歴史と印象に立ち向かうための逆説的な12の引用
彼女の若くて強靭な肉体は今、頼りなげに眠っていて、彼に憐れみと護ってやらねばという感情をかき立てた。しかしツグミのさえずっているときにハシバミの木の下で感じた無心のやさしさは、そのまま戻ってくることがなかった。彼はオーバーオールをどかして彼女の滑らかで白い横腹をしげしげと見つめた。彼は思った、昔は男が若い娘の肉体を見て魅力的だと感じると、それで話は終わった。ところが今は純粋な愛情や純粋な欲望を持つことができない。どんな感情も、すべてが恐怖と憎悪が混じり合っているために、純粋ではないのだ。二人の抱擁は戦いであり、絶頂は勝利だった。それは党に対して加えられた一撃、それは一つの政治的行為なのだ。
完全に個人が支配された社会において、もはや一つのアイコンでしかない「性」について、極めてリベラルであるという自覚がある、とある物語の主人公の男は、「性」を政治的行為だという自覚を持つことはできるが、何かを「見る」という行動に際しては、自身の「性」を純粋な欲望として発揮するのである。自由への意志は、「見る」ことが生み出す軽蔑にまでは及んでいない。その軽蔑とは、差別であり、主人公の独白のとおり(そして主人公には自覚のない)、主人公による「政治的行為」でもある。
すべて一からやり直さなくてはならないだろう。何年もかかるかもしれない。彼は顔を撫でて、その新しい形に馴染もうとした。頬には深い皺が刻まれ、頬骨が尖り、鼻は低くなっている。それに、鏡で自分の姿を見て以来、新しい義歯が入れられていた。自分がどんな顔をしているかが分からないときに、他人に読み取られない無表情を保つのは容易ではない。いずれにしても、顔つきをコントロールするだけでは十分ではないのだ。彼はこのとき初めて、秘密を守りたければ自分自身にも隠しておかなければいけないことに気づいた。それがそこにあることは常に知っておかなければならないが、必要になるまでは、それを名指しできるものとして意識に立ち上らせてはならない。これからは正しく考えなければならないのはもちろん、それだけではなく、正しく感じ、正しく夢見なくてはならないのだ。そしてその間ずっと、憎しみは自分の一部ではあるが、自分の他の部分とは切り離された球状の塊として、つまりは一種の包嚢として、自分の内側にしっかり閉じ込めておかなくてはならない。
社会と個人の狭間に置かれた、追い詰められた主人公の男の葛藤は、ポストモダニズム的にあえてピックアップされた「心理的葛藤」としてここに表象されている。ここでは、主人公の男の、正統性と外面に関する、奇妙なまでの癒着した思考回路が明らかになっている。
彼に強く惹かれるのを感じたが、それはオブライエンの優雅な物腰と賞金稼ぎの闇ボクサーを思わせる肉体との対照に興味をそそられたためばかりではない。むしろ、オブライエンは政治的に完全に正統ではないという密かに抱いた確信――いや、確信などではなく、単なる希望かもしれないが――によるところが大きかった。彼の顔にはどこかそれが抑えきれずに現れているようだった。それとも、彼の顔に書き込まれているのは非正統性ですらなく、単なる知性なのだろうか。
閉鎖的な場所で、ある人物に対して、「この人は私を理解してくれている」「この人は何か違うものを胸に抱いている」と感じること。その妄想(そう、この物語においては、主人公の男の抱く想念は全て妄想であり、見えない何かに操られる個人として強調されているが、しかし、主人公の男の思考は、全て視覚による先入観によって支配されている。この支配に対する違和感は、社会(自分のおかれている現状)への違和感としては機能するが、無意識の差別意識・「政治的行為」へと想像力が及ぶことはない。男らしさ(女らしさ)へと希望を抱く主人公の男は、
