3(存在しないレガシーについて)
「純粋読者」という呼び方を、僕は寡聞にして短詩形業界以外でまったく聞いたことがない。特に短歌の世界では、この純粋な読者というカテゴリーに属する人間は、まるで金の卵であるかのように、業界への大量の流入が求められているようである。しかし、あちこちで頻りに「純粋読者が~」と言われているということは、極めて希少価値が高いということなのだろう。ようするに、そういう(ほとんど存在しない)人間を増やすことが、短歌の業界にとって著しいメリットになると、多くの短歌業界関係者が考えているということなのだろう。だが、そもそもこの「純粋な」とはどういう状態・傾向を指し示すのか?
短歌(を読むことだけ)が大好きで、それ以外には何の邪念も抱かない(短歌を作ろう・歌会に参加しよう・結社に入ろう……といった積極性は持たない)、ピュアにひたすら短歌を貪り読んでくれる(読むのは大好きで、それなりの趣味の良さは持ち合わせているが、はっきり言って、自分たちより短歌の読みが浅く、難しい理論の欠如した)読者のことなのだろうか。あるいは、「純粋」と形容することによって、作者=読者である自分たち短歌業界の人間の「作者性」をくっきりと際立たせるための方便なのかもしれない。あるいは、真正な読者が自分たちの短歌には存在する(「自分の短歌」には読者を生み出す正統性がある)はずだ、という願望の現れなのかもしれない。
たとえば、短歌編集者が、「純粋読者を増やそう」と話すことは、商業的な需要と供給を維持しなければ経済的に破綻を来してしまうという事情があり、供給側の人間が増え続けるよりも、需要するだけの人間が増える方がより利益が上がる(雑誌が維持できる)という事情があるだろう。それらの事情は、現在の文フリ・同人誌文化によって、自費出版ビジネスが(将来的に)破綻するかもしれないという恐れがあるせいかもしれない。短歌編集者たちが持ち合わせている(既存のシステムを維持するための)有効なカードは、「学生短歌会」と「新人賞への応募」だけだ。この二つを組み合わせて、いかに雑誌の売り上げを上げるか。短歌業界の彼ら彼女らが作者である限り、このシステムには限界がある、というわけである。
もちろん、これらは短歌の世界を一瞬だけ垣間見た僕の憶測に過ぎないわけで、現実はこんな単純な話ではないはずだし、カードの数は今は増えていることだろう。しかし、そういった短歌編集者的視点からの純粋読者の必要性は具体的に(金銭的に)理解できるとして、一方、短歌実作者たちが「純粋読者」を欲する姿は、矛盾をきたしているようにしか見えない。言葉じりを捉えれば、「純粋さ」というカテゴライズを使用した、排外的で権威主義的な考え方だ。「純粋読者」を求めつつ、歌会システムや結社システムを肯定し続けるのは、僕には歪んだ考え方に見える。どうして「自分たち」は「短歌」を作ってもよくて、「他人」は「短歌」を作っては駄目なのだろう?
僕がいわゆる「短歌」を嫌悪する理由は、「女性」「男性」「私性」「純粋読者」、ひょっとすると「韻律」「相聞」「戦争」「天皇」もだ。これらのカテゴライズによって、歪みをひた隠ししつつ、(たとえば)純粋な(馬鹿な)読者、のような都合のいい客体をさも当然のように、何の疑問もなく「語って」しまう男根主義的な卑劣さが、あらゆるところに跋扈しているからだ。
ここまで読んで、「純粋読者」という言い方の愚かさに気がつかない人間には、「純粋作者」という言い方のくだらないナルシシズムのような自己撞着について、ぜひ考えてほしい。読者であることを放棄した作者と、作者であることを放棄した読者。読者であることを放棄した人間に、はたして何かを「批評」する資格があるのだろうか。