『PITCH LEVEL:例えば攻撃がうまくいかないとき改善する方法|岩政大樹』
# PITCH LEVEL 例えば攻撃がうまくいかないとき改善する方法 (ワニの本)
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### Metadata
- Title: PITCH LEVEL 例えば攻撃がうまくいかないとき改善する方法 (ワニの本)
- Author: 岩政大樹
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- Last Updated on: 2025年5月1日 木曜日
### Highlights & Notes
まだクラブも選手も成熟していないチームにおいて、ファジアーノの選手たちのバランスは「情熱」に振れすぎているように感じました。サッカーにおいて戦うことや走ることは本質的で大事なことですが、それだけでは勝ち続けられません。一生懸命という部分ではコンスタントに戦える選手が多く揃っていたのですが、一方で、「何を頑張るのか」という部分では明確になっていない印象でした。 「何がなんでも頑張る」というのは聞こえはいいですが、それを打ち出すだけではJ2の中での特徴になり得ません。リーグを戦っていく上での強みにならないのです。だから、僕は「何を頑張るのか」、「いつ頑張るのか」、「どう頑張るのか」を明確にしてあげて、選手一人ひとりをより輝かせる戦いを考えるようになりました。それぞれが思い切り「情熱」を持ってプレーできるような「理屈」を少しだけ加えてあげられるように。
こうした経験から僕は、「勝つためには頭でっかちにならないこと、勝ち続けるためには頭でっかちになること」が大事だと思っています。「理屈」と「情熱」。そのどちらかだけでは決してありません。
ピッチ内とピッチ外では見えているものが大きく違います。  動く時間、動くボール、動く選手、動く流れ、動く心。それら全てを把握しながら、絶えず 判断 を繰り返しているピッチ内。  それを一つのものとして、全体を広く見てしまうと、ピッチ外からの視点はピッチ内のものと大きくズレてしまいます。  ピッチ内には、 22 人の選手と 22 人の判断があるのです。
2.それは選手たちが責任を持って判断をしていくものだということ。
選手が考えているのは、「いつラインを下げるか」と「いつラインを上げるか」、そして「どのくらい上げるか」を、状況によって判断していくこと で、「チームとしてラインを高くしています」とか「低くしています」という発想はあり得ないのです。
頭にあったのは、ラインの高さより、高さの 振り幅 を大きくすることです。
日本には「正々堂々」という言葉があります。戦いが行われるときによく出てくる言葉です。僕は、「自分たちのサッカー」という言葉の使い方が、この「正々堂々」の言葉の解釈とよく似ているところがあると思っています。 「正々堂々」とは、辞書を引くと「態度や手段が正しくて立派なさま」などと出てきます。つまり、卑怯な手段を用いず、正面から立ち向かう、ということでしょうか。  正々堂々の精神は、日本人の精神性に響く、とても大切な心の在り方です。しかし、日本の歴史の中でも度々見られるのですが、この言葉を「当たって砕けろ」と混同して使われてしまうことがあるように思います。そして、「正々堂々」を「当たって砕けろ」と解釈した場合、ディテールが勝負を分けるような緊迫した世界では、勝ち負けに対して逆に淡白になってしまう傾向があるように思います。
大体において、サッカーを見ている人にとっての試合の「流れ」は、どのエリアでプレーが行われているか、で測られます。選手たちはもっと 感覚的なところ で「流れ」を感じていますが、どちらが押し込んでいるかで「流れ」を捉えることはあながち間違ってはいません。選手たちも自陣でプレーしているより、相手陣地でプレーしているほうが心地いいわけで、基本的にはゴールから遠いところにボールがあれば失点のリスクを減らすことができる、と考えられます。
つまり、いい流れの時間帯と悪い流れの時間帯とは、注意しなければいけない点が変わるだけで、決して「いい流れだから(いい流れのうちに)得点しなければ」と思う必要もないし、「悪い流れだから勝つのは難しい」なんて考える必要もないのです。
しかし、書いた通り、勝負所とは、 そのときの自分ではなく、 それまでの自分が表れる場面 なのです。いや、むしろそれをより ごまかすことができない場面 と言ったほうがいいかもしれません。
本当に勝負を分けたポイントというのは、シーズンやその試合が決したあとに、あと付けで語られるものです。特にリーグ戦においては、諦めなければ何度でもチャンスは訪れてくれるのです。
だから僕は、勝負強さとは、「勝負所を見極めること」ではなく「勝負所を決めないこと」だと思っています。
