青松輝の瀬戸夏子論について
面白いところもありますが、本気で面白いと思ってるものについて書いてるかんじがしなかったです。とはいえ、リアクションしないのも嘘になるので、少しコメントします。
ベテラン中学生のブログの良いところは、自分がポテンシャルを感じてるものや好きなものを素直に直観的な語りのなかでポジティブに提示できるところだと思っています。
けれど、今回の文章では瀬戸夏子のどこに青松さんが可能性を感じたのかがよくわからなかったです。肯定するにしても否定するにしてもです。発見はあるし、面白いアイデアも書かれてるとは思うけれど、肝心の歌の読みに創意工夫が感じられないし、これだと「瀬戸夏子トガってる風だけどよくわからない」論の一種になってしまうのではないでしょうか。「なんとなく理解できるところもあるけれど、自分とは感性が合わない部分もある」では、文章全体としてあまり面白くないです。
青松さんの文章は評論だと思うけど、いわゆる評論や一首評の文体というよりも、ブログ的な(?)ストーリーテリングとストーリーの合間に引用される歌の選歌で読ませるタイプの文体ですよね。それ自体は面白いと思っているのですが、ストーリーがうまく描けないと「色々な印象論」になってしまう危険があるし、語り文体の中での引用ってかなり強い文脈の操作だと思うので(評論文体だともう少し引用部と叙述部にはっきりと位相の違いがでますよね)、とりわけ語りの筋にはこだわるべきかと思います。
以下、いくつかの論点について
①芸術史的に瀬戸夏子はオーソドックスではないか?
ポストモダン、よりもさらに遡って、モダニズムなり印象派なりロマン主義においてすでにジャンルとの格闘こそが芸術家の使命であったなら、(海外の)芸術史的には瀬戸夏子こそがオーソドックスだとも言えるかもしれない。一方で、短歌ではそこが逆転しているのがおかしいように思える。他方では、短歌は日本で生まれたジャンルなのだから海外の文脈に乗ることにどれだけの正しさや必然性があるのかよくわからない。というのが青松さんの1つの論点ですよね。
その筋は同意するところとしないところがあります。
まず、確認になりますが、ジャンルとの格闘って単にジャンル内の閉じたコミュニティの中で新規性のある表現の開拓ってことではないはずです。もっと時代・社会・人間・歴史・科学・言語・感情・身の回りのモノや人・〈私〉や〈他者〉など、ジャンルや領域や次元をまたいだ大きな話であるべきだと思います。いきなりそこまで大きな話ができる人はいないし、それらすべてについての知る必要も語る必要もないし、ある種の知識人だけがそういった大きな話にアクセスできるというのも一種の保守性になりうるわけですが、とりわけ〈ジャンル〉についてのストーリーテリングを試みるなら大きなスケール感を持とうとすることは大事です。
「ふつうVSトガってる」は「観念的な争い」ではなく、新しくてユニークだと思ったモノに飛びつくことが実は市場に踊らされているだけかもしれない、井の中の蛙なだけかもしれないという個人的で集団的な不安や羞恥ではないでしょうか。どの商品を選ぶか、どの選択や立ち振る舞いが賢くて正しいと見られるか、趣味の良い消費、自分のオリジナルなカタログ、、、スケールの小さい話だと思います。その方向性で勝つのは、お金と時間があって、たくさんの情報にアクセスできて、主体的に情報を取捨選択できて、他人にうまく発信できるような、資本主義的な強者でしかないと思います。あるいは強者に適度に噛みついて「私は実はこんなものを知っている/持っている」みたいな密かな優越感で満足する「情報弱者」の妄想上の勝利です。
