私的短歌手帖2
信長の耳のかたちは銃に似る
小池正博『水牛の余波』
助詞によって解放されるのは、物のイメージだけではない。人間のイメージも、あたかも物のように流動的に変質していく。ここでは、17音が切れ目なくイメージとして凝縮している。
信長は実在した人物だが、この句ではほとんど架空の人物だ。いてもいなくても、どちらでも大した問題ではない、という意味合いで。
おそらく、信長が長篠の戦いで火縄銃を導入した「事実」を、私たちが知っていることの方が重要だ。
なぜ、ではなく、どのように。
誰が、ではなく、何が。
固定されたイメージは、どうしてあっという間に翻るのか。
名詞がほとんど「事実」と同じ物であるという悲しい現実が、その理由だと思う。その類似性に対して、明確な形状を与えるのが、川柳の前提条件になっている。
ニュートンは林檎という異物によって重力を「発見」した。しかし、重力は林檎の落下を待つまでもなく存在していたし、ニュートンは林檎を見なくても重力を「発見」できただろう。もしかすると、ニュートンは林檎の落下など本当は見ていないかもしれない。
しかし、どのように発見したのか、私たちは想像してしまう。その「どのように」に対して、ぽん、と結果を渡してくれるのが、林檎であり、信長の耳だ。運動を、過程ではなく結果としてイメージさせてくれるための。
ゴキブリと律法学者との出会い
小池正博