でないもの研究2
古代ギリシアの哲学者パルメニデスの有名な命題に「あるものはある、ないものはない」というものがある。ここではこの命題を単純かつ大雑把に、「それは何か」という問いに対して「それではない何か」を用いて答えてはならない縛りとして理解しておこう。<何か>を<何か>ではない要素に分解したり、要素を共有する他の<何か>たちとの集合に所属させたりするならば、一つの<何か>を多数の<何か>たちへ分割してしまうことになり、一なる<何か>を一として真に捉えることにはならない。たとえば、<リンゴ>は<赤>や<果物>ではなく<リンゴ>であると言わなくてはならない……。
実のところ、この縛りを受け入れる立場も、後ろ髪を引かれながら要素や集合に一なる<何か>を分割していく立場も、命題というものを名辞と名辞の関係として理解することを共通の前提としている。名辞とは概念を言葉で言い表したもののことである。したがって、言葉を名辞として捉えるならば、言葉は必ず何らかの概念に対応していなければならない。たとえば「赤」という単語は言語外の<赤>という概念に対応していなければならない。
すると、次のような馬鹿げた、バグのような命題も想定できる(したがって、そのような馬鹿げた論理が誤りであることは、いかに初歩的であろうとも、哲学者たちにとってわざわざ指摘しなくてはならない課題であった)。「リンゴは赤ではない、<リンゴ>と<赤>は別の名辞である」。
もっとも、このような名辞論理学は伝統的論理学とも呼ばれており、端的に言うならば古い立場である。今日的な立場から、名辞論理学的な語と概念の対応へのカウンターとしてしばしば挙げられるものの一つに、20世紀の言語学者バンヴェニストのシフター論がある。シフターとは「私」や「これ」といった代名詞のことであり、それらの代名詞は時と場所、誰が何を指示するのかなどの文脈に依存して指示対象はさまざまとなる。すなわち、シフターは常に確定された同一の概念や実体に対応することはなく、「私」や「これ」という語それ自体には内容がない。
ここで、「私」や「これ」という語と<私>や<これ>という概念の非対応を逆手にとって、不在の<何か>を指示し続けながら決して何ものにも対応することのない空虚な記号性こそが<私性>や<これ性>であると論じる筋もあるのかもしれないが、ひとまずのところそれは避けておこう。その「逆手」は名辞論理の神秘的拡張ではなく、別の論理として取っておかなくてはばならない。
「これ」の<これ>への非対応という名辞論理の破れを前にして、その非対応性に<これ性>と名前をつけて、「これ」と<これ性>を対応させることで破れ目を手早く修繕してしまうよりも、もう少しあの馬鹿げた論理に着目していたいと思う。
「魂は不死である」という命題がある(カント『純粋理性批判』において無限判断の一例として提示される命題)。ここで、<魂>は<不死なる何か>であると捉える深遠な道と、<魂>と<死>は別の概念であって<魂>は<死ぬ/死なない>とは関係がないーーしたがって「魂は不死である」は肯定も否定もできない、ナンセンスな命題であるーーと捉える馬鹿げた道がある。
この古くて伝統的な馬鹿げた道においては、「魂は不死である」を「リンゴは赤ではない」「月は非スッポンである」「円は甘くない」と同列に並べてみることになる(また、「テクスト外なるものは存在しない」(デリダ)はどうだろうか)。
ところで、「馬鹿げた」とはヘーゲルが『精神現象学』で否定的に使用した表現である。
「〔…〕この命題〔=「精神とはひとつの(頭蓋)骨のようなものである」=「精神はひとつの物である」:引用者注〕の主語と述語とが各自別々に妥当し、自己は自己として、物は物として固定せられ、それでいて一が他であるべきはずであると考えられる場合には、概念は馬鹿げた表象に堕落するのである。」
ヘーゲル『精神現象学』上(金子武蔵訳, 岩波書店, 2002年, 349頁)