ひとまず、商品の価値の有る無しではなくて商品についての語り方や話の筋で自分のオリジナルなこだわりを作るというのは消費社会に抵抗するためのサブカル的感性の古き良き(?)知恵の1つでしょう。
それから、短歌もコミュニケーションも音楽もこだわりも政治信条も、本当に市場的なロジックで語って良いのでしょうか(青松さんはそんなつもりないでしょうが、僕にはそういう風に感じられることがあります)? 個人が自分自身の経営者とか株主とか運営者とかのように思いこまされることこそ現代的な資本主義のイデオロギーですよね。これは「消費」や「商品」が下品、下劣、悪だという話ではなくて、実際に金銭が介在していない領域や誰も儲けていない領域、仲間内の内輪の盛り上がりや個人的な人生観や趣味についてすらマーケット的感性で見てしまうことの問題です。
むしろ共感というものを信じてるからこそ安易な共感アイテムみたいなものに頼ってはいけない、みたいな思考が働いて作ることが多いからそう思ってしまう……なんというか、クラスの異端を気取ってナンバーガールを聴いてたけどそれは別に世の中的に異端ではないな、と気付いた時のあの感じ、を避けたいというか……」
言いたいことはわかるけど、ナンバーガールの音楽は異端じゃないとダメなんですか? 僕は聴いたことがないし、あまり聴かないジャンルなのでよくわからないのだけど。
こういう作り方の人がいるのって、31音で何かしら筋の通るお話をする、っていう手法が飽きてくれば当然すぎるというか、まあそりゃそういう作り方もあるよね、っていうのが全うな反応なんじゃないかという気がする。
言いたいことはわかるし、わかりやすいサービストークなのでしょう。「飽き」は必ずしも資本主義や消費の問題ではなくて神経や身体の問題でもあると思うけど、ジャンルの手法の歴史を「飽き」や「トガり」のモードのサイクルやロジックで捉えるのは個人的には乗れないです。「飽き」という現象自体は非常に面白いと思いますが、飽きは誰にでもどんなものにでも起こりうるでしょうし、ジャンル内のモードの変わり目が「飽きたから」ってしょうもないことになりませんか?
でも個人的には、そういう現代詩界隈の異常な左翼/反体制っぷりとか、詩集というフォーマットに対するカルトっぽいノリとかもそれはそれでなあ…と思うこともあって、例えば短歌は歌会の存在によって評論も比較的単語レベルで頭でっかちにならなくてすむ印象があったり、一長一短なのかな、という印象。なんだったら定型という外部がいるからこそ、トガったことやったときに映える、という面もあるかもしれないし。
なんか、〈人間の集団〉の話をずっとしてませんか?
芸術は常に新しく更新されることが正義になるし、すぐに「〇〇の死」とか「〇〇以後」とか言うし、雑誌や批評家もそういうこと言っていた方が儲かるかもしれないし、盛り上がり感もでるわけだけど、それでもやっぱり〈芸術における新しさの追求〉と〈資本主義的な新しさのイデオロギー〉は建前であっても分けた方がいいと思います。市場の介在しない純粋な芸術性や精神性こそが大事と言いたいのでは全くなくて、日常の隅々まで抜きがたく内面化させられている市場的感性にどのように抵抗するかは、少なくとも今表現者にとって大事な問題でしょうと再確認したいということです。
また、ジャンルとの格闘は、形骸化や飽きへの抵抗という新陳代謝的なジャンル内論理の側面ももちろんありますが、それだけでしょうか(勉強中かもしれませんが)?
