生理的感覚の行方1:技術進化のリズムと感性変化のリズム(イントロダクション)
(※3月4日、第二節「技術の<人間像>への先行」・第三節「頭脳主義的自然人と生物学的現代人」加筆修正)
かつて吉岡太朗が「詩客」「日めくり詩歌」(2012/9/12)において、瀬戸夏子が一首の解釈において「31音を数えた」ことは生理的感覚に観念を先行させて「31音」を捉えているということではないかと疑問を呈したことについて、モダニズムの文脈から応答しようと予定していた(生理的感覚の位置ずらしのために(日記2/8))。しかし、あれこれ考えているうちに吉岡の開いた問題にもう少し正面から取り組んでみたい気分になってきた。数回(4〜6回?)にわたって「生理的感覚の行方」シリーズを分載しようと思う。最後にはモダニズムやテクスト論の話にも立ち入って、瀬戸の議論にもいくらかの考察をする予定だ。今回はイントロダクションとして、吉岡にも参照されていたルロワ=グーラン『身ぶりと言葉』における技術とリズムの問題にいくらか言及しておきたい。 1技術の加速度・リズム
技術による感性のプログラム化は人間による反省的捉え直しと主体的制御の速度よりも早く進む。とりわけ技術−産業や科学−技術によってもたらされる<人間の反省より速く進展する技術>に対する人間の主体的な取り組みの不能性(必然的な遅さ)は現代文明にとってアクチュアルなテーマである。しかし、実のところ、はじめに技術が生み出された太古の昔から技術が意識や感性に先行していたことをルロワ=グーランとともに捉えることができるだろう。技術の思惟への先行に対する嫌悪が反映されたプラトンによる弁論術批判や詩人追放論よりもさらに古く、先史時代の原人や旧人にまでそのような技術の先行を見いだせると思われる。
アンドレ・ルロワ=グーランは『身ぶりと言葉』(Leroi-Gourhan,Le Geste et la Parole,Tome1(1964),Tome2(1965)[ちくま学芸文庫、荒木亨訳、2012年])において、生物学的進化(二足歩行に至るまでの骨格の変容の力学的考察)、生理学的進化(頭蓋骨の形態の変化とそれに伴う大脳皮質の進化)、技術的進化(石器からエレクトロニクスまで)、社会的進化(原人から現代人まで)の速度の差に注目しながら、<リズム>という語彙を使って<人間>の起源や生物学的特徴、文化のあり方などについて記述する。その際、後に見るように、とりわけ技術の変容のリズムが最も大きな理論的価値を担わされている。
吉岡が「詩客」の記事の冒頭に引用していた440頁は「価値とリズムの身体的根拠」と題された第十一章にあたり、吉岡もまたそういったテーマの下に記述したと思われる。第十一章ではすでに原人や旧人についての古生物学的な議論が終わり、ホモ・サピエンスの生理的ないし文化的感性としてのリズムについての考察が始まっているが、ルロワ=グーランによって使用される「リズム」という語彙は感性的リズムを指すだけでなく、より広い意味と理論的価値を担わされた戦略的な語彙であることを改めて確認しておきたい。
「リズム」の語彙がはじめに使われるのは次の箇所である。
「前期旧石器時代の期間は厖大な長さであり、最も少なく見積もっても、三十万年から四十万年間続いている。このきわめて長い時間のあいだ、[石器]文化はごく緩慢なリズムで進化するので、アブヴィリアン期からアシュレアン終期にいたるまで、[石器に]いくつかの形がつけ加わり、仕上げの巧妙さがやや改められただけで、同一の基本型が保持されている。〔…〕以上のことから、[頭蓋骨と大脳皮質が緩慢に進化していくことを示す]化石と[緩慢に進化する]道具を同時に観察すると、道具類と骨格の同時的進化という考えがわれわれの頭のなかで支配的になってくる。」
(第三章「原人と旧人」第十六節「原人の定形的石器」、169頁)(以下、[]内の挿入および太字の強調は筆者・平によるもの)
