短歌にとっての〈語り手〉
井上法子「「夜明け」について 第二回笹井宏之賞大賞受賞作を読んで」(現代詩手帖2020年5月号)面白かった。今度自分で書こうと思っていることの一部を先出しすることにもなりますが、あまり書き進められていないし、考察ついでに少し書いてみます。今度公開予定の文章に一部転用するかもしれません。
いま何を聞かれても口ごもるだろう いつ 何を どうして どこまで
/鈴木ちはね「スイミング・スクール」
について井上は
「口ごもる」動作の主体の〈私〉と、パフォーマティヴにもごもごとしたリズムで下の句を述べる語り手の〈わたし〉が錯綜していて、「誰と」はさして問題ではないらしい。
と読んでいる。
(誤解のないように注記。「「誰と」はさして問題ではない」のはダメだという論ではないので、全体の論旨については原文を読んでいただきたい。)
井上は動作主体の〈私〉と語りの主体の〈わたし〉を区別している。
以下、〈私〉と〈わたし〉の語法を井上に従って使い分けてみたい。〈語り手〉への着目は、短歌を読解する方法論の一つとしてナラトロジー(=物語論)の理論を使ってみる、ということ以上の意味があるのではないかと思う。
〈語り手〉という概念については、次のように説明してしまっても大きな間違いはないはずだ。
〈語り手〉とは小説における地の文の語りの主体のこと。地の文の語りの主体は、引用符内の発話の主体や、行為の主体としての登場人物とは区別されるのが一般的だ。
また、〈語り手〉は、任意の作中人物の視点をとることもあれば、書き手(≒作者)の視点、世界や社会について客観的に語りうるような神的視点、シャーロック・ホームズシリーズにおけるワトスン視点、読者の注意を適切に導くような(ときに正体不明の)水先案内人の視点、作中世界や記述言語を構成するシステムやプログラムの視点など、融通無碍に視点を入れ替えることが可能な主体である。
もしも〈語り手〉を一人の人として想定するならば、そのアイデンティティはきわめて曖昧になりうる。〈私〉の視点にほとんど同一化するような、限りなくアイデンティティの明確な語り手=〈わたし〉によって〈私〉についての語りが展開される場合であっても、動作主体の〈私〉と語りの主体の〈わたし〉の間でレイヤーに違いは生まれてしまうだろう。引用歌においては、そのレイヤーが錯綜するようにして歌の声が立ち上がっている、というのが井上の読みだ。
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なぜ〈語り手〉=〈叙述の主体〉への着目が「ナラトロジーで短歌を読んでみた」以上の意味を持つと思うのか。
一つには、〈歌の声〉についてなんらかの洞察が得られそうだと思うからだ。
短歌に限らず、歌謡曲の歌詞であっても、〈歌〉の中で書き言葉と話し言葉が混ざり合うことは珍しくない。けれども、それらが混ざり合うからといって、発話主体と叙述主体が干渉して複声的になるようなことは稀だ。両者は作中人物の発話の声でも語り手の声でもない〈歌の声〉に統一される、ということは歌の生理として一般的に言えるだろう。
発話と叙述が混じりながらも、一つの声として響く歌の例として、たとえば
夕焼け小焼けで日が暮れて 山のお寺の鐘が鳴る
お手々つないでみな帰ろ 烏と一緒に帰りましょ
「夕焼け小焼け」、中村雨紅作詞
エスカレーター、えすかと略しどこまでも えすか、あなたの夜をおもうよ
/初谷むい『花は泡、そこにいたって会いたいよ』
このような歌の生理についての是非はともかくとして、〈歌の声〉を〈発話の声〉や〈語り手の声〉と短絡させずに、それらとは異なる特殊な声として〈歌の声〉を聞くためにも、複数の声が〈歌の声〉の裏で混合している仕方に着目するのは一つの手だ。
これは、一首を叙述として想定した〈てにをは〉論に付け加えられるべき観点に思う。
(「是非はともかくとして」と書いたが、歌一般についてその生理の是非を問うのはほとんど無意味と思う。〈歌の生理〉をたとえば〈多様なレイヤーの言葉を一つの歌の声へと一元化すること〉と定義してみたとして、〈歌の声への一元化〉によってそれぞれの異なるレイヤーの言葉にどのような異化作用や負荷がかかるか、それが良いか悪いか、というのはある程度個別の判断になるだろう。)
〈語り手〉への着目に意味があると思うもう一つの理由。