オーソドックスなタイプの「ジャンルとの格闘」に、ジャンルの自律性の追求や純化というモードの言説がありますね。自律性は〈美〉の自律性のこともあれば、諸ジャンルの境界づけのための自律性のこともあります(自律性よりも、整合性とか全体性とか有機性のこともあると思います)。〈美〉も〈境界〉も必ずしもジャンル内の新規性ではないですね。
境界づけの話をするなら、その根拠がジャンル固有のマテリアルや形式に求められることもあれば、精神性(=力)に求められることもあります。
芸術が宗教や社会から遠ざかるほど、マテリアルも形式も科学性を増していくし、反対に美や(精神)力は神秘性を帯びがちだし、ジャンルの論理は科学的=批評的な自律を追求しだす傾向にあると思います。
科学性と神秘性、作品の普遍性と作家の個人的趣味性、歴史への愛着と裏切り、などなど、様々な〈引き裂かれ〉があって、一般化すると「引き裂かれるのはオーソドックス」なわけだけど、言うまでもなく「オーソドックスだ」という判断は何も理解したことになりません。
マテリアルと形式に反省的なあり方はモダニズムに代表的ですね。イリュージョンよりもイリュージョンの作り方や壊し方、イメージよりもイメージを構築する語彙や修辞や神話−素のようなものへのこだわり。モノ的な言葉の配置によって、別の言語組織のようなレイヤーを日常言語や文法性の上に重ねること。視覚性や聴覚性を非−日常的な仕方で喚起しようとすること。
大雑把に一般化すると、メディウムと知覚の関係を既存のコンテクストから引き剥がして別のコンテクスト・感覚・思考を生み出すところに狙いがあるので、〈反省〉は純化と撹乱どちらにも振れます。
(僕の理解が正しいかはさておき、)このロジックは「分かります」が、その「ロジック」自体は作品が見せたかったものでしょうか。そこでわかった気になると「指が月をさすとき、愚者は指を見る」という諺の愚者になりかねません。
絵画でいうとロマン派や印象派の裏には力(学)・感性(学)・色彩(学)の発展がありますね。新古典派が古代ローマの作品の型を(表面的に)模倣していたのに対して、(ドイツ)ロマン派はそのような型を生み出した(自然/精神の)力こそをコンテンポラリーな仕方で模倣=再発見しなくてはならないと考えました。地質学や気象学をはじめとした科学の進歩によって発見された自然の力学と、人間の精神の力や五感の能力の新しい調和を模索する、というのがロマン派の時代精神のひとつだと思います。印象派にも人間的認識の外部に対する科学的感性があると思います。科学やメディアの発展とともに人間の感性・精神(力)と世界の力学の調和のあり方も変容するという流れは、写真や映画、アニメーションやsnsでもあるでしょう。
〈新しさ〉の在り処はなるべく大きなところに見つけたいですね。個人的には穂村弘にはまったことはないのだけど、穂村弘は大きなスケールを持ってますよね。賢さとか上手さだけじゃなくてスケール感です。
後の論点にも関係しますが、
宗教画・歴史画>肖像画>風景画>静物画
のようなヒエラルキーに対して、ロマン主義的感性も印象派的感性も抵抗します。それは単に絵画ジャンルにとって新規性があるからではないです。
それからヒエラルキーの上には「物語」(聖書物語や歴史物語)があり、ヒエラルキーの下に「写生」があることには注意すべきです。「写生」は科学主義的精神、民俗学的精神、反-ヒエラルキー的態度などにおいて前衛であった時代があります。
(だから、ヨーロッパと日本の文脈は違うにせよ、「写生」的主体や近代的主体に「物語的」と形容をつけるのは、まったく間違いではないけれど、難しいところもあると思います。青松さんは写生とかの話をしないとわざわざことわっているのに、ここで写生の話されても困るかもしれませんが。)
(写生的感性を物語化したのは小説でしょうし、現代の小説にとって〈描写〉の地位がどのようなものになっているのか考えてみるのも面白いかもしれません。柄谷行人の「風景の発見」論とかそういう話ではなかったっけ? それから〈われ〉の成立を「写生」よりも「連作」と小説の関係から読み解く筋は『時間のかかる短歌入門①』(稀風社)の30-31頁で佐佐木幸綱『万葉集の〈われ〉』を引きながら鈴木ちはねが示唆してますし、瀬戸夏子の「手紙魔まみ論」もそうでしたね。)