彼はオーバーオールのベルトを締めながら何気なく窓辺に近寄った。太陽は家並みの陰に沈んでしまったに違いない。庭にはもう日差しが届かなくなっている。敷石が今しがた水で洗われたように濡れていて、空までが水で洗われたよう。林立した煙突のあいだの空色はそれほど淡く澄み切っていた。庭の女性はせっせと行きつ戻りつしながら、洗濯バサミを口にくわえたり口から取り出したり、そのたびに、歌をうたったり黙ったりして、おしめを物干しに吊るしていく。おしめは次から次へと出てくるのだった。彼女は洗濯の内職をして生計を立てているのだろうか、それとも、二十人、三十人もいる孫のために奴隷のように身を粉にして働いているのだろうか、とウィンストンは考えた。ジュリアが彼の隣にやってきていた。二人ともどこか魅入られたように眼下の逞しい姿から目が離せない。彼女特有の姿勢――太い腕が物干しに伸び、臀部が雌馬のように力強く突き出ている――を見ているうちに、彼はこれまで気づかなかったが、彼女を美しいと感じた。五十歳の女性の肉体、出産のたびに途方もない大きさにまで膨張し、その次には、働きづめで硬化し節くれだった挙句、熟れ過ぎたカブのように肌理の荒くなった肉体が美しいはずなどない、彼はずっとそう思い込んでいた。しかし彼女は美しいのだ、そして、結局のところ、それも当然ではないか、と彼は思った。花崗岩の塊のように固くて輪郭の崩れた肉体とざらついた赤い皮膚とを若い娘と比較するのは、バラの実と花を比べるのと同じ。実が花より劣る謂れはない。
ある中年の女性を「花崗岩の塊のように」と比喩するだけの、想像力の欠如を持ち合わせているのである。
まさしく典型的な「本人に自覚のないミソジニー」を持ち合わせたディストピア小説の主人公に対して、作者が物語としてのカタルシスを用意している気配はない。逆説的に、搾取される女性は「物語としての悲劇」としてのみ理解されてしまうのだ、と解釈するのでなければ。
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別の登場人物の想像力について、フォーカスしてみよう。
彼は貪るようにパンをかじり、二度ほど口一杯に頬張って飲み込むと、衒学者の情熱とでも呼ぶものに突き動かされたように話を続けけた。細面の浅黒い顔には生気がみなぎり、目からは嘲笑の色が消えていて、ほとんど夢見るような眼差しに変わっている。
「麗しいことなんだよ、単語を破壊するというのは。言うまでもなく最大の無駄が見られるのは動詞と形容詞だが、名詞にも抹消すべきものが何百かはあるね。無駄なのは同義語ばかりじゃない。反義語だって無駄だ。つまるところ、ある単語の反対の意味を持つだけの単語にどんな存在意義があるというんだ。ひとつの単語にはそれ自体に反対概念が含まれているのさ。いい例が〈良い〉だ。〈良い〉がという単語がありさえすれば、〈悪い〉という単語の必要がどこにある? 〈非良い〉で十分間に合う。――いや、かえってその方がましだ。〈悪い〉がいささか曖昧なのに比べて、まさしく正反対の意味になるのだからね。あるいはまた〈良い〉の意味を強めたい場合を考えてみても、〈素晴らしい〉とか〈申し分のない〉といった語をはじめとして山ほどある曖昧で役立たずの単語など存在するだけ無駄だろう。そうした意味は〈超良い〉で表現できるし、もっと強調したいなら〈倍超良い〉を使えばいいわけだからね。もちろんわれわれはこうした新方式の用語を使っているが、ニュースピークの最新版では、これ以外の語はなくなるだろう。最後には良し悪しの全概念は六つの語――実のところ、一つの語――で表現されることになる。どうだい、美しいと思わないか、ウィンストン? むろん元々はB・Bのアイデアだがね」彼は後から思いついたように最後のことばを付け足した。
外見に囚われた差別意識について、曖昧さの消失は一つのファッショ的な解決になるだろう。すべてが「美」へと集約されるのだから、次のような嫌悪が浮かぶわけがない。
