『ケアと編集|白石正明』
https://gyazo.com/cf414d5953021e40a4e3c4961e39c8ae
第二章 #2026/01/26
引き続き、noteに書くためにあれこれ読み返す
https://open.spotify.com/episode/554Tmx5Km1BHc9iFLkB7ws?si=0Aj_J9jyTByTQzG1pwVpFQ&t=2806&pi=BG9FgZk5TcG2b #2026/02/16
舞台を規定されて踊る人か、振り付けをしたい人か
分母と分子の話に通じる
P.102 #2026/04/13
・話す内容ではなく、話している行為そのものに価値がある
・話しているうちに、解決してないのに無化してしまった
「声」性
P.103 #2026/04/13
浪費は自己目的的なので、結果的に「長い話」になるのでは
Ⅰ いかにして編集の先生に出会ったか
1 ケアとは
刹那的なケア
リハビリの昼と夜
失禁と世界の回復
太陽と空気と地面とケア
2 べてるの家との出会い
意外に遠い福祉と医療
病院のにおい
もうけている作業所
網走での出会い
自分自身で、共に
「反」ではなく「非」
こんなエピソードを満載して『べてるの家の「非」援助論』が出来上がった。当初この本のタイトルは『べてるの家の「反」援助論』だった。「援助ってホントにいいものか?」という問いがあったからなのだが、つくっているうちに反援助論はちょっと違うんじゃないかなと思いはじめてきた。
「反」というのはなんか貧しい。たとえば「精神医学」に対抗して「反精神医学」という言葉があるが、精神医学の肩に乗って後ろ向きに何かを言っている気がする。さらに言えば、威勢のいい「反」は実際のところ、反対する当のものを「反対するに値する」ものとして逆に高く評価してしまうと思う。結局、同じ尺度の上で両極に振れているだけで、精神医学を成り立たせている尺度自体は無傷なのだ。
「非」というのは、その尺度から外れてしまって、まったく別のところを見ている感じがした。言ってみれば「精神医学か反精神医学か」なんて問いそのものを、ちっぽけな一部分にしてしまうような広い視野を与えてくれるのだ。
戦わないでさっさと逃げる
3 編集の先生
試されている感じがしない
肯定と否定の外側で
「そこがいいね!」がなぜ通用するか
〈図〉は変えないで〈地〉を変える
「商業」という魔法
医学的編集とソーシャルワーク的編集
Ⅱ ズレて離れて外へ
1 問いの外に出ざるを得ない人たち
問いの外に思考が流れてしまう人たち
日々生きていると「あれかこれか」と問われてしまう。
その問題設定に素直に入れる人にとっては生きやすい時代なのだろう。
ノイズが減って世界はクリアだ。
一方で、「AですかBですか」と二者択一で迫られたり、他人に問題を設定されて「これってな〜んだ」と問われるとさっぱり頭が働かず、フリーズしてしまうタイプの人たちがいる(というか、わたしがそうなのです)。
たとえば「精神医学という軸の中で、べてるの家の位置づけを明らかにせよ」と問われると、なんでそこで精神医学が出てくるのかうまく理解できない。
分母(精神医学)と分子(べてるの家)があったら、問いはいつも「なぜその分母なのか」のほうに向いてしまう。
頭がいつも問題の外に出てしまう。
そういう人たちはだいたい勉強ができない。
でも、分母に問いが向くにもかかわらず、わたしと違って頭が働くタイプの人たちがいる。
第一に、もともと頭が働くにもかかわらず、少数派として生きざるを得ない事情にある人。
そうした人たちは、多数派の問題設定が恣意的に過ぎないことを見抜くことができる。
『リハビリの夜』の熊谷晋一郎さんがその代表かもしれない。
熊谷さんは脳性まひで身体は自由に動かないが、先の太陽と空気と地面の話によくあらわれているように、「少数派ゆえに体験せざるを得ず、またそれゆえに多くの人が認知できない事態」を見事に言語化してくれる。
第二に、恣意的に選択された分母を前提にして物を考えること自体に意味を見いだせず、もっとよい問題を出せる人たちがいる。
つまりフランスの哲学者、ジル・ドゥルーズによる哲学の定義「新しい概念をつくる」そのままの人たちだ。
知っている範囲でいえば『『中動態の世界 意志と責任の考古学|國分功一郎』』の著者、國分功一郎さんがそうだ。
そして第三に、与えられた問題設定では生きられないから自分で勝手に問題をつくって勝手に生きるという、べてるの家のような人たちがいる。
独特の問題設定の中で生きているから、その解も解法もいつも独特だ。
与えられた問題に答えることに汲々としている人たちに、彼らの独特の対処の仕方を紹介したいというのが、わたしがこの本を書いた動機の一つであることは間違いない。
風変わりな言葉たち
主語が患者と入れ替わる
看護師の語りは「主語がはっきりしない」とか「話があっちに行ったりこっちに行ったりする」とか「事実なのか推測なのかわからない」などと、よく医者から批判されたりする。
しかし村上さんはそれに強く反発する。
ケアの現場では、なかば憑依したような状態で「相手の中」に入らないと患者の感覚をつかめない。
つまり、ケアはしばしば「主体と客体を分けたうえで何かを成す」というような近代的な設定の外で行われるのだ。
だから主語がはっきりしないのは当然であり、したがって能動/受動が不明確なのも、時制があちこちに飛ぶのも、事実と推測が明確に区分されないのも、ケアにおける現実を正確に反映した語りなのである。
ある意味では、主語も時制も一貫した語りというのは、たとえば手術室のように外部からのノイズが遮断され、主体と客体が明確に分離したままでいられる特殊な環境でこそ成立するものなのだ。
