私的短歌手帖
向日葵や信長の首切り落とす
角川春樹
言葉が指し示すイメージを現象そのままとして捉えるか、あるいは、ある人物の内的なイメージとして捉えるか。
この句で最終的に問題にすべきなのは、ただ一つ、フーダニットだ。
しかし、誰が、に到達するまでの葛藤は、読者にとっても作者にとっても、「切れ」によって省略されているので分からない。多くの人は「私」だと考えるだろうけれど、「切れ」によってかろうじて存在を許される「私」が、時間を遡行していく過程で、なぜ信長の首が胴体から離れるのか。
おそらく、向日葵が首を垂れていくとき、私たちが考える落日というクリシェが、言葉としては静物画のように微動だにしないはずの「向日葵」と、架空の歴史かもしれない断首の映像との間に、生じるのだろう。
ある人物、と言うときの「ある」は漠然としつつも単数として屹立した「ある」なのか、それとも時空にぽっかりと浮かんでいる匿名性の「ある」なのか。
「切れ」へと介在することが(介在していたのが)、短歌だったのだ、と私は思う。