《それよりも、否定したいものの中に隠れている面白いもの、不思議なもの、きれいなもの、こわいもの、否定したいものそのものを、じいっとよく眺めるために、まずは目を見開いてていねいに観察してみよう》から、《そしてさらには、観察しおわってしまうと、決めつけたいほどの強固なものはこの世の中にはほとんどないことがわかってくるんじゃないの、と》へと至るのがものすごく共感する。
いくつも挙がりました。
この中の、前半(男の子たちもかわいい)までは、柴崎さんが小説をどう書こうかという意向から出てくる特徴なのだと思われます。
どんな意向なのか。
それはたぶん、何かを最初から決めつけない、という意向だと思います。
ものごとを全肯定する、ということとはぜんぜん違います。
否定したいようなものごとがあっても、まっこうからがあがあ言い立てたくない。
それよりも、否定したいものの中に隠れている面白いもの、不思議なもの、きれいなもの、こわいもの、否定したいものそのものを、じいっとよく眺めるために、まずは目を見開いてていねいに観察してみよう。
そういう意向なのだと思うのです。
決めるのは、それら全部をしっかり観察しおわってからでいいよ、と。
そしてさらには、観察しおわってしまうと、決めつけたいほどの強固なものはこの世の中にはほとんどないことがわかってくるんじゃないの、と。
そんな柴崎さんの声が聞こえてくるようです。
《それよりも、否定したいものの中に隠れている面白いもの、不思議なもの、きれいなもの、こわいもの、否定したいものそのものを、じいっとよく眺めるために、まずは目を見開いてていねいに観察してみよう》から、《そしてさらには、観察しおわってしまうと、決めつけたいほどの強固なものはこの世の中にはほとんどないことがわかってくるんじゃないの、と》へと至るのがものすごく共感する。
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