十一時近くのことだった。ウィンストンの働く記録局では、局員が仕切られた小部屋からそれぞれ椅子を引っ張り出しては、大きなテレスクリーンに向かい合うようにホール中央に並べていた。〈二分間憎悪〉の準備だった。ウィンストンが中央付近の列に席を取ろうとしたとき、見かけたことはあるが口をきいたことのない人物が二人、思いがけずホールに入ってきた。一人は彼がしばしば廊下ですれ違う若い娘だった。名前は知らなかったが、虚構局で働いていることは知っていた。想像するに――彼は何度か彼女が油だらけの手にスパナを握っているのを見かけていた――彼女は小説執筆機の運転操作に関わる仕事に従事しているのだろう。目鼻立ちのくっきりした娘で、年の頃は二十七歳くらい。豊かな髪は黒く、顔にそばかすが浮かび、運動選手さながらの機敏な身のこなし。〈反セックス青年同盟〉の象徴である細い深紅の飾り帯が作業着の上に幾重にも巻かれている。形のいいヒップを際立たせる締め具合だった。ウィンストンは、はじめて見かけたときから彼女が好きになれなかった。理由は分かっていた。彼女がいかにもという感じで身のまわりに湛えている雰囲気――ホッケー場や冷水欲や地域住民連帯ハイキングが大好きで、何事にも潔癖ですといわんばかりの雰囲気――のせいなのだ。彼はほとんどの女性が、とくに若くて美しい女性が嫌いだった。誰よりも頑迷に党を信奉し、党のスローガンを鵜呑みにして、スパイの真似事をやっては非正統派を嗅ぎつけるのは、いつだって女性、なかでも若い女性なのだ。しかしとくにこの娘はたいていの女性よりもずっと危険だ、と彼は強く感じた。以前、廊下ですれ違ったとき、彼女は横目でこちらの内奥まで貫き通すような一瞥をくれ、心がしばし、不吉な恐怖感で溢れた。〈思考警察〉の手先かもしれないという考えさえ脳裏をよぎった。そんなことはまずありそうもなかったが、それでも奇妙な不安感はついぞ消えることがなく、彼女が近くに来ると、不安に恐怖と敵意までもが入り混じるのだ。
この嫌悪)は、支配への嫌悪ではない。
スパイの真似事をする素人こそまさしく何よりも危険な存在なのだ。
そう、
どうして他の重要なことについて、かれらはあの叫び声を挙げられないのだ?
当事者であることが歴史を語るための第一条件であり、第二条件はない。
当事者でないのなら、歴史を語る資格はない。当事者とは、本人であるという意味ではなく、事実に対していかに誠実さを持ち合わせているか、ということだ。語られる事柄が、語る自身にとって何のメリットもなく、むしろ自身の当事者性を貶めるくらいの誠実さ持ち合わせているかどうか。印象の付与が目的ではないのだ。過去と未来の中間に何があるのか、少しでも考えることができる人間だけが、歴史について語るべきだ。
「流行だ」と認識した人々が語り合う、大仰な言葉。
個人の技術と感性は、歴史とは無関係であるはずで、個人の中で発展するべきだ。もし、個人が本当に個人でありたいのなら、妄想と印象は捨てるべきだ。当事者以外による批評は、叫び声ではなく、ただその人物の正統性を保つための、政治的な流言なのだ。
寡頭政治の本質は、父から息子への継承にあるのではなく、死者が生者に課すある種の世界観、ある種の生き方を持続させることにあるのだ。
たとえば、その男たちが額を突き合わせて歴史に対する印象を作り上げていく光景には、大企業の幹部たちが当事者不在の企画を練り上げていく会議室と似た寒々しさがあり、そこで語られる歴史とは、歴史について語るという政治的な振る舞いを何の恥じらいもなく行える人々が書き上げてきた、印象にまつわる文章の集積なのだ。
われわれは死者がわれわれに反抗するものとして蘇るのを許さない。
印象とコマーシャル。
ニュースピークではことばの快い響きへの考慮が、意味の正確さ以外の何にもまして優先した。必要であると思われれば、文法の規則性ですらいつでも犠牲にされた。そしてそれは正しいことだった。
彼らのイメージが、よりクリーンになりますように……
例えばニュースピークで「すべての人間は等しいAll mans are equal」ということは可能だった。しかしそれはオールドスピークで「すべての人間は赤毛であるAll men are redhaired」ということが可能だというのと同じ意味でのみ可能だった。文法上の誤りは含んでいないが、明白な虚偽を表現していたのである。
引用はすべて、ジョージ・オーウェル『1984年』(高橋和久訳、早川書房)より。