勝者のメンタリティとはどういうメンタリティでしょうか?  勝者とは、大事な試合とそうではない試合を区別する人でしょうか? 「いつもより大事な試合」 があるということは、「 いつもより大事ではない試合」 がある ということです。 勝者のメンタリティを備えた選手 とは、そうやって自分で勝手に試合に優劣をつけたりはせず、どんな試合も勝つためにプレーできる選手だと思います。だから僕は、勝負強さとはそうしたメンタリティを持ち続け、日々の取り組みをしっかり続けることができたときの ご褒美 のようなものではないかと思っています。
ます。僕たちは、苦しいときを日常によって乗り越え、良いときを日常によって手放してしまいました。
勝負所の試合となると、自分たちの 一番いいスタイルでぶつかっていこう と考えがちです。それは選手として当然で、正しいことだと思います。ただ、理想にこだわりすぎて、目的が勝つことから外れてしまってはいけません。  このようなとき、自分たちのいいときのスタイルにこだわらないことは、それにこだわることより難しいものです。
サッカーは流れるスポーツなので、いちいち「チャンスだ」と気持ちを入れ直すわけにはいきません。チャンスは突然やってくるのです。  そのときに体が反応するのは、自分が取り組んできた日常です。つまり、「やるときはやる」ではコンスタントな結果は得られません。ごっつぁんゴールを決めるためには、毎日練習から、いつも可能性を信じてこぼれ球に詰め続ける 習慣を身につけて おかなくてはいけないのです。
プロの世界は 試合に出てナンボ です。みんな出たくて仕方ありません。けれど、 11 人しか試合には出られません。出られない選手が約 20 人もいるのです。  だから、自分が試合に出ることをチームメイトたちが納得しなくてはいけません。それを 示すのは練習 です。試合で戦う前に、まず練習で戦わなくてはいけない。それが鹿島で得た「当たり前」でした。
タイでもファジアーノでも、そして今の東京ユナイテッドでも、程度の違いこそあれ、そこに大きな違いを感じた僕は、その度に「チームメイトたちを変えよう」と思うことはやめてきました。  諦めたのではありません。変わるとすれば、僕が 変えるのではなく、彼らが変わる のだと思ったのです。僕はただ、自分の基準をぶらさずに戦い続けていればいいのだと思っています。
レベルの高い選手は頭の中をアニメのように回し続けているのに対し、レベルの低い選手は漫画のように捉えてしまっているように見えます。  この違いは、僕が最も驚いた部分でした。それまでよりレベルの高いところでサッカーをした選手がよく「スピードが違う」という言葉を使うのは、きっとこの頭を回し続けるスピードのことだと思います。
「ベストを尽くす」とは「一番いい試合」を目指すことではなく、「勝つためのベスト」を探すこと。
きっとサッカーにおいては、正しいことを正しくできたとしても、ゴールはなかなか生まれないのだ。
それを把握したら僕は、その選手の身長や特徴と照らし合わせて、なぜその選手がそのマークの仕方をしたがるのかを「想像」します。
それでも、僕がコンスタントにゴールを取り続けることができたのはセットプレーをフィジカルとメンタルの〝 ガチンコ対決〟と捉えていないことが大きいと思います。  大事なことは相手を 出し抜く こと。ゴール前の狭い空間の中では、ほんの少し相手を出し抜くことができれば、ゴールの道筋を見つけることができるのです。
監督の影響でしょうか。全ては「何をするか」ではなく「判断をしているか」が鍵を握っているのではないか、と思うようになりました。
ただ僕は、その戦い方を選んだときに「判断」があるかどうかが大事だと思うのです。つまり、高いライン設定やプレスをかける戦いを、そうではない戦い方を理解した上で、自分たちで「判断」して戦っているのと、その戦い方しか知らずに、ただその戦いをしているのとでは、同じ戦いをしていたとしても大きな違いがあるということです。
大会直前まで岡田監督は、 攻撃的なチーム を作り、世界に挑もうとしていました。しかし、W杯が近づいてもなかなか思うような戦いをできずにいたチームに、岡田監督はスターティングメンバーやキャプテンの交代、システムの変更などを施し、W杯に挑みました。報道などでは、「岡田監督は守備的に舵を切った」と報じられていますが、僕の記憶では、岡田監督が「守備的な戦いに変える」と選手に伝えたことは一度もありませんでした。  僕は、岡田監督が、それまでは攻撃的に針を振れさせていたチームを、どこまで守備的な方向に戻させるかを考えていたように思いました。そこで、「守備的」というフレーズを使うことなく、チーム内に いくつかの変化 を起こすことで、チームのバランスをそのときのチームにとってちょうどいいところに持っていけるように図ったように見えました。  つまり、大会前の攻撃的なチームを作っているときから、岡田監督の頭には、違う戦い方を選ぶ 選択肢 があったということになります。  その中で、〝あえて〟その戦い方を選んでいた。だからこそ、W杯に至るまでの間にどのくらいチームのバランスを揺り動かすべきかも判断する