大辻隆弘の短歌史観によるならば、正岡子規による和歌改革運動を経て、近代短歌から〈語り手〉の機能(≒和歌的な助辞)は一度排除されたということになっている。もしもその〈語り手〉が口語短歌において回帰してきているとするならば、その意味が問われてもいいだろう。
口語短歌に明確な形で〈語り手のわたし〉が登場したのは、斉藤斎藤の第一歌集においてなのか、あるいは穂村弘の第一歌集・第二歌集における、一首全体を「」で括る手法によってむしろ異化された「」なしの地の歌においてなのか、歴史的な事実はわからない。けれど、書き言葉口語体と発話体がミックスされた口語短歌において、叙述部に現れる〈語り手〉の存在は簡単に無視できるようなものではないように思う。
少し長めに、大辻の「私というパラダイム」から引用しておこう。
ここで〔正岡子規「言文一致の利害」『筆まか勢』明22)子規は、「です」「ございます」「だ」といった日本語の文末詞が必然的に合意してしまう聞き手への「礼儀」の問題に言及している。日本語のような膠着語では、文末におかれた言葉(文末詞)が、話し手の聞き手に対する関係を規定してまう。改めていうまでもなく、「です」は聞き手に対する丁寧の感情を、「ございます」は自己より目上の者に対する謙譲の感情を、「だ」は自己より目下の者に対する感情をあらわす文末詞である。これらの文末詞は、話し手を聞き手の「礼儀上の」上下関係によって決定されてしまう広義の敬語である、と言うことができる。したがって、このような口語的な文末詞を文末に使用すると、その記述は必然的にある社会的な階層の人々を読者として想定してしまうことになる。言文一致体が内包してしまう読者との階級的な関係性。その弊害を自覚したうえで、子規は、「誰が読んでも礼儀の考を起さ」ない文体、階級的な関係性を排除した透明で「アブストラクトな言葉」の使用を訴えるのである。
大辻隆弘「私というパラダイム」『新版 子規への溯行』、現代短歌社、2017年、11-12頁、〔〕内注記は平
このような〔語り手が聞き手に及ぼす〕現象は、まさしく聴衆を意識した二葉亭の言文一致の文体の機能によって引き起こされたものである。地の文にあらわれたこのような聴衆との関係性をもった文体の機能によって、読者である私たちは、作品で叙述されている内容を語り手の「語り」を通じて読み取らざるを得なくなる。作者が描こうとする状況と、読者である私たちの間に介入する語り手の存在。階級的な関係性を内包した初期の言文一致体は、地の文のなかにこのような語り手を成立させてしまわざるを得なかった。その語り手の介在によって、作者の読者に対するメッセージはダイレクトに伝わらなくなってしまうのである。
同書、15頁
若い子規が批判し、二葉亭四迷を始めとする言文一致論者が逡巡したのは、実は、作者と読者のダイレクトな結びつきを阻害してしまうようなこのような語り手の存在であった。作者のメッセージが読者にダイレクトに伝わり、読者が作品の背後に「作者」自身の声を感じとるためには、文体が内包する関係性が無化され、「礼儀」から開放されたアブストラクトな文体を確立することが必要不可欠だったのである。若い子規が反感を抱きながら大きな影響をうけた言文一致運動は、つまるところ、そういった透明な文体を獲得するための闘いだった、といえよう。若い子規が待ち望んだのは自分の内面を読者に直接的に伝えるための透明な文体であった。
同書、16頁
一首が、文体の機能によって、作者のメッセージ以上の意味内容を孕んでしまう。言文一致体において、語り手の存在が、作者と読者の一元的な結びつきを阻害していたように、和歌においては、助辞を中心とする文体が、作者と読者の一元的な結びつきを阻害してしまいがちである……。おそらく子規はそう考えていたに違いない。子規が和歌改革においてなし遂げようとしたのは、そのような多元的な関係性をはらむ和歌的文体を、一元的な指示性・映像喚起力をもつ名詞を多用することによって変革し、作者と読者をダイレクトに結ぶことであった。
同書、23頁
大辻の論において〈語り手〉は〈聞き手=読者に話を聞かせる主体〉として登場しており〈叙述の主体〉の性格はあまり強調されていない。けれども、文末を「だ」で終えるのか「でございます」で終えるのかは、叙述の客観性や主体にもかかわる問題だ。そしてまさしく、語り聞かせているのか叙述しているのかが曖昧になりやすいという性格は書き言葉口語体の特徴のひとつだろう。
