03
蕎麦屋の午後
川崎の駅から商店街のアーケードを抜けた先に、年季の入った木の看板がひっそりと掲げられている。
「富岡庵(とみおかあん)」
昭和初期からこの地で営業してきた老舗の蕎麦屋だ。木造の引き戸を開けると、微かに削り節と出汁の香りが鼻をくすぐる。落ち着いた照明と年季の入った柱時計の音。そこそこ広い店内にテーブル席が並んでいる。まるで時が止まったような空間だった。
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「いらっしゃい。川崎さんのお嬢さんと、そのお仲間だね」
出迎えたのは店主の富岡忠義。柔和な笑みを浮かべた老店主は、白い割烹着をまとい、少し腰を曲げながらも姿勢には凛とした気品があった。
「はい、父からお話を伺いました。こちら、うちの会社の仲間で、今永新(いまながしん)と大谷亮(おおたにりょう)です」と文(あや)が丁寧に紹介すると、富岡は頭を下げた。
「いやいや、こちらこそ頼もしい若者に助けてもらえるなんて、嬉しい限りですよ。どうぞ、まずは召し上がってみてください。味を知ってもらわないことには始まりませんからね」
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運ばれてきた天ざるそばは、見た目からして上品だった。細く切られた蕎麦には艶があり、しっかりとしたコシと香りがある。天ぷらは揚げたてで、衣は軽く中の具材は甘みを保っていた。
「うまい……」と亮が思わず呟いた。
「正直、予想以上です」と新も感嘆する。
「ただ、価格帯が少し高めですね。天ざるで1300円は、若者が頻繁に来るにはハードルが高いかも」と文が冷静に口を開いた。
「はい……」と富岡は頷いた。
「でもね、材料費も光熱費も上がっていて、これでもギリギリなんですよ」
三人は、食後に富岡から店の売上推移や時間帯別の来店状況、家族のことについて詳しく話を聞いた。
「息子たちも店を手伝ってくれてはいるんです。でも、このまま続けさせていいのかと悩んでましてね……。将来性がなければ、他の道を考えさせた方が良いんじゃないかって」
富岡の表情ににじむ迷いと寂しさ。それでも家族の未来を思うがゆえの選択肢なのだと、三人は感じ取った。
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その夜、ASRのメンバーは大学近くのファミレスに集まった。新がノートPCを広げ、亮はタブレット、文はメモ帳を広げた。
「まず、ざっくりしたデータを整理しよう」と新が言った。「平日のピークは12時から13時。夜は18時半から20時。でもその前後はほとんど客がいない」
「しかも店員さんによると、ピーク時には満席で断ってるお客さんもいるらしい」と亮。
「つまり、需要の山に偏りがあるってことね。ピーク時には供給が足りず、ピーク外では余ってる。この需給のズレをどうやってならすかが課題」
「値下げは一案だけど、全体の単価が下がると売上が下がる可能性もある。そこで……」と新がアプリ上で図を描き始める。「時間帯による価格差別を試してみよう」
「ミクロ経済の授業で習ったやつだ」と文が笑う。
「12時前に食べ終わったお客さんと13時以降に来たお客さんには、次回来店時に使える100円引きのチケットを渡す。そして夜は18時までに注文されたお酒に限って20%引きにする」
「来られる時間に融通が利く人はオフピークに来てくれるだろうし、ピークしか無理な人は普通に払ってくれるってわけね」と文がまとめた。
「そう。これは価格差別のうち第三種に該当するやり方だ。顧客を属性によって分けて異なる扱いをしているからね」
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数日後、提案をまとめた文たちは再び富岡庵を訪れた。木の引き戸を開けると、厨房から顔を出した富岡が目を細めて迎えた。
「さて、どうでしたか?」
文が資料を取り出しながら説明を始めた。
「お話を伺って、そしておそばをいただいて、率直に申し上げてこの店は“味”という点では何も問題がありません。むしろ他の店よりずっと上だと思います。ただ、お客さんが集中する時間帯と空いている時間帯に差が大きく、それが売上機会を損なっている要因だと考えました」
新が続けた。
「そこで、13時以降の来店者に次回使える割引チケットを配布すること、そして18時までに注文されたお酒は20%割引とすることを提案します。これにより、時間に余裕があるお客さんをピーク外に誘導できます。結果として、ピーク時に席を確保したい人にもメリットが出ます」
亮がチラシの試作品を差し出す。
「これが、店頭やレジ横に置く簡単な案内です。余計な説明をせずとも、客側で選べるようにしました」
富岡はしばし黙ったまま、三人の顔を見つめた。
「……なるほど。たしかに、理にかなっている。できれば値引きはしたくなかったけれど、それが混雑を緩和して結果的に全体の満足度を上げるなら、やってみる価値はあるねえ」
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キャンペーンが始まったのは、その翌週。
割引チケットはあえて可愛いイラスト入りにして、「次回のお楽しみ」といった雰囲気を演出。これまでなら客が少なかった昼過ぎの13時台でも学生グループや近隣の会社員がそこそこ来店するようになり、また夜の早い時間帯にも、軽く飲んで帰る中高年層が見られるようになった。
2週間後、富岡庵を再訪したASRの三人を、厨房から顔を出した息子・康太が笑顔で迎えた。
「いやあ、驚きましたよ。割引っていうと客単価が下がるだけって思ってたんですけど、あの時間帯にちゃんと客が入るようになって、トータルでは売上も利益も上がってるんです」
「それに、お客さんからも“空いてて入りやすかった”とか“静かにそばが楽しめて良かった”って声が届いてます」と富岡が嬉しそうに話した。
そして、こんな言葉も添えられた。
「息子も、この店をもっと良くしたいって言い出してくれてね。……代替わり、前向きに考えてみようと思います」
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その帰り道、三人はアーケードを歩きながら、どこか晴れやかな気分だった。
「今回は教科書どおりの価格差別の応用だったけど、やっぱり経済学って実際に使えるんだね」と文。
「分析じゃなくて、ちゃんと“設計”したからこそだよ」と新が言う。
「俺はチラシをもうちょっと改良したいな。“昼下がりのそば時間”とか、キャッチコピー入れてもいいかも」と亮が笑う。
若者たちの挑戦は、少しずつ、しかし確かに街を変え始めていた。