【引用】この行為を昔から「推敲」と呼ぶ。
自己(書き手)と他者(読み手)を自由に行き来することで、〈自己認識や他者意識〉が深まる。
〈自己認識や他者意識〉が深まっているから、自己(書き手)と他者(読み手)を自由に行き来できる、すなわちわかりやすい文章が書ける、とも言える。
この行為を昔から「推敲」と呼ぶ。
そういえば推敲って手続きとして学校で習った記憶がない。
「僧は推す月下の門」の結びとして、「そこから推敲という言葉が生まれました」と習うけど、そのときに「推敲って?」と、オチがオチとして機能していないという記憶はある。
それくらいなじみのないもの。
あえて校正記号を教えるというのも教授法としてはあると思う。
あれを知ると、「文章をそのような目で見る」ことにつながると思う。
方法が視野をつくる
ピッチの横幅目いっぱいまでボールを蹴れない人は、ピッチの反対側を見ることはない。
このあり方の変容を意図的に起こそうとするならば、経験上最も確かな方法の一つは、組織学習の理論とツールを習得し、その実践を組織として繰り返すことなのだ。
『学習する組織――システム思考で未来を創造する』 P.8
/icons/hr.icon
#2021/07/03
赤坂優太
『「文章が書けない人」が近くにいる人へ|赤坂優太|note』
https://gyazo.com/1d3e34bf63eaeeea4e13e3de2b5da93f