「判断」には2つ以上、複数の選択肢が必要です。一つしか持ち合わせていないなら、それは判断とは言えません。そして、サッカーにおいては、「判断」を持って選択されたプレーなら、どんなプレーも〝間違い〟にはなりません。
特に、外からサッカーの試合を見ていると、(実際、僕もそうなってしまうのですが)つい 戦術 や システム、または個々のプレーなどにばかりに目が行き、「人がプレーしている」という当たり前のことを忘れ、人の内面の部分を置いてきぼりにしてしまいます。しかし、サッカーゲームではない僕たちの試合には、戦術や理論だけではない、感情や心理というものが含まれています。
毎試合、同じようなことを考え、挑んでいますが、勝つときもあれば負けるときもあります。その試合もたまたま僕たちが勝ったに過ぎません。
今回はその3分割された両サイドである「 ゴール前」のお話です。サッカーは理論的に捉えようとすればするほど、中盤のゾーンの優位性について語られることが多い傾向にあります。プロセスを大事にする日本では、その傾向がより強い印象も受けます。しかし、一瞬や一歩を争うゴール前にも、フィジカル的な強さや気持ちの強さだけでは語れない、それぞれの選手の ビジョン やこだわりがあるのです。
つまり、ラインの高さとは、 展開のスタート位置 に過ぎず、その後のチームの プランとセット で考えなくてはいけません。目的は、ラインを高くすることではなく、全体をコンパクトにし、その後のチームの戦いをやりやすくすることです。
ラインを低く構えると、構造的な問題以上に問題となるのが、選手のメンタルです。「守備に追われている」という感覚を持つと、 ボールを奪ってからのプラン が頭から抜け落ちてしまい、ボールを奪っても足が止まってしまいます。本当は、相手が攻めてきている分、攻撃するための広大なスペースが広がっているのに、そこに目(頭)がいかなくなってしまうのです。
より大事なことは、 相手を自分の後ろに置く方法論を持っていることで、いつも相手を自分の前に置いておこうとすると自然にラインは低くなります。ディフェンダーが一人ひとり別々に動いているような守り方ではラインは下がるしかなく、ディフェンスライン全体で〝手を繫いでいるように〟、一つの生き物として動くことが大切になります。
僕が感銘を受けたのは、ディフェンダーが「どこに立つべきか」ということをはっきりと言葉にできることです。
守備とは原則的なもので、ほとんどがセオリーに則って進められるものです。相手の攻撃が始まって、最後のシュートを打たれるまで、幾重にもフィルターを掛け、相手の ゴールの確率を減らす 努力をする。その具体的な方法はチームによっても味方選手の特徴によっても変わってきます。  大事なことはそこに守備の ビジョン があるか、ということです。この考察の冒頭に書いた「守備=受け身」の観点で言えば、ビジョンがないとき守備は受け身となり、ビジョンがあればそれは自分たちの意図した方向に相手を誘導していることになります。
- 論理と大局
意識は、変えるのは簡単だが、無意識を変えるのは難しい。変えるのは日常。
(何度も書いてきましたが)サッカーは得点がなかなか入らないスポーツです。逆から考えれば、サッカーはなかなか 失点をしないスポーツ と言えます。  つまり、守備をする者からすると、ほとんどの場面で「やられてしまう」ということはありません。正しいポジションを取っていなくても、あるいは、必死に守らなくても、それが毎回失点に直結するわけではありません。  そのことによって起こるのが、「正しいポジションを取らなくても今回は大丈夫だろう」とか、「必死に守らなくても大丈夫だろう」という 心理 です。サッカーにおいては、どちらかと言えば、その心理のほうが当たり前だったりします。人はどうしても可能性を頭に入れてプレーするので、失点の確率が低いことから、サボるとも少し違うのですが「~だろう」 というプレーになりがちなのです。
つまり、僕の中では、「危険察知能力」とは、「危険を察知する能力」ではなく、「いつも危険に備える能力」なのです。
「危険察知能力が優れている選手」というのは、危険になりそうかどうかなど関係なく、愚直に 同じことを繰り返し ています。その内の何回かだけ、たまたまそこにボールが来て、危険を回避するプレーになって賞賛されますが、そうでないときにもいつも「危険な場面になるかもしれない」と思ってポジションを取っています。
何かを達成するときには必ず何かに導かれるような瞬間があります。それをサッカーの神様というのかもしれませんが、未だにその得体は知れません。ただ、僕はいつも愚直さを試されているように感じます。
しかし、僕たちは責任を分け合っていました。それぞれが自分の役割を、覚悟を持って全うしていました。
「大迫選手は背後で得点を取った」  事実は確かにそうですが、背後を取ろうとして背後を取ったのではなく、前を取ろうとしていて〝 相手を見て〟背後を取ることにした、ということが重要なのです。