「アウストララントロプスと原人におけるきわめて長期にわたる[緩慢な]発達の過程を通じて、技術は生物学的な[緩慢な]進化のリズムをたどるようにみえ、チョッパーとか両面石器[の発達]が骨格[の発達]と一体をなすようにみえる。〔…〕もし技術性が人類の特徴につけ加えられるべき一つの動物学的な事実に過ぎないのなら、技術の[ホモ・サピエンスの出現に先立った]いちはやい出現やその緩慢な最初の発達をいっそうよく理解することができ、技術性がホモ・サピエンスの知的な鋳型のなかに流れ込んだ瞬間からその進化の主な特性になったことを理解することができる。」
(183頁)
また、「リズム」と同様のニュアンスを帯びた「加速度」はもっと手前に発見される。
「(…)古生物学もやはり、彼[ニュッサのグレゴリウス]と同じく人間意識の頂上への進化を特徴づける<解放>について語っているのである。事実、古生代の魚から第四紀の人間にいたる展望のなかでは、人類はあいついで一連の解放に立ち会うように思う。つまり水からの全身の解放、地面からの頭部の解放、移動からの手の解放、そして最後に重い顔面からの脳髄の解放である。この感じが不自然なものであることはほとんど疑いをいれない。われわれは、説明に都合のいい化石を際立たせることによって、進化のごく不完全な像(イメージ)をつくりあげるからである。しかし明らかに、説得力のあるいかなる証明もいまだ姿をみせていないにせよ、生物界が時代をへるにつれて成熟し、人が現実に適合した形を選択しながら規則正しく進化してくる長い足跡に光を当てることになる、ということはいえる、この足跡の上で一つ一つの<解放>がしだいに増大する加速度を示しているわけである。」(60頁)
「(…)[二足]直立位はその結果としてすでに、アウストラロピテクスにおいて、前額部、側頭部、頭頂部における頭蓋穹窿の面積の増加[すなわち、額が広くなり頭蓋骨が縦に伸びることで、脳を収めるための容積と表面積が増加すること]をともなっている。この増加は累進的であり、サルから人類にいたる一つ一つの型にその各段階をたどることができる。旧人まではつねにいちじるしく増大をつづけるが、旧人からホモ・サピエンスにいたるまでは、逆に増大の加速度が衰えてくる。人間にあっては、頭蓋穹窿は脳髄の実際の表面積に当たるから、アウストララントロプスから旧人にいたる脳進化の最もはっきりした事実は、額と頭頂の中間部分における大脳皮質の面積の増大であると、はっきりいえる。」
(第三章「原人と旧人」第八節「大脳皮質の展開」、136頁)
以上の引用部においては、リズムにしても加速度にしても、それは共時的なある一時点でのなんらかの存在者や現象が持つ感性や性質ではない。そうではなくて、それらの通時的な変化の速度について「リズム」の語彙が当てられている。それから、ある一つの対象が持つリズムをそれ自体で考察するのではなく、複数のリズム間での同期/非同期から諸々の現象を解釈することがルロワ=グーランの基本戦略である。
「リズム」は、人間の生理的リズム感や自然現象の周期的なリズムといったものにとどまらず、魚から原人に至るまでの骨格の進化のリズムや、猿人からホモ・サピエンスまでの頭蓋骨の進化とそれにともなう大脳皮質の拡張のリズム、古代石器の緩慢な進化と現代技術の加速的進化のリズムにまで適用される。おそらく、人間不在の惑星の寿命や、参加者が一人もいない仮想世界の変化にもリズムを見出すことが可能だろう。
したがって、吉岡が散文のリズムを短歌定型のリズムに強引に同期させた後で、すでに短歌的感性を内面化した歌人の通時的感性と短歌初心者の共時的感性の齟齬に考察を加えるのは、ルロワ=グーランの「リズム」観に正確に則っていると言える。しかし、瀬戸が「31音」を数えたことをリズムを度外視して観念を優先させているように捉えてしまうのならば、あまりルロワ=グーラン的ではないだろう。というのは、繰り返しになるが、リズムは(原始的な)生理や体感のためだけの語彙ではないからである。それが仮に観念的なのだとしても、観念の展開にもリズムがあると言えるのである。また、それが原始的感性のリズム感に反するとは言えても、現代的な感性のリズム感に反するとは必ずしも言えないだろう。もし現代的リズム感に反していたとしても、それには別のリズムがあると捉えればよく、それらのリズム間の齟齬が問題になるのである(結果的に吉岡はまさにそういったリズムの齟齬に着目していると言える。「生理的感覚の行方」シリーズを通して、その考察をさらに先に進めたいと思う)。