土管の中で話を聞く
二つのことを同時に伝える
病院というところは、不幸が折り重なる場所だ。
治癒・回復という明るい物語もあるだろうが、元をただせば発病や怪我というそもそもの不幸からはじまった物語でもある。
病気の原因はわかっても、「なぜわたしが病気になったのか」はいくら考えてもわからない。
どういう経緯で病気になったのかのメカニズムはわかっても「なぜわたしが不幸なのか」に答えはない。
「その問いの圏域にいる限り答えは見つけられない」といったことは人生には少なくないだろう。
病院にはことのほかそうしたことが多い。
看護師の独特の話法の背景には、こんな特殊事情があるように思えてならない。
答えのない問いの外に出るには、当の問題自体を変えなければならないのだ。
因果沼から“かどわかし”へ
問いの圏外に出るために
看護師さんとべてるの家に共通するのは、「与えられた問いの圏域の外に出る」コミュニケーションのスタイルだとわたしは思う。
どちらもまともに答えたのでは、つまりその問いの圏域にいると、沼にハマって出られないことを経験的に知っている。
要するに彼らは、頭の中で考えた問題を出すのが好きな人たちが想定しているような、簡単な世界に棲んでいないのだ。
2 分母を変えるのが編集
ロボットのくせに人の力を借りている。
人の力を借りるロボットなんて不完全な代物だ……と思う人のほうが多いだろう。
しかし視点をちょっと変えると、道行くアカの他人にゴミを拾わせてしまうのだから、彼には「他者を巻き込む力」があるとも言える。
おまけに道行く人に思わぬ善行のチャンスさえ提供してあげている。
他者を巻き込むその力の源泉はどこにあるのか。
それは、ひとりではゴミを拾えない、つまり彼自身の中で行為が完結しないという「弱さ」にある。
周囲を巻き込むのに必要なのは「強さ」だと思われがちだけど、逆説的に「弱さ」だと
《彼自身の中で行為が完結しない》というのは、他者に開かれているということでもある
個人に焦点を絞るとそれは《不完全》であり不備なのだけど、関係性全体まで引きで眺めると、それは「つながり」になる
『働くということ 「能力主義」を超えて|勅使川原真衣』
強いロボットは歩けない
依存症は依存が足りない
「治す」「克服する」ではない物語へ
【引用】弱さや依存は「克服すべきもの」という問題設定のままであれば、弱さは強さに、依存は自立に変更されなければならない。
3 吃音者は分母を変えて生きていく
『どもる体』のはじまり
吃音者の方法(1)〜(4)諦める・準備しない・波に乗る・周囲を変える
分母を変える一発逆転芸
4 面と向かわない力
架空の劇なのに言えない
後ろから、波のような温かい圧が……
「信」をめぐって――東大での体験
内面の「信」から、対人の「信」へ
「側聞」という方法
「正対」から逃れて
Ⅲ ケアは現在に奉仕する
1 ケアと社交
ヘルパーへのアドバイスがなぜ役に立つ?
社交するために社交する
対話するために対話する
過程に内在するための工夫
二〇年以上前の潔さんの言葉
2 消費と浪費と水中毒
過食嘔吐の記憶
「浪費」としての飲水へ
十全な、今ここでの満足
3 今ここわたし
「惚れる」の謎
人がもっとも充実しているとき
すでに本番は、はじまっている
リスクとワクワク
4 ナイチンゲールを真に受ける
生体は善き方向に進む
本来治りやすい病気である
ケアと痛み止め
俺はすでにして完全
Ⅳ ケアが発見する
1 原因に遡らない思考
因果論から構成論へ
幻視・幻聴を聞きまくってデータ収集
幻覚妄想の社会モデル?
前提を変えること
2 手を動かすより口を動かせ
依存症の回復モデル
マイノリティの逆襲?
「ケア論的転回」としてのハームリダクション
3 同じと違う
中井久夫と発達障害
見ている世界が違う
住む星が違うから体も違う
量的な違いが無視される
発達障害と「脳の多様性」
言語化への努力
4 いつも二つある
輻輳する時間
チキンカレーとラムカレー
食べると逃げるが併走する
一列に並べることの利点
Ⅴ 「受け」の豊かさに向けて
1 蘭の花のように愛でる
ALSとは
身体への着目
意図の推測から勝手な解釈へ
蘭の花のように
生を享受する人
2 受ける人
接続詞はドアを閉める
世界は受け取ることで発生する
「いる」のは忙しい
受け身と可能がなぜ同じ言葉なのか
3 いい「波」はどこから来るか
よそに行ったら縛るから
「内面」という無間地獄に落ちる前に
べてるに来れば病気が出る
なぜ、いい「波」が来るのか
規範から遠く離れて
4 受動性と偶然性
蹴る前に受けるスポーツ
受動性や偶然性が排除される
中動態と能動的受動
弱い編集
Ⅳ 弱い編集――ケアの本ができるまで
1 山の上ホテルのペーパーナプキン
――中井久夫・山口直彦著『看護のための精神医学』
地下の薄暗い書庫で
病院のカビ臭い倉庫で
ニワトリと卵と、拾う人
生活の政治学
普通への愛と憧れ
2 魔法と技術のあいだ
――本田美和子、イヴ・ジネスト、ロゼット・マレスコッティ著『ユマニチュード入門』
「好き」にさせる技術
人間的というより動物的?
属人化と標準化のあいだで
3 弱いロボットの吸引力
――坂口恭平著『坂口恭平 躁鬱日記』、岡田美智男著『弱いロボット』
ひとり音楽会と中二病
閉じない人たち
あとがき
主な参考文献
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#2025/12/25
https://www.amazon.co.jp/dp/4004320631/
白石正明
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