付け加えると、言文一致体のモチベーションは「語り聞かせる文体」というよりも「考えることをそつくりそのまま写せる文体」(伊藤整『日本文壇史』2)の使用であったと捉える方がスタンダードである。とはいえ、考えたことをそのまま書いただけのものが誰かへのエアリプや語りかけのように機能してしまうようなことはSNSでは日常的な現象であり、そういった言葉の作用への警戒を子規や言文一致体論者たちが考えていたと想像すると少し面白い。
歌の語り手が読者に語りかけてしまうことへの忌避があるとして、その根源は何なのか。それは、大辻が言うところの「作者と読者のダイレクトな結びつき」や「自分の内面を読者に直接的に伝えるための透明な文体」の希求なのだろうか。
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ところで、中島裕介さんの2020/5/9のツイートで初めて知ったけれど、「作中主体」という用語を造語したのは1980年代の荻原裕幸らしい。 「作中主体」という用語が現在どのように使用されていて、どれだけ一般的なのか、当時荻原がどのように使用し始めたのか、よくは知らない。個人的な印象としては、「作中主体」は語り手の〈わたし〉よりも行為主体の〈私〉を指すことが多いように思う。もう少し言うなら、現実世界と作品世界=虚構世界を区別したうえでの、作品世界内の登場人物が「作中主体」と呼ばれているように思う。
「作中主体」という用語が暗黙裡に「作品世界」という概念を引き連れてくることがあるのが厄介だ。というのは、短歌はかならずしも現実世界(リアル)に対置されるような作品世界(フィクション)を持たないと思うからだ。
ザハ案のように水たまりの油膜 輝いていて見ていたくなる
/鈴木ちはね
この歌を、作中主体読みする場合、現実世界と限りなく近い可能世界(=作品世界)において、現実世界の鈴木ちはねの可能世界上の対応者である〈私〉が「水たまりの油膜」を「ザハ案のように」と知覚した、あるいは喩えた上で、「輝いていて見ていたくなる」と思った、と読むのだろうか。
あるいは、その可能世界において〈私〉が〈現実世界の鈴木ちはね〉の対応者である必要もないならば、それは誰でもない、抽象的な、ほとんど人称代名詞としての〈私〉だろうか。もしくは、〈短歌的わたし〉や〈連作や一首が想起させる主体像〉や〈任意の人間〉だろうか。
そういった分析が必要であったり、可能な歌もあるだろう。
花水木の道があれより長くても短くても愛を告げられなかった
/吉川宏志
は可能世界や作中主体が問題にされうる。もっとも、この歌の場合、〈作者/作中主体〉よりは、〈花水木の道があれである世界〉=〈現実世界〉と〈花水木の道があれでない世界〉=〈可能世界〉との間に〈事実/虚構〉の分割線は引かれる。
話は逸れるが、この歌を必然性や可能性を問う様相論理の命題として捉えるなら、命題の真理値が偽であること(「長かろうが短かろうが愛を告げていた」や「そもそも花水木の道が存在しない」や「そもそも花水木の道で愛を告げようとしなかった」など──古典論理とは違い、様相論理においては前件の偽が命題の真を導くとは限らない)まで想定されてもよくなる。もっとも、それは通常の短歌の読みにおいてはほとんどナンセンスになりかねない。
「リアリティの重心」で話題にされている、告げられた読みと告げられなかった読みの分岐は、読解よりは認知の問題に思えたし、僕もまた、話し合いで決着のつかなそうな認知の分断にゾッとしたのだと思う。論理の問題としてなら、告げられなかった読みについては、「花水木の道があれであっても、より長くても短くても愛を告げられなかったが、それとはまったく別の要因によって愛を告げることのできる可能世界」も想像可能だ。いずれにせよ、どのような現実世界と可能世界を想定するのであれ、そもそもの命題が真であることを疑うという読みはほとんどなかっただろう。
その意味においても、
クリスマス・ソングが好きだ クリスマス・ソングが好きだというのは嘘だ
はスキャンダラスに映るかもしれない。
あるいはこの文脈では
アメリカのイラク攻撃に賛成です。こころのじゅんびが今、できました
/斉藤斎藤『渡辺のわたし』
を思い出してもいいかもしれない。この歌では「内心では反対しているはずだ」と読めるけれど、佐クマサトシの歌ではさらにどちらともつかない。
ザハ案のように水たまりの油膜 輝いていて見ていたくなる
/鈴木ちはね