吉岡が指摘する「メタレベルの指示の野暮ったさ」や「説明の地位の低さ」、「評が見事であることと生理的感覚に反することの間にある齟齬」は技術と短歌の関係論に拡大することが可能だろう。技術の進化はたしかに人間の生理に反することが多々あるが、それにもたしかにリズムを見出すことができるはずである。
(たとえばAIのシンギュラリティ仮説は、人間の都合は御構いなしに、統計的(?)指数関数的な加速度から提示されている。「いずれやってくるシンギュラリティ」と言う時、もはや技術者たちの主体は問われないような印象をうける。あたかも、技術者たちの主体がシンギュラリティに突き進むリズムとあらかじめ同期させられているかのように。とはいえ、一般に、人類の歴史や文化について複数のリズム間の同期/非同期を考察する上で、技術のもつリズムはおそらく特権的なものであるだろう。)
2技術の<人間像>への先行
人間の生理的感覚の拡張によって技術の性格を理解することの限界は、例えば次のような記述から読み取れる。
「進化はつづき、動物の動力や風や水の動力が用いられるようになると、筋肉の力そのものが体から解放される。これは、人類が自分を[槌やノコギリといった道具を使用する上での力学的な原動力であることから解放されて、たとえば機械のスイッチを押すだけのように]始動の役割だけに限定してしまい、自分を決定的に拘束する肉体機能の専門分化からはそのつど免れている、という人類の不思議な性質なのである。最初の人類の手が厳密に道具に適応したとするなら、限られた行為に高度に適応した一群の哺乳類が生まれただけにとどまり、人間は生まれなかったことだろう。人間が生理的(そしてまた精神的)に[道具に]適応しなかったことは、意味深い遺伝的な特徴である。屋根の下にひきこもるばあいはカメであり、鋏を手にするばあいはカニであり、騎士になるばあいはウマであり、そのたびに、人間は自由な余力をもつようになり、その記憶は書物のなかに移され、その力はウシによって倍加され、その拳は槌によって改良されることになる。」(390頁)
しかし、現代技術の進化が人間の生理の反映ではないからといって、技術の本質を知性的なものとして捉えることもできない。そもそも、ルロワ=グーランが「リズム」という語彙を戦略的に選んだのは、<技術一般>の本質を生理的なものや知性的なものとして定義するためではない。
ひとまず、技術の性格は段階的に変化すると言えるだろう。石器の進化のリズムが神経系の発達や大脳皮質の拡張のリズムと同期するとき、技術は生理的なもの(の反映)として理解される。また、脳の発達が終局に達したホモ・サピエンスの登場とともに技術の進化が飛躍的に加速するとき、技術のリズムは身体や脳の生物学的進化のリズムではなく、社会的動物としての人間の知性の進化のリズムと同期させられる。このように統計的な手法を使いながらリズムの同期/非同期を考察するのは、そもそも古生物学には資料とする化石の量と質の制限により実証できることに限界があることと、ルロワ=グーランが現代の視点から過去の事象の解釈することを基本的な態度としていることからくる戦略である。
ただし、「人類の段階的な進化が技術の段階的な進化を生んだ」と言うことは正しいようでいて、認識論的には逆である。というのは、化石人類の意識や感性について先験的に知ることができない以上、道具のあり方や技術進化のリズムから実証・解釈することで<人類像>を作り出さざるをえないからである。さらには、次回以降に見ていくが、技術を媒介として<人間像>を解釈する手法は石器文化だけでなく現代文化の考察にまで適用されることになる。したがって、<人間像>は古代から現代に至るまで常に技術を媒介に生み出されるのである。
もし<技術>が常に<人間像>に対して特権的媒介として機能するならば、「技術の性格は段階的に変化する」という表現は不十分である。常識的な直感に反して、<技術>が<人間>を生み出すことに着目しなくてはならない。(次回以降、<人間論理>と<技術論理>をさらに明確に記述していく予定である。)