大雑把ではあったけど、ここまで「ジャンルとの格闘」は「ジャンル内の新規性の追求」以上のものだという話をした上で、瀬戸夏子はオーソドックスな「ジャンルとの格闘」をしているのか問題。
これについては具体的な作品読解や同時代・過去の他の歌人や他ジャンルの作品との比較などしないとあまり意味がないのですが。僕の見立ては、「ジャンルとの格闘」はしてるけど、少なくともオーソドックスなタイプの自律性や有機性の目的論に対しては否定的なタイプの戦い方をしてるだろう、というものです。付け加えるなら、そもそも短歌のポテンシャルにはそういったタイプの「ジャンルとの格闘」では汲み尽くせないところがあると思います。塚本邦雄(の名前をここで出すことに、最近の総合誌での語られ方を見るとどれだけの意味があるのかわからないのですが)にしたって、そういったタイプの短歌の先鋭化と同時に、反時代的だったり雑多だったりする教養やコンテクストの中に短歌を置くところからもポテンシャルを見出そうとしているように個人的には見えます。
敗者の美学、「メリーバッドエンド」、「わたしは無罪で死刑になりたい」などはオーソドックスなタイプのロマン主義的な価値観にも十分解釈できるけど、それを屈折・変質させたり、強く否定したりストレートに打ち出してみたりするバランスのあり方は瀬戸夏子の読みどころの1つだと思います。
ゆうべ処刑のただしい心は南へむかった船はそのままきのうの実写へ
雪もない宇宙のいない血のいない 場所でよいにおいにてやすらかに死ね
自由はどうしててのひらを中心として欠伸している他人の処女は
繰り上がる星座をこわしてまだ透明な英雄になるのを止めてあげよう
死で抜けるきみの湯の弓愛の音とざしてめくる述語のように
きみならば首を吊るだろう夕焼けに音楽ははじめに馴染んでく
恩寵のシャワーがひとつの賭けとなる理屈はかけがえなくとも速度は自由
/瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海 end.』
「じゃあどういう戦いなのよ?」に対するクリアな答えはできないけれど、語弊も覚悟でシンプルに一つ答えると「前衛的優越のための戦い」よりも「短歌の多様性のための戦い」の筋で考えています。でもそれは「居心地の悪そうな人」の居場所のための戦いというスケールではないと思います。もし「どこにいたって居心地が悪い」のならどこにいたって居心地が悪いのだし。
話も逸れるし、長くなってきたし、空中戦がすぎるので一旦この話題切りますが、「瀬戸夏子論書こうとすると瀬戸夏子のポジションについてトークしがち」「作品よりも、作品について語る読者の自己言及始まりがち」問題どうにかしましょう。
②物語的私性/現代詩的作者性について
言いたいことは分かります。
けれど、さっきも書いたけれど、どうしても「物語的」という語彙のチョイスに引っかかります。細かいかもしれませんが。
〈物語〉ってジャンルというよりもモードじゃないでしょうか。物語的な現代詩があるみたいに。〈物語〉は小説にも絵画にも映画にも写真にもあります。短歌における〈物語〉については稀風社の『時間のかかる短歌入門①』や『うに−uni−』の連作論でつっこんで扱われてますね。
散文vs韻文
定型詩vs自由詩
小説vs映画
絵画vs写真
演劇vs短歌
はいいけど、
物語(的私性)vs現代詩(的作者性)
は組み合わせが悪いと思うし、「物語」という言葉が曖昧でマジックワード化してると思います。現代詩の一部(?)にはアンチ物語性のような姿勢があるだろうとは思うので、意味はわかりますけど。
厳密な分類よりも、ハッとするネーミングとそのネーミングによって拡張される領域の面白さで勝負するなら(穂村弘が上手いですね)、ここはこだわりどころです。〈人称派〉は面白かったです。
「作者が短歌の中の主人公を生み出して何かを喋る」を「物語的」と言うのは無理ではないし、古典的な意味での「物語」だと思うけど(語り部が登場人物に憑依するようなタイプの語り)、「物語性」や「素敵な物語」の方はそういった発話の位相の問題(作者→登場人物)よりも、発話の内容(主人公を取り巻くストーリー性、話の虚構性、物語の筋のパターン)といったニュアンスですよね?