話を戻そう。すべての歌において〈現実世界/作品世界〉や〈作者/作中主体〉の境界が問題になるかといえば、そうではないだろう。〈現実世界=作品世界〉や〈作者=作中主体〉の歌もあると主張したいのではなく、それらの区別が常に問題にされるとは限らないということだ。
作品にまつわる〈事実/虚構〉の分割線はさまざまな場所に引かれうるし、あらゆる作品において常に〈現実世界/作品世界〉の境界に〈事実/虚構〉の分割線が引かれるとは限らない。あえて区別するなら、「ザハ案のように水たまりの油膜」は虚構であり〈たんなる水たまりの油膜〉は事実である。その区別に加えて、〈たんなる水たまりの油膜〉が作品世界内の虚構的対象であるかどうかが問題にされるとしたら、それを問題にするための別の動機や文脈が必要だ。強いて言うならば、〈現実世界と限りなく近い可能世界〉における〈たんなる水たまりの油膜〉と捉えるのが穏当だろうか。もちろん、積極的に二次創作的に読むならばまた違った読みも出てくるだろう。
また、〈私〉の思い・感覚・動作と〈わたし〉の語り=叙述の区別に注意してみるなら、「ザハ案のように」も「輝いていて見ていたくなる」も、〈私〉が思ったことや感じたことを表現する心内語のようでありながら、〈景〉や〈物と主体の関係〉や〈主体の動き〉の叙述にもなっているような口語の運用だ。これは、〈客観的叙述を通じてその叙述主体としての私が表現される〉という写生論的ロジックではなくて、叙述なのか思いなのかの境界のない口語によって〈私〉と〈景〉と〈詩〉が一挙に表現されている、といった風に読めないだろうか。
*
もしも〈作中主体〉を作品世界内の登場人物だとするなら、〈作中主体〉とは区別される〈作品の語り手〉はどのような位置にいるのだろうか。
ナラトロジーよりも可能世界論や分析美学のフィクション論における〈語り手〉概念に近づくだろう。
(ナラトロジーにおける〈語り手〉と可能世界論や分析美学のフィクション論の〈語り手〉をしっかりと比較していないし、それぞれの文献にきちんとあたってもいないけれど、おそらくニュアンスは違う。)
ナラトロジーにおける〈語り手〉は登場人物AからBへ、あるいは書き手の視点へ、あるいは読者を導く正体不明の水先案内人へと融通無碍に変化するような、作品内と作品外の境界のような場所に存在する主体だが、フィクション論の〈語り手〉は、〈フィクション世界をあたかも事実や歴史のようにして聞き手に伝えるふりをするような作品外の主体〉のように想定されているように思う。
(2020/5/14追記:「作品内」や「作品外」は、どこまでを作品と認めるのかにもよるので、あまり正確な表現ではない。「作品外の主体」で言おうとしていることは、「あたかもフィクション世界の全体を見渡すことのできるような主体」のこと。「作品内と作品外の境界のような場所に存在する主体」とは、「全体を見渡す視点を取ったり、作中人物の視点を取ったりと視点が一定ではない主体」のこと。)
可能世界論や分析美学のフィクション論にも諸説あるだろうけれど、ここでは次のような立場を紹介したい。
野上志学『デイヴィッド・ルイスの哲学 なぜ世界は複数存在するのか』において、〈フィクションの語り手〉が批判的に検討されている。
いずれにせよ、あるフィクション内の真理について考える際には、そのフィクションを事実として語りうることが前提とされなければならない。そして現実の私たちの物語を語る行為と物語を聞くという行為が、「物語の語り手は歴史的な情報を聞き手に伝えるふりをし、聞き手は語り手の言葉から学ぶふりをし、適宜反応するふり」をしているものとして理解されうるのでなければならない。
だが、すべてのフィクションが、そもそもそれを事実として語ることが理解可能であるような形式を備えているとは限らない。モダニズム小説、とくにいわゆる「意識の流れ」を用いた作品を思えば、そのような疑念は自然と浮かんでくる。ヴァージニア・ウルフの『ダロウェイ夫人』において、副主人公たるセプティマスが導入される箇所を考えてみよう。
野上志学『デイヴィッド・ルイスの哲学 なぜ世界は複数存在するのか』青土社、2020年、167頁
セプティマス・ウォレン・スミスは、年のころ三十、顔が青白く、花が鳥のくちばしの形をした男だった。茶色の靴に、みすぼらしい外套。その薄茶色の眼には、彼をまったく知らない他人をさえ不安にさせるものがたたえられていた。世界は鞭を振り上げた。それはどこに振り下ろされようとしているのか?