したがって、「人間は環境に生理的に適応する進化にかえて自由な知性を持つ頭脳の進化を遂げた」ということはある程度正しいが、生物学的な頭脳の優位や自由な知性は必ずしも<人間>の定義にはならない。<人間像>を生み出す技術の発生がそもそも脳の完成に先立つこと、それから、技術の飛躍的進歩が(脳の完成をきっかけにしているとはいえ、)脳よりも社会や歴史の進展に相関することに注意しなくてはならない。
人間の現象の全体は、最初の仮説を数多くの点について検証する何通りもの調査によって初めて理解されるが、いまのところ、まさに根底からの変化が起こったのは、工作の進歩と脳容積の[原人からホモ・サピエンス以前までの]規則正しい上昇曲線上に驚くべき分離が生じた時期、つまり前頭部の閂がはずれる瞬間であるようにみえる。[ホモ・サピエンスの登場とともに]脳はその最大容積に達したようにみえるが、道具は逆に垂直線上昇の方向をたどる。この転回点上に、生物学的リズムに支配される進化から、社会現象に支配される進化への文化の移行を位置づけることができる。(237頁)
3頭脳主義的自然人と生物学的現代人
ルロワ=グーランは歴史的段階ごとに技術の性格を分類するにとどまらず、<技術一般>に次のような定義を与えている。
技術というのは、一連の動作に安定と柔軟さとを同時に与える文字通りの統辞法(シンタクス)によって、連鎖的に組織された身振りと道具のことである。動作の統辞法というのは、記憶によって提示され、脳と物質環境のあいだで生みだされたものである。(196頁)
技術は、技術的存在にとって外的な主体(使用者・脳)と客体(使用されるもの・物質環境)の間で目的と手段によって個別に規定されるのではなく、道具や身振り同士のネットワーク(統辞法)によって総体的に捉えられている。民族の習慣が遺伝的に継承されることがないのと同様に、技術の統辞法も、当然のことながら、生理からも知性からも導きだせないのである。
もう一度、技術と人間の発生の時系列を確認しておこう。道具はまずその起源において人間的知性の反映としてではなく、骨格や頭蓋骨の生物学的進化や大脳皮質の生理学的進化と同期したリズムで、動物学的事実として生み出された。それから、脳の進化が限界に達したあとに技術の飛躍的進化(生物学的・生理学的進化の停滞に反した技術進化の加速的リズム)とそれにともなう社会的進化がはじまった。技術は頭脳の完成に先行して生み出され、頭脳が十分に完成した後に加速的に進化するのであって、頭脳の進化とは異なるリズムをとるのである。
このように技術と人間の発生を捉えるルロワ=グーランは、ルソーの<頭脳主義的自然人>の仮説に反対する。あくまで人間的技術の発生を人間的知性に先行した動物学的事実として捉えるところにルロワ=グーランのユニークな視点が見て取れる。
「今日の人間の[頭脳や骨格といった]あらゆる属性をすでに身につけた<自然人>は、最初、物質的なゼロの状態から出発し、獣を模倣し、また推理を重ねながら、技術・社会的な次元で自分たちを現代世界へと導いてくれるものを少しずつ発明していく。この像(イメージ)は、驚くほど形が単純であり、物質的な進歩が袋小路に導くものだということを証明するのに巧みに用いられるが、それは低級な通俗文学や、先史時代を背景とする科学小説のなかで、今日でもなお、あらゆる哲学的な精髄をとり去った形で生き残っている。人間の精神は、燧石(フリント)がなかば[少なからず知性を持った人間の祖先ではなく]サルのような生物によって打ち欠かれた可能性があるということを、いっさい認めようとしなかった。」(37頁)
ルロワ=グーランの徹底した生物学主義から次のような大胆な言説が生み出されるということを確認して、予備的考察を終えておこう。
