専門性を身に着けつつも専門家としての鎧は脱ぎ捨てる
対人支援を行う者であっても同様である。
専門家として何を言うか、何に焦点を当てようとするかは、本当に自分自身がしっかりと検討し、納得したことだと言い切れるだろうか。
対人支援の専門職としてこのようなことをすべきだ、このようなことを尋ねるべきだ、このようなことを伝えるべきだというような、一般的な常識の再生産になっている可能性はないだろうか。
そうした判で押したような言動は、その専門職独特の雰囲気を相手に伝えていくことになる。
以前、元受刑者にインタビューをする機会があった。
その元受刑者は、刑務所のなかで、支援者たちに「支援臭」を感じていたという。
支援される側がそのようなことを感じてしまう状況において、その人自身の素直な語りを聴くことは難しい。
つまり専門家も、自分自身の言葉で語っていないところが多々あるのだ。
「その人自身」が不在であるといえよう。
人と人が出会い、お互いに会話をする場面において、一方が専門家という仮面をつけ、もう一方がクライアントという仮面をつけて話すとは、どのようなことなのだろうか。
私は『オープンダイアローグ』の愛読者であるが、日本語版の帯に印刷された言葉が気になっている。
そこには「あなたは『専門性』という鎧を脱ぎすてられますか?」とある。
私としては、「専門性」を「専門家」に置き換えたくてうずうずしてしまうのだ。
カウンセリングの高度な専門性を捨てることが良質な支援につながるとは思えない。
一方で、「専門家」という鎧をまとい、「その人自身」が感じられない状況をよしとできないことには、まったくもって同意するのだ。
専門性を身に着けつつも専門家としての鎧は脱ぎ捨てる
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#2025/02/09
『もう一度カウンセリング入門 ◇心理臨床の「あたりまえ」を再考する|国重浩一』
国重浩一