ヴァージニア・ウルフ『ダロウェイ夫人』丹治愛訳、集英社文庫、2007年(『デイヴィッド・ルイスの哲学』167-168頁より孫引き)
最初の、セプティマスの年齢や容姿についての、三人称的な記述の箇所についてはたしかに、それが事実として語られているとの想定は理解できよう。しかし、「世界は鞭を振り上げた。それはどこに振り下ろされようとしているのか?」は三人称的な事実の語りではまったくない。それはせいぜいセプティマスの意識をそのまま写し取ったものとしてしか理解できまい。さらには、三人称的な記述からセプティマスの意識へという語りの手〔ママ〕の転換はそもそも事実の語りには含まれえない、とも考えられよう。
同書、167−168頁
語り手の転換という問題はウルフのようなモダニズム小説に固有の問題であり、フィクションの真理をルイス流にとらえるにあたって一般的な障壁となるものではない、と思われるかもしれない。だが、日本文学に親しむ私たちがフィクション内の真理を考える際にはとりわけ、語り手の転換は深刻な問題となるかもしれない。語り手が転換しないという制約、すなわち、語り手の視点の一貫性という制約は(近代以前の)伝統的な日本文学には存在しなかったという点について、国文学者の安藤宏は次のように述べている。
同書、168−169頁
日本の散文芸術(和文体)の歴史をふりかえった時、〔語り手の一貫性という〕制約からは基本的に自由である。物語にせよ、軍記にせよ、時に現場に密着したある一人の人物から語られているかと思うと、次の瞬間には全体を俯瞰する、全能的、パノラマ的な視点に切り替わっていたりもする。語る「資格」を厳密に考えると矛盾だらけになってしまうのだが、これをさして不自然に感じないのは、そもそも「人称」という概念自体が存在しなかったからなのだろう。一つの文章の中で主語が入れ替わることすら珍しくない和文脈においては、あるできごとに関してさまざまな立場からの心理や解釈を併走させる、その融通性にこそ”客観”の根拠が置かれてきたのである。
安藤宏『「私」をつくる──近代小説の試み』岩波新書、2015年、13頁(『デイヴィッド・ルイスの哲学』169頁より孫引き、〔〕内注記は野上)
〈私〉についての〈語り手〉としての〈わたし〉もまたその融通性から逃れられないかもしれない。
その上で、どこまで〈わたし〉が〈私〉の当事者でありうるのかを問うのは斉藤斎藤だ。
私は世界の中心からずれてしまった。私は私の当事者でなくなってしまった。私が言葉を失っていたのだとしたら私が、私の喪失感と、私の当事者でなさとのあいだで、引き裂かれつづけていたからではないか。と、言葉にしてみてしっくり来ない、私は言葉をとり戻してしまった。
誰の当事者でもなくなった私が、とり戻してしまった言葉でここに生きていて、感じること、思うことは、罪だと思う、思うことの罪。
斉藤斎藤「私の当事者は私だけ、しかし」『人の道、死ぬと町』、短歌研究社、2016年、222頁
「どこまで〈わたし〉が〈私〉の当事者でありうるのか」という問いは、私性についての一般論ではなく、個別の出来事やテーマ、社会や実存的問題に対して「私の当事者でなくなってしまった」わたしの問題として捉えられるべきだろう。
〈私〉が経験していないことや感じていないことを〈わたし〉が書けてしまうこと、「一首が、文体の機能によって、作者のメッセージ以上の意味内容を孕んでしまう」(大辻)ことの問題は、〈語り手〉が〈聞き手〉に作品世界の内容を語り聞かせているという作品理解のモデルにおいて、文体上の問題から作品世界が現実世界と乖離してしまい、なおかつその乖離について倫理的、政治的、文学的な是非が問われるべきとされる場合の問題である。
それは「表象不可能性の問題」でもある。
今日、証人のパロールに、二つの形態のもとで、高い価値が与えられていますが、それを統御しているのは、こうした単純な叙述とミメーシス的な策略の対立です。第一の形態は、芸術を形成することなく、ある個人の経験だけを伝達する、単純な叙述を重視します。第二の形態は、逆に「証人の物語」のうちに、芸術の新たな様態を見て取ります。すなわち、出来事を語ることよりも、思考を超越するかつてあったを証言することが問題なのです──思考を超越するというのは、単にその出来事に特有の過剰によるだけでなく、思考を超越することがかつてあった一般の問題の固有性だからです。こうして、特にリオタールにおいて、思考可能なものを超越する出来事の存在が、思考不可能なもの一般、つまり私たちに作用するものとそのうちで思考が制御可能なもののあいだの不一致を証言するような芸術を要請するのです。だとするなら、この提示不可能なものの痕跡を記載することこそ、芸術の新たな様態──崇高の芸術──の固有性となります。
ジャック・ランシエール『イメージの運命』、平凡社、堀潤之訳、2010年、145頁(本文の棒点強調部「かつてあった」は、ここでは太字強調で表示した)