「しかし、生物学上の変化が、それをこうむる生物の生理的な体制と行動に同時に係わる事実であることを認めるなら、自動動力の誕生は確かに本質的に生物学上の段階なのである。〔…〕先に見たように、ホモ・サピエンス以来の人間の進化は、地質時代の水準のままでの体の変化と、次々とつながる世代のリズムに結びついた道具の変化の展開とが、しだいに明白に分離していくことを証言していたのである。種が生き残るには、ある調整が不可欠であった。つまり技術的な習慣に関するだけでなく、変換のたびに個体の集合法則の手直しを要する調整である。人類が動物的な世界と平行しつづければ、しだいには逆説になってしまうにせよ、人間が道具や制度を同時に変えるたびに、少しは種(スペキエス)も変っていかざるをえないことになる。人間に特有とはいえ、集団機構の構造全体に影響するさまざまな変化の連関性は、動物集団の全個体に係わる変化と同じ次元のものである。ところで、社会関係は、原動力が無制限に外化されるとともに、新しい性格をおびる。人間以外の観察者で、しかもわれわれが慣らされてきたような歴史的、哲学的な説明に無関係な存在なら、われわれがライオンとトラ、オオカミとイヌとを区別するように、十八世紀の人間と二十世紀の人間とを区別することだろう。」(392−393頁)
ここまで強い生物学主義を認めるかはさておき、骨格や生理の変化に対して技術の変化が大幅に速いリズムをとるとき、技術の変化のリズムの相関項は、個体の生理や意識のリズムよりも集団の構造の変化のリズムへと移行するということが語られている。つけ加えるならば、ルロワ=グーランも予測していることだが、現代技術の問題は技術進化が社会的集団の変化よりもさらに速いリズムをとっていることである。
歴史的・技術的・民族的な産物としての短歌の定型に関して言うならば、(人間的な生理と知性を持ちながら知識や記憶がリセットされた存在として想定される)<頭脳主義的自然人>の生理と短歌定型の生理が一致するはずがないのは自明であるだろう。定型は自然物でもなければ人工物でもなく、その中間にあたる技術的存在者として捉えなくてはならない。
4技術としての短歌
ルロワ=グーランについての考察の続きは次回にまわして、短歌を技術の問題に開くことの意義についてもイントロダクションを書いておこう。
なによりもまず、短歌の人間論理(意味の論理や感覚の論理)に対する技術論理(いずれ<一首評的論理>と言い換えたい)の異質さやその意味を明らかにしてみたい。
簡潔に言うなら、人間論理とは人間的認識主体と認識される客体(自然、もの、作品など)の間の認識論的関係論であり、技術論理はそういった<主体−客体>の間で透明に機能させられていた媒体(テクスト、定型、語など)の脱−主体的かつ非−実体的なネットワークやシステムの論理である。
(ここで<脱−主体>とは、欲求、慣習、趣味などに左右される人間的主体に対して<脱−>なのではなく、そもそもそういった主体を超越していると見なされているカント的な自律した自由な主体からの<脱−>である。また<非−実体>とは、主体と客体の相互規定のための基礎的で安定した実体としての媒体ではなく、主客から独立した媒体同士の相互関係が非−実体的だということである。)
あらかじめ予防線を張っておくならば、短歌を技術の問題に開くことは短歌をなんらかの目的のための手段としての道具として扱い、考察することではない。目的や手段によって技術を捉えることこそ人間論理であることは後に明らかにしなければならないだろう。技術論理はむしろ、人間論理的な作者の思想や読者の読解以上に、作品自体の自己目的的なあり方と非−目的的な価値を扱うことができるはずである。
また、短歌を技術へと一般化して分析し、短歌の技術的な特殊性を明らかにするといった記述もするつもりはない。むしろ、もし短歌について<本質的語り>が要請されるならば、技術の問題が本質的に避けることができないということを明らかにしたい。
それから、技術論理は、人間論理(作者の意図や正しい/良い読みなど)についての適切でシステマティックな方法論を明らかにするどころか、反対にその論理を解体しうるということも予告しておこう。
さて、技術論理はどのような問題に関係するのか。
まずは、主体性の問題である。たとえばそれは、技術の進化が人間の反省的思考よりも早く進展することで、技術を統御し、適切に使用する主体性を人間が保持することができなくなるという現代的人間−技術関係論のうちで短歌を捉えてみるということだ。AIを待たずとも、テクスト論や構造主義言語学がすでに言語が人間的主体の支配下に収まらないという知見を与えてくれていた。より具体的ないし現実的には、修辞や作品のバリエーションを適切な主体が文化的価値判断をすることの可能性/不可能性についての問いへとつながるだろう。あるいは、AI短歌について、それを人間的な価値判断から作品の良し悪しを決定すればよいのか、あるいはそうではない付き合い方があるのか、といった話にもつながるだろう。
