自分以外に迷惑をかけなければ何をしても良いか?自由主義的な愚行権の根拠と、それに対する共同体主義的反論
小中学校における道徳教育
日本の小中学校の道徳では大抵「自由とはなんぞや」という話をする。
先生が「自由にしていいよって言われたら何をしても良いの?」と問いかけ、生徒が「自由でも人に迷惑をかけることはしちゃいけないと思います!」と答える。
これはJohn Stuart Millが提唱した古典派自由主義における、「他者危害の原則」の要素の1つであると言える。(危害と迷惑は本来明確に区別すべきだが)
自由主義
要約すると
能力の成熟している人なら
自分の生命や身体、財産に対して
他者へ危害を及ぼさない限り
たとえ自己に対し不利益な決定でも
その自己決定に関する権利をもつ。
「他者へ危害を及ぼさない限り」が他者危害の原則である。
では、他者危害の原則に則り、自分以外に迷惑をかけなければ何をしても良いのだろうか?
愚行権
自由主義では愚行権が認められている。
徹夜をする、自殺する、ハロウィンで仮装して渋谷を歩く、学校の課題を明確に認識しているが面倒なのでしないetc..
John Stuart Millは自由論で
「人類の構成員の一人の単に自己保身だけの物質的または精神的な幸福は、干渉の充分にして正当な根拠ではない。」
と述べている。
つまり、例え非合理的で、その人にとって不利益な決定をしようとしていても、説得する権利はあるが、実際に干渉して別の決定を強制する権利は無いし、馬鹿な決定をしてもその決定に対し害をなす形で報復する権利もない。
自由主義では、合理的な自己決定の他に、非合理的で不利益な自己決定に対しても当人は権利を有する、つまり愚行権があるとする。しかし他者危害の原則に則っていればの話だが。
なぜ愚行権が認められているのか(自由主義的理由)
Millが述べている理由はいくつかあるが、その1つとして主知主義的なものがある。
主知主義的には、対象を最もよく理解しているものが、最善な選択をする。
船を最も理解しているのは船大工であり、自己を最もよく理解しているのは自己である。
だから自己決定が、最も最善なものとする。
また、誰かの自己決定に関して、考えを改めさせようとするような社会の干渉は、社会での経験則における一般的な推定にしかすぎず、その推定が間違っているかもしれないことは考慮されていない。
また、客観は客観であり主観にはなり得ない。
個人の事情に関して主観面から深く理解しておらず、当人を客観的視点で傍観しただけの知識しかもっていない人々によって、自己決定に対し誤った是正がされるかもしれないし、されないかもしれない。
Millはまた、個性と自発性の尊重にも述べている。
他者に危害が加わるかもしれない個人と個人の相互関係においては、それぞれが何を予期しないといけないか知るために、法律などと言った一般的規則を守らねばならないが、相互関係が存在しない自己決定においては、当然当人の個人的自発性を尊重し、自由に活動する資格があるはずだ。
どのような反論があるか
そもそも、「他者危害の原則」が前提として曖昧なのではないか
自由主義はアトミズム的な側面が強いが、そもそも”自分”と”他者”の関係は切っては切れない。
自分がダイアモンドを採掘したら、他の誰かが採掘できたであろうダイアモンドの量が減る。そして誰かが保有したはずであろう財産が消滅する。
タバコを吸ったら、空気が汚染され、同時に他者の吸う空気も汚染されることになる。
私たちが住んでいるこの地球の空間、つまり環境という制約条件においては、自分と一切無関係な他人というものは存在しえないのである。”自分”がある共同体(学校、家族、会社etc..)に所属していれば、その制約条件はさらに増える。
つまり、実質的に他者危害の原則にアトミズムは適用できない。これは自由主義と矛盾している。
また、愚行権の根拠で述べられた「自己を最もよく理解しているのは自己」については、そもそもそのような”自己”は幻影にしか過ぎない。
自分のDNAに刻まれた情報は自分は知りえないが、ゲノム解析者は知りうるだろう。
自分が泥酔し一切記憶がない昨夜の出来事は、自分には知りえないが、その場にいたシラフの友人は知りうるだろう。
人間は生まれながらにして必ず何らかの共同体に所属する。家族や社会関係などといったもの。
客観は主観を知りえないと同時に、主観も客観は知りえない。つまり、自己を最もよく理解している存在などそもそもあり得ない。