生理的感覚の位置ずらしのために(日記2/8)
おそらく数ヶ月の間、TOMに一定の注目を集めておくためのエンターテイメント性を僕が担っていかなくてはならない(?)ので、できれば1000文字以内、長くて2000字くらいでオチまでついた、スッと読める文章を書けるようになりたい。
細かく息の長い話は今後も続けていくけれど、それとは別に、口頭で伝わるレベルにまで落とし込まれたアイデアもなるべく多い方がいい。うまく言えないことへのこだわりを捨てて、言えることだけを断片として、目の前の人にクリアに伝えるための工夫が思わぬ議論の進展を生むことはよくあることだ。
いくつかアイデアはあるけど、ひとまず、今夜か明日あたり(明後日かな)には、2012年の吉岡太郎さんの瀬戸夏子さんへの言及について昔感じていたことを書こうかな。 一首の音数を数えたり「31音」にこだわるというのは、体感に対して観念を優先させることではなく、むしろその逆だったという可能性はないか、という話。
たとえばグリーンバーグ流のモダニズムは観念的だったのだろうか。あるいは表象的観念(観念的表象?)に対するキャンバスや絵の具の体感による異議申し立てだったのではないか。
短歌における生理的なものの位置や地位は一つに絞れないはずである。僕が一首評を読むのが好きなことの理由がまさにそれであって、たとえこじつけっぽい論理や上手く評してやった感を伴っていたとしても、そこに個人的にはまったく未知であった生理が発見されることは少なくない。
「運命の抜き差しのために」でも短歌における生理的感覚の位置ずらしを試みた。
これを書くには少しだけ調べものをしないといけないけれど、あくまで短文のための調べもの。
ところで、しばらく瀬戸夏子や『率』への言及が多くなってしまうと思う。僕自身が早稲田短歌や、『町』・『率』で短歌に入門したということもあって、やはりこだわってしまう。
学生短歌会の内輪っぽい印象はできれば避けたいし(僕が内輪として見られたくないというよりも、言及させていただく方々や作品が内輪の文脈で読まれることを避けなくてはならない)、入門にこだわるよりさっさと門の先へと手を広げていくべきだというのも確かである。
しかし、僕たちにこれほどの文脈を作ってくれた同世代(?)に対して、同時代的に同世代が応答(必ずしも応援や批判である必要はない)していくことは、大きな権威に抵抗することや、曖昧でありながら強固に私たちを縛る雰囲気と戦うこと(もちろん、そういった戦いは大事である)以上に手近で、具体的で、簡単で、おそらく生産的で、エンタメ性もあるだろう。
ちなみに僕が瀬戸夏子と会話した時間はトータルで10分程度だろうし、歌会に同席したのも1、2回で、短歌や評論について話したことはおそらく一度もない。例えば平岡直子や吉田隼人とはもう少し親しくさせてもらったが、それでも会った回数は7年間で歌会の同席も含めても30〜40といったところだろう。それから僕自身早稲田短歌会には体感では4年間で20回ほどしか出席してないと思う。