用いて、人間の見立てをおこなっているのではないだろうか。
6
僕は、ここで文章を書きやめてしまった。川島信敬の言葉を「読む」ためである。