次に、媒体(メディウム)の形式=定型の問題である。それは言語や修辞の非−人間的なあり方を意味の論理と感覚の論理を媒介する技術論理において記述することである。それによってメディア論的言説の在り処もより明瞭になるだろう。
とりわけ媒体の問題に取り組んだモダニズムとポストモダニズムのうちにその問題が明瞭に見て取れるだろう。「経験的にして実証的なもの」についての近代的関心を背景として表現内容の観念や情感よりも媒体の実証性に注目が集まり、媒体の自己批判的更新でもって感性の更新と主体性の確立を試みるモダニズムが生み出された。それから、テクスト論や領域横断的思考が媒体の固有性を剥奪したことで、媒体の自己批判から(近代的)主体性を抜き取ってしまった。
こういった潮流のうちで、<意味−感性><観念−情感><主体−客体>の弁証法の「−」として機能していた透明な媒体を対象化するメディア論や技術論の論理が働いていることを見逃してはならない。
モダニズムの美的質の革新とし、それによって自己が正当化されたのは、ミディアム[=medium 媒体]の直接知覚できる実体の革新による。」(『グリーンバーグ批評選集』52頁)
〔芸術は〕一九世紀になると、経験的にして実証的なものへと探求の方向を変えた。〔…〕美的感受性もそれに応じて変化した。諸芸術においてますます進行する特殊化は、労働の分業化が浸透したことに主因があるのではない。そうではなくて、直接的なもの、具体的なもの、それ以上は削減できないものへの、我々の信仰や趣味が増大した結果なのである。この趣味を満たすために、様々なモダニズムの芸術は、それ自体で最も実証的かつ直接的なものへと、自己限定を企てる。」(同書、102頁)
そして、感性の問題である。技術が感性に先立つことは先に見た。とはいえ、感性を徹底的に経験、歴史、環境、技術、民族といったものに構築されたものと扱うわけにはいかない。また他方で、構築主義に、感性の個人的性格や独自の実在性(クオリア論など)によって対抗する議論の立て方もおそらくしないだろう。少なくとも、構築主義によって人間的感性を説明してしまうことによって、せっかく人間論理から引き離した技術論理をもう一度人間論理に退行させてしまうことは避けなくてはならない。
言うまでもなく、こういった問題群を包括的に語ることはあまりに手に余る仕事である。どこまで記述できるかはわからないが、いくらかの問題に絞って話を進めようと思う。少なくとも、別の議論でも使えるようにするために、明らかにしておきたい論理は次の三点である。
①技術が知(知/臆見)/感性(文化的感性/生理的感性)に先行しながら後成系統発生(スティグレール)すること
②<つねに既に>先行する既現的なものから未来を先取りする主体的(本質的)歴史性(伝統と革新の連続としての主体的歴史性)の論理
③ある種の主体が失効し、時代画定(エポックメイク)が人間主体の知的更新よりも感性の更新となったとき、何を考えるのか(???)
もちろん、こうしたことを技術一般の哲学的問題としてよりも短歌の問題として考えていく予定である。
次回は、ルロワ=グーランがなぜリズムを問題にしたのか(資料の量と質に制限された考古学的実証科学の問題)、それから、目的と手段によって記述することができない技術論理とはどのような論理なのかについて、もう一度まとまった仕方で書こうと思う。おそらく第三回以降に、ルロワ=グーランの知見が反映されているベルナール・スティグレールの『技術と時間』1・2巻での議論を参照して技術論理をより深めていくことになると思う。第四回以降にグリーンバーグ・フーコー・デリダなどを参照しながらアヴァンギャルドやテクスト論の話もするだろう。そうしたなかで、塚本邦雄「反・反歌」「無言歌について」や、古今和歌集の序文を『詩経』・『楚辞』と比較検討した中島隆博『思想としての言語』(2017年、岩波書店)の議論も検討する予定だ。瀬戸と吉岡のそれぞれの議論についての最終的な考察はシリーズの最後になるだろう。