それに、そもそも一人称や発話のない物語だって可能ですよね。それって〈人称派〉でしょうか。
ある種の「物語」のパターンが嫌なのか、それに無反省に同一化している(ように青松さんに見えている)〈主体〉が嫌なのか、そもそも〈物語ること〉が嫌なのか、わかりませんでした。いや、そういったことのある種の組み合わせが嫌なのだろうということはわかりますけど、そこの記述はもう少しこだわってもいいと思います。
③歌の読み
読みの上手さだけが批評ではないし、〈上手さ〉の土壌や構造を批判することだって必要だし、ブログやSNSという環境を上手く利用したストーリーテリングやカジュアルなアイデアの投げかけは面白いと思ってます。ですが、作品の読みには最低限の創意工夫がないと机上の空論になってしまうし、引用歌の読みは評論の中の大事な読みどころなので、最低限と言わずそこにこそサービス精神を注ぐべきです。
そういう意味では、堂園昌彦の短歌はかなり特殊だと思う。彼の短歌に登場する作中主体は「僕」と名乗ったりして像がはっきりしているはずなのに、よくよく話を聞いてみるとその「僕」の思念は作者の美意識が反映されすぎているんじゃないか、と思えてくる。つまり作者のナイーブさが「僕」に乗りすぎている。
ところが作中で「僕」は「僕」のような顔をしてこっちを見ているので、不思議な説得力に気圧されてしまう。かなりやばい「私性」議論に両足突っ込んでしまってる感があるのでこれ以上は避けます。
ここは余談のなかのさらなるサービストークだろうし、あえて口を滑らせてる部分だろうからあまりつっこまないですが、ここで作品を「僕」の話に回収しようとしているのは読者である青松さんです。それから、堂園昌彦の作品がナイーブであるかは印象論ではなくて作品論で検証した方がいいですし、「ナイーブさ」を自己肯定する感性への批判が「ナイーブではない(はずの)私」の自己肯定のためになされるのだとしたら、その批判はナイーブだし、不毛なポジショントークに終わると思います。批判ではなくて〈特殊さ〉についての記述だったのかもしれませんが。
それから、より具体的な歌の読みについて。
誘惑を好むたちなら夕焼けを好むたちならよくよく阻んだその傀儡を
について。まず目についたのは
①5・7/5・7/8・7の韻律
②「〇〇を好むたちなら」(5・7)という(即席の)定型文のようなものの反復
③「誘惑」と「夕焼け」の音韻の近さ
でした。
③からの類推で藪内亮輔の作品と比較してみたいと思います。
わたしつて重い? さうだね、おもひだね。牛裂きのこころがふらす雨だね。
あなたには恋はれないからあなたつて壊れないから道ばたに花
ふかいところへゆきたいのです 不快 腐海 深いところにゆきを灯して
/藪内亮輔『海蛇と珊瑚』
1首目。
・「重い」と「おもひ」の音韻上の近さ、「こころ」の「おもひ」からの意味上の近さと「重い」からの遠さ、といった即物的な言葉の組織が文意の上に重ねられている。
・「旧仮名遣い+口語」の特徴的な1つの文体で書かれているため、「わたしつて重い? そうだね、おもひだね。」は2人の主体の声が書き分けられた会話文というよりも、1つの声による叙述に感じられる。
・〈即物的な言葉の組織+1つの統一感のある声(=文体)〉という組み合わせによって、声の主体が作者や登場人物というよりも、定型や言語によって構造的に生み出された言語的主体にも感じられる。
2首目。
・「恋はれないから」と「壊れないから」の音の偶然の一致。その偶然を発見した新しさ。
・即物的な音の一致という意味上の〈軽さ〉と内容の意味上の〈重さ〉の対比のイメージ上の必然性。
・偶然と必然、〈軽さ〉と〈重さ〉の対比されながらの総合を受ける結句「道ばたに花」のすわりのよさ。
