叙情をめぐる闘い(予告)
繪がらすの鳥や花らににじみ降る雪、さりげなき別れの時の
園丁は薔薇の沐浴(ゆあみ)のすむまでを蝶につきまとはれつつ待てり
塚本邦雄
歌集『水葬物語』の末尾におかれた二首は、最終章「環状路」の末尾の二首であり、同時に最終章の最後に配置された連作「優しき歌」の末尾の二首でもある。
歌集を読めば誰にでも分かるこの当たり前の事実は、しかし『水葬物語』を理解するうえでは、あえて踏んで行かなければいけない事実だろう。
ステンドグラスの艶やかな色彩の中にうずもれている鳥や花こそ、人間の目が見なければ浮かびあがることなく、理解のされない生き物たちである。「鳥や花ら」の「ら」に、その証拠がある。模様により埋めつくされたガラス窓の、いくつかの断片の中から、「鳥と花」が色彩として取捨選択されている。
「繪がらすの」という形容により、鳥と花は微動だにしない静止画になっている。ここにあるのは、鳥や花を表象する色彩のみであり、やがて私たちは、固定されたその色彩の中に、淡い白色がにじみ出してくるのに気づいてしまうのだ。
読点までにEの音が「繪」だけであり、Iの音を経て、「雪」へと変化する。音声としてこの短歌を読む場合、凍てつく寒さと作中主体の心情とをリンクさせて、雪が降る必然性・叙情性・劇的効果へと鑑賞を進めていくことも不可能ではないだろう。
だが、読点の後の、「さりげなき別れの時の」という限りなく散文化され、「の」によって断ち切られることにより限りなく韻文化している複数性の言葉に対し、私は音声という狭隘な物差しを使うつもりはない。
主人公は園丁だ。園丁は蝶につきまとわれながら待っている。何を? 薔薇が咲きほこる、神聖な森で。何を? 散文ではないのか?
おそらく、私たちはこの疑問を抱くとき、『水葬物語』の奥深い森へと歩み始めるのである。森の奥には、言語の瓦解したバベルの塔「パソ・ドブレ」があり、その周囲を囲む迷宮のように複雑に入り組んだ「環状路」がある。無機質な迷路を手探りで通り抜け、そして最後には、この2首へと再びたどり着くはずだ。最初は出口だと思っていた、本当の入口に。