でないもの研究1
デリダ「もしそれがジャンルなきモード化をめぐる試みの果てに疲れ果て、次のようなジュネットのもう一つの提言の正しさを認めざるをえなくなるとすれば、たぶん文学にさえ属さない。」(1986)
( 「ジャンルの掟」『境域』(若森栄樹訳, 書肆心水, 379頁))
ジュネット「つまり、ジャンルとは固有の意味で文学的な範疇であるのに対し、様式〔mode〕とは言語学ーーあるいは、もっと正確には、今日のいわゆる語用論pragmatiqueーーに属する範疇なのだ」(1979)
(『アルシテクスト序論』(和泉涼一訳, 書肆風の薔薇, 116頁)
パオロ・ヴィルノ「生物学者、進化の過程を研究する者、人類学者、古生物学者たちの結論によれば、われわれ人類は<不定indefinito>の性質を持っています。あるいは、分化し専門家した本能に欠けています。〔…〕ある意味では、本能的側面の定かならぬ生物が、生存のために自己の不確定性を<否定>し、それなりに安全に活動できる<人工的な環境ニッチ>を構築するーー文化的、技術的、社会的にーーのは、明らかに<自然な>ことと言えます。しかしこのポストフォーディズムの時代、社会は、人間動物の不定の性質を利用し、確定的な「環境」のまったき不在を活用しています。それゆえ、もはや「人間的自然」〔=ヒューマンネイチャー=人間本性:引用者注)は社会において隠れようもなく現れていると、わたしは主張しているのです。」(2003)
『ポストフォーディズムの資本主義』(柱本元彦訳, 人文書院, 11−12頁)
塚本邦雄「短歌に未来はない。今日すらすでに喪っている。文語定型詩は、二十一世紀の現実に極微の効用すらもちあわせていない。一首の作品は今日の現実を変える力をもたぬのと同様に、明日の社会を革める力ももたない。私は今、その無力さを、逆手にもった武器として立上がろうなどと、ドン・キホーテまがいの勇気を鼓舞しようとは思わない。社会と没交渉に、言葉のユートピアを設営する夢想に耽ろうとももとより考えていない。短歌は、現実に有効である文明のすべてのメカニズムの、その有効性の終わるところから生れる。おそらくは声すらもたぬ歌であり、それゆえに消すことも、それからのがれることもできぬ、人間の煉獄の歌なのだ。世界の変革者であり、同時に囚獄無き死刑囚である人間に、影も音もなく密着し、彼を慰謝するもの、それ以上の機能、それ以上の有効性を考え得れようか。」
「反・反歌」(『塚本邦雄全集』第八巻, ゆまに書房, 1999年, 28頁)
我妻俊樹「「定型と日本語」だけでやらせてほしい」「短歌の場合は余った部分に「私」が宿る。短歌は上の句と下の句の二部構成で、二つあるということは往復するような感覚がありますから、行って戻ってくるところに自我が生じるのが短歌だと感じます。そういうこと抜きに、引き返さずに通り抜けるというのが私が川柳を作るときの感覚なんです。
短歌も引き返すし、俳句も引き返すけれど、川柳は引き返さないで通り抜けるという感覚があって、短歌についても本当は通り抜けられるんだけれど、何かそこに〈定型と日本語だけがある〉というのとは異なることになってしまっています。通り抜けずに戻ってきて「私」をやりましょうという暗黙の了解になっています。それはなしにしたい。もっと川柳のように短歌を作りたいというのが今の私の感覚なんです」
すこしだけ作歌する際の実感とはズレたことを思っている。<定型を身につけている人>がいるならば、その人は定型が何であるかがわかっている人ではなくて、定型が何でないかを感じ取れる人なのではないかと思っている。それではその人は「あれでもなく、これでもなく」と定型でないものを無際限に数え上げられるのかというとそうではなくて、1つや2つのもの(3つでも4つでもいいけれど)から<それではないもの>を感じ取ることで(その場限りであろうが、永久にだろうが)十分に定型を限定できてしまうのである。もちろん、論理的には定型でないものをすべて数え上げないかぎり十分な限定にはならないはずである。にもかかわらずいくつかのものの否定で十分であるということは、端的にいうならば、その否定が単なる論理的な操作ではないのだ。