結果的に大迫選手は、相手をかわしゴールを決めていますが、 相手をかわそう としてかわしたわけではなく、〝まず〟シュート を打とうとしています。シュートを打とうとしたら、相手がコースに入ってきたので、〝相手を見て〟判断を変え、右に持ち直し、シュートを打っています。
例えば僕は確かに、高さはありますが、スピードはありません。しかし、そんなものは小学生のときから分かった上で、サッカーをしてきました。それをうまく生かせなかったり、うまく隠せなかった場合は問題ですが、それ自体に問題はありません。
ただ、プロに入りさまざまな キャリア の選手を見ながら、僕が思うのはただ一つで、 どこに行っても、「そこに行ったからこそできること」を増やし てきた選手が伸びていくということです。  大学サッカーには大学サッカーの、JリーグにはJリーグの、海外には海外の、そのチームにはそのチームの。そこにないものを探すのではなく、そこにあるものを探し、自分のものにしていく。そのことだけで、同じ経験をしても随分と選手の〝その後〟は変わっていくように思います。
「成長」は、プロに入るまではサッカーに打ち込んでいればある程度、自然に手に入ります。体も大きくなり、目の前の練習や試合に打ち込んでいれば、技術もサッカー脳も身についていくでしょう。 プロに入って変わる「成長」の意味合い  しかし、プロに入ると「成長」の意味合いが少し変わります。プロに入るまでの「成長」が、「自分が持っているものを増やしていくこと」だったのに対し、プロに入ってからの「成長」とは、それに加え、「自分が持っているものを試合の中で表現できるようになること」に変わります。  それはより詳しく言えば、「今できることの整理」と「〝具体的に〟できることを増やすこと」になります。つまり、ただ漠然とサッカーを頑張っていればサッカーがうまくなる時代は終わり、より具体的に、自分のプレーの表現の仕方を考えていかなくてはいけないということです。
それに対して、内田選手は、いつも大体左手をそっと挙げながら、「分かりました」というジェスチャーをしていました。頭のいい選手なので、僕が言っていることは理解していたと思います。しかし、試合では、 自分の中で理解はしていても今できないと判断したことはしない のです。しっかりと今の自分にできることとできないことを区別した上で、自分の リズム を崩さない程度に、少しずつ取り入れているように見えました。
こうした選手たちと接してきて思うのは、プロになってからの差とは、自分にできることの表現の仕方を知り、できないことの隠し方を知っているかどうかだ、ということです。何かを持っている、持っていないとかではないのです。
結論から言うと、僕は「2年目のジンクス」とは、2年目に「結果が出なくなること」ではなく、「変化が起こらなくなること」ではないかと考えています。
まず、経験とはつまるところ、「サンプル集め」です。
ただ、サンプルの振り分け方には個性が出てきます。何度か書いてきたように、サッカーは同じ場面を見ても見方によって捉え方はさまざまです。その新たに得たサンプルを、自分のどこのフォルダに保存するかで、その人の経験の形が変わってきます。
「経験とは、断片的に見ていたものを複合的に見られるようになること」
そんな自分自身を振り返ってよく思うことがあります。それは「当たり前(常識)」という言葉を使った2つの大事なことです。  一つは「当たり前を当たり前のようにできること」の大切さ。  もう一つが「当たり前を疑うこと」の大切さです。
鹿島以降の4年間、チームを引っ張る役目を任されながら戦ってきて思うのは、小笠原選手や本田選手のように、リーダーは「当たり前を当たり前のようにできること」と「当たり前を疑うこと」を バランス 良くこなさなければいけないということです。 「当たり前を当たり前にすること」をチームの常識にしながら、ときにはそのチームの常識を大きく上方修正するような常識外れなことも必要なのです。それも、それを自然体で豪語できるような自身への自信の裏付けも持ち合わせていなくてはいけません。
だから、僕は鹿島を去る決断をするときに、育ってきていた若手たちに早めにバトンを渡そうと考えていました。  彼らが争うべきは、そのときの僕ではなく、それまでの僕であり、サッカー人生の終わりに近づいていく僕ではなく、タイトルを取ってきた僕であってほしかったからです。
毎年、クラブは変わっていきます。選手は移り変わり、歴史に歴史を積み上げていきます。しかし、不思議なほど、クラブの〝カラー〟は変わりません。  それはきっと僕たちがクラブの歴史と戦っているからだと思います。そのマラソンレースに勝ったとしても敗れたとしても競ったのはクラブの歴史であり、今のクラブはクラブの歴史の上にしか立てないのです。
しかし、雰囲気からサポーターの皆さんが何を求めているかは敏感に感じることができます。選手は少なからず、サポーターの皆さんに喜んでもらえるようなