『ラディカル・オーラル・ヒストリー―オーストラリア先住民アボリジニの歴史実践』
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出版社: 御茶の水書房 (2004/09) ISBN:4275003349 この本は、「歴史学研究再考」の本、といえるかもしれません。著者は、博士論文執筆のために先住民族アボリジニの村に滞在します。そしてそこで出会った、村の長老ジミー・マンガヤリ氏に受けた教え――歴史実践――に大きな刺激を受け、歴史とは何か、歴史家とは誰を指すのか、〈歴史への真摯さ〉とは何かを、深く考えるようになります。著者は、書き綴られることのないそして一見「神話」と思えるようなかれらの歴史物語りに接して、それを史実の確証のない「危険な歴史」として排除する現代歴史学の「権力性」を振り返ります。また、異文化の歴史を聴く事の難しさと、その上での「ギャップ越しのコミュニケーション」の大切さ・重要性に思い至るようになります。 こういった考察をへて制作された博士論文(英文)をもとに、日本語圏の読者に向けて、また日本の歴史学の現場にいるひとびとに向けて、再構成されたものが本書です。歴史学・人類学・ポストコロニアル理論に裏打ちされた明快な論旨、読者へのサービス精神にあふれた軽快な文章と工夫された構成は、もしかしたら日本の読者には「遠い他者」かもしれない、しかしともに現代を生きる豪州先住民族のひとびとの持つ歴史を知るにあたり、決してあきさせずに、読み進めさせてくれるでしょう。 題名の通り、これはまた、「オーラル・ヒストリー」という研究手法に関しての、挑戦的、かつ根源的な問いかけの書でもあります。参与観察・「インタビュー」ではなく、ともに歴史実践をしていく――「歴史する(Doing History)」――、「フィールドワーク形式」のオーラル・ヒストリーの提言です。 現代を生きる先住民族の歴史を聴くということは、そのまま植民地化の歴史といまにいたるその影響を学ぶということでもあります。豪州の「ポスト植民地主義」の歴史を、そしていまを、この本から知ることができます。「かれら」がイギリス人の植民地化をどう見ていたか、そのような「不道徳なこと」を行なう白人を、どう解釈してきたか、「かれらの植民地主義経験」が紹介されるのです。 そして、日本という地から研究者として村を訪れる著者は、自分が研究者とインフォーマントという権力構造のなかにいることに気づいています。英語や滞在先の村のクレオール語で聞き取った情報をもとに執筆された文章を、さらに著者が日本語に翻訳して構成するというときに発生する(かもしれない)「翻訳という問題」と、「かれらの歴史」を研究者である著者が書き綴ることの「解釈」「代理表象」の問題についても、注意深くあることを自分に、そして読者にも促します。 声の複数性、真理の不安定性などについて議論することをやめ、むしろそれを実際に実践に、本当に知を内破することをに挑戦したのが本書である(あとがき)。 本書を読み、多元的な声、多元的な歴史に出会うなかで、異文化の歴史を理解すること、それに真摯に聴き入ることの重要性を、著者とともに考え・実践していってほしいと願います。