たとえば「私はあなたではない」や「わたしは石ではない」という発言が、<私>が<あなた>や<石>ではない無数のモノたちの集合に所属している(「私は匂いとリンゴと宇宙と同じカテゴリーに所属している」)ということを意味することは稀だろう。また、それらの発言の意図が<私>と<あなた>や<石>との単なる客観的な区別であることもありうるが、それだけではないことの方が多いのではないだろうか。むしろ、<私>が何でないかについての発言が、<私>が<私>であることを、「私は私である」と言うこと以上に十分に限定することがある。場合によっては、人間である<私>が嘘偽りなく「私は人間ではない」と言うことで<私>を十分に説明することだってあるはずだ。このように、「AはBではない」という言葉を、<A>と<B>の二者の区別でも、<B>ではないすべてのモノ達の集合への<A>の所属でもない意味で理解することは、それほど不自然ではない。
また、反対に、「私は私である」が「私は非–私ではない」を経由して「私は私以外の何者でもない」という意味を持つこともそれほど不自然ではない。
「私は非私ではない」については、否定判断(「SはPではない」)と無限判断(「Sは非Pである」)のカント的区別やヘーゲルの論理学から後にもう一度とりあげることもあるかもしれない。
ふたつの「でないこと」としてカウントできる否定判断(異なること)と無限判断(ないこと)ではなく、単なる肯定判断「私は私である」はもちろん可能である。しかしどうやらそれは万能ではない。川柳スパイラル東京句会(2018年5月5日)において、我妻俊樹、瀬戸夏子、小池正博は3人ともに、他ジャンルの人に自分の所属するジャンルを説明することの困難について語っていたと思う。おそらく、説明の困難さには説明能力のなさや理論的不備とは別の理由がある。
ジャンルを語ることというのはジャンルの本質について語ることと他ジャンルとの境界やジャンルの周縁について語ることを同時に要請されているようなものではないだろうか。空間的比喩を使うなら、境界線を引くようにしながら中心点を指し示さなくてはならないということだ。ジェラール・ジュネットは『アルシテクスト序論』において、西洋のジャンル論が単なる分類から本質規定へと変形し、破綻していく経緯を描き出している。
付け加えるならば、肯定判断ともさらに別の道として、判断のための述語を抜きにした「私」や「私、私、私」がありうるが、「主語=<私>は主語=<私>である/でしかない」という意味内容に述語が含まれざるを得ないことに変わりはない。
もっとも、ここで注意するべきは、主語が主語ではないもの(=述語)によって規定されなくてはならないという言語的事実から、すぐさま、或るモノの存在がそのもの自体で存在することはないといったような存在論的命題へ飛躍することはできないということだ。ひとまずのところ、私たちの相手は言語であり、しかじかの単語や文が意味する言語外のモノやコトの存在ではない。そのため、そのギャップを無視することもかろうじて可能にも思われる。
しかし、もしも<言語というモノ>や<言語というコト>を相手にして、「言語は存在する」とか「定型は実在する」(「定型は日本語の感性に自然と馴染む形式である」など)と言おうとすると、言語と存在の位相間のギャップはやはりなんらかの仕方でクリアされなくてはならないはずである。言語/存在のギャップを言語内のギャップへと移行させるだけでは、そのギャップが埋まることも無化することもない。
言語内を分割するそのギャップがある種の快/不快を伴いながら露わになることがある。たとえば、短歌において、上の句と下の句が2つのパーツとして形式的に(=実在的に)機能しながら、言葉の意味的・イメージ的な連鎖がその分割をあってないもののようにスルーし、独特の分節=リズムを生み出す場合。
きみが下着でこれるところに最高の物あつめればふたたびの夏至
コーヒーが暗さをバナナがあかるさを代表するいつかの食卓で
我妻俊樹(「喫煙する顔たち」ネットプリント<ウマとヒマワリ4>)
必ずしも三区切れや句またがりだけがその要因ではないように思う。「最高の/物」の句跨りと「最高のもの・あつめれば」の意味的な切れのなさ。「コーヒーが暗さを」と「バナナがあかるさを」のシンメトリーの形を保つために「あかるさを」で一度句切れしたくなるような感覚と、句切れさせずに強引に結句まで言葉を運んで行こうとする連体形風の終止形「代表する」。
比較のため、我妻の同連作から、そういったギャップをあまり感じない歌も引用しておく。
見てくれにこだわるひとの有り金が花びらに変えられて匂うの
その家が砂利道と猫をしたがえて放送終了後の音楽集