・この歌でも、内容の切実さから想起させられる登場人物の声と、短歌や言語という組織が生み出した声が重ねられているように感じられる。
・言語や短歌に〈語らされる主体〉という受動性と自動性は、〈恋われなさ〉の受動性や〈止めどなく溢れてくる感情〉の自動性と相性が良い。
3首目。
・「ふかい」「不快」「腐海」「深い」の音の一致と、イメージの〈暗さ〉による統一感(一首目や二首目のような音と意味の対比がない)。
・7・7・3・3・7・7という破調、句切れの多さ、シンメトリー構造といった、短歌的フォルムに対する多重的な違反。
・「深いところ」の物理的な〈光のなさ〉に対して、「ゆきを灯して」の〈光〉。
・〈ゆきがそのもので灯る〉景をイメージするなら〈照らすものと照らされるものの反転〉が起きていることになり、〈暗さ〉を光源としてものを見る視点が想起させられる。
・短歌的フォルムからの違反にもかかわらず短歌的叙情に対する強い否定を感じないのは、短歌や言語によって書ける〈暗さ=光源〉や定型の存在によって可能な〈逸脱〉によって藪内流の〈短歌的視野〉を獲得しようとする積極性からかもしれない。
瀬戸夏子の作品に戻ります。
誘惑を好むたちなら夕焼けを好むたちならよくよく阻んだその傀儡を
・「誘惑」と「夕焼け」の音韻上の近しさには藪内的な言語やイメージの連関が感じられない。むしろ「〇〇を好むたちなら」というフレーズの〇〇に〈「ゆう」+あ段の音+1音〉の語を適当に入れただけにも見える。「誘惑」と「夕焼け」にイメージ上の連関や〈近しさ〉を読み込むのは不可能ではないにせよ、読者の恣意性が強くなるし、そこは読みどころではないのかもしれない。
・「〇〇を好むたちなら」の5・7音の反復(ダブり)に隠れるようにして、「好むたちなら〇〇」の5音が省略されていると見ることもできる。〈三句目の5音が発声されず、初句・二句目と同じ構造で微妙に要素の異なるコピーミスのようなフレーズが繰り返された〉とするなら「よくよく阻んだ」は〈三句目を阻んだ〉のであって、「傀儡」は〈三句目〉のこと、と推理できるかもしれない。歌の〈クビレ〉にとっての〈三句目〉の重要性を想起してみても面白い。ただし、これはあくまでこの歌の〈仕組み〉についての1つの仮説にすぎない。
・「〇〇を好むたちなら」の〇〇は他でもありえたかもしれないが、「誘惑」と「夕焼け」が選ばれている。〈〇〇でもなく〇〇でもなく〉といった無際限の可能性や無限遠点的なイデアへのロマン主義よりも、これら2つの語が選択されたことになんらかの必然性と偶然性を感じる。藪内の場合には、音の偶然性とイメージ連関上の必然性の対比があり、それが一見力強くも感じられる<私>の文体のなかに言語的な受動性や自動性を呼び込んでいた。瀬戸の場合は、〈選択〉の力強い偶然性と必然性があるのみで、イメージ連関の必然性や音の偶然的〈近しさ〉への驚きのようなものがない。〈選択〉といっても、瀬戸の美意識の反映を「誘惑」や「夕焼け」の選択に見るのは不可能。
ここでは、分かりやすい形で、次のように読んでおくことにします。
「〇〇を好むたちなら」という反復されるフレーズにコピーミスのように選ばれてしまった「誘惑」や「夕焼け」には定型(文)に出会わなければ本来持ち合わせていた別のニュアンスやコンテクストがあったかもしれず、それらが短歌的な秀歌となるための三句目=傀儡のコンテクストに絡めとられることを、「誘惑」や「夕焼け」やそれに類するものを本当に「好むたち」なら「よくよく阻んだ」はずだという架空の歴史への叙情。
例えば僕はこう読みました。
コメントは以上です。
楽しみにしてるので、本当に自分が面白いと思うことを信じて書いて欲しいです。
一般的でも一人でも、肯定的でも否定的でも、他人にとって取るに足らないことでも、〈面白いこと〉は〈面白いこと〉である可能性があるはずです。