政治家が贅沢するとなぜ批判されるのか
日本における政治家は、民主主義に基づいて、選挙によって国民から立法業務を委託された言わば代理人にすぎないと考えている。
しかし、表面的には「国民の代表」として見なされてしまう。
芸能人など他のセレブ達の贅沢は「羨ましい」と持て囃されるのに、なぜ政治家となった途端「国民が苦しんでいるのにその贅沢ぶりはなんだ!」と批判されるのか。
カトリックの世界では七つの大罪の「傲慢の罪」で挙げられるように、贅沢は罪であると考えられた。
カルヴァニズムの影響が強い考え方のもとでは、禁欲的労働というエートスを生み出している。
東洋においても、儒教では贅沢は良くないものとして扱っている。
では現代日本においてもこのような思想が浸透しているかと聞かれると、あまりしていないように思う。
にも関わらず、なぜ政治家にとって贅沢が罪であるかのように批判されるのか。
ここが共産主義国家で、生産手段や様々な資本が共有・管理されているのに、政治家だけ資本の私有化が認められてる...などの条件であれば理解できるが。
選挙における1票が国政にどれだけの影響を与えているのか可視化されないので、自分の国政への参加意識があまりなく、政治家に対しての印象が「なんか勝手に色々やってる人」になってしまってるのではないか。
例えば「予算が圧迫され、このままでは自治システムが成り立たない...。仕方ないので増税しよう」という意思決定フローは、国政への参加意識が薄いと当然だが「なに勝手に増税してんだよ!」となる。
しかも、マスメディアが政治的意思決定を報じる際に、意思決定フローを報じるのではなく、意思決定そのものをメインと捉え報じるので、この意識が加速する。
国政への参加意識が低いと、政治家に対する意識もあまりなく、政治家が贅沢していると「愚策しかやらん無能どもが俺らより高い飯食ってるぞ!」となってしまうのではないか。
「お前らが無知だから政治家の贅沢を批判しちゃうんだぞ」というのを言いたいわけではなく、大規模な民主主義国家だと、自分の1票というマクロ視点でみたら大きいがミクロ視点で見たら小さいその行使に対して、影響が可視化されず、政治家の業務に対する意識も大きくならないよね、だから「贅沢」というキャッチーな言葉に惹かれるんじゃない?と思った。
これ書いてて思ったんだけど、様々な政治的意思決定に対して、意思決定フローをメインと捉えたメディアを作ったら面白そうじゃね?って思った。