なぜなぜ分析じゃなくて、どゆこと分析をする。
なぜなぜ分析じゃなくて、どゆこと分析をする。yakasak.icon
やりたいのは具体化と言語化なのだけど、その問いかけとして「どゆこと」がピンとくるかな。yakasak.icon
『イシューからはじめよ 知的生産の「シンプルな本質」|安宅和人』のP.94「アプローチ④「So what?」を繰り返す」からの着想
https://gyazo.com/ff378fe6658ee9080c8e090e682a553e
https://gyazo.com/bf88c23b2787b8d7eddad69726de4432
なぜなぜ分析という言葉が独り歩きしてしまって、〈問う〉という行為が〈「なぜ?」と問う〉と暗黙のうちに等価になってしまっているが、内省やフィードバックにおいて「なぜ?」という問いは、あまり効果的なものではないなというのが最近強く思うところ。
「なぜ?」とい問いが意味を持つのは、たとえば小さい子供のように、自分の中がまっさらな状態で、「なぜ?」に対する応答をそのまま受け入れられる素地がある場合に限られるのではと思う。
対人関係において「なぜ?」という問いに警鐘を鳴らすときの常套句が、詰問に聞こえるというものだ。
自分もその感覚は強くて、「なぜ?」と聞かれるのは責められているようで苦手だ。
「なぜ、『なぜ?』と聞かれると詰問されていると感じてしまうのか?」ということをずっと考えてきた。
最近思うのは、「なぜ?」という問いは、全方位ゆえに、強すぎるからではないかということ。
まず前提として、問いと答えの関係において、強いのは問いの方だ。
〔問いという(暴)力|赤坂優太|note〕
《「問い」は、場を規定する》《問う側は、すなわち、「答えを査定できる立場」》なのだ。
問う側は《答えを査定できる》のだが、「なぜ?」という問いには、どういった観点から査定するのか、という事前情報がない。
《「なぜ?」という問いには、どういった観点から答えを査定するのか、という事前情報がない》ということは、『イシューからはじめよ 知的生産の「シンプルな本質」|安宅和人』(P.53)でも《「WHY」より「WHERE」「WHAT」「HOW」》という箇所で説明されている。
「WHY=〜はなぜか?」という表現には仮説がなく、何について白黒をはっきりさせようとしているのかが明確になっていない。
「答えを出す」という視点で課題を整理すると、「WHERE」「WHAT」「HOW」のかたちになることが多いことは理解してもらえるだろう。
「なぜ?」という問いが持つこういった無防備性というか全方位性というのは、対人関係において、問う側の後出しジャンケンとして発現する。
後出しジャンケンは簡単にできる。「なぜ?」に対する答えに、「え、でもさー」と切り返せばいいのだ。最初に「なぜ?」と問われた側は、「その「でもさー」という前提を先に言ってよ」と無力感に苛まれる。
それだけ苦労してちゃんと答えても、相手が求めているのは、私の正直な答えじゃない、「相手が気に入る答え」だったりする。
〔Lesson1007「私の質問にちゃんと答えて」 とつめよるまえに - おとなの小論文教室。 - ほぼ日刊イトイ新聞〕
小さな子どもが屈託なく「なんで?」と聞く時、それは「なぜ?」という問いであるにも関わらず、そこには後出しジャンケンの香りがない。
どこからその無香性を感じ取るかというと、こちらが何を答えたとしても、「へー」とか「ふーん」と言って、すべてを受け入れるというか飲み込んでしまう態度からだ。
小さな子どもは《自分の中がまっさらな状態》なので、《「なぜ?」に対する応答をそのまま受け入れられる素地がある》のだと思う。
つまり、彼らの発する「なぜ?」は、純粋な〈世界や相手への好奇心〉なのだ。
一方で、大人の「なぜ?」は、〈世界や相手への好奇心〉ではなく、〈答えの査定〉である場合が多い。
〈世界や相手への好奇心〉という無味無臭ではない、〈答えの査定〉という暴力性に対して、問われた側は身をこわばらせるのだと思う。
/icons/hr.icon
#2020/06/05
#フィードバック
/icons/hr.icon
/icons/hr.icon
コメントは、@yakasakか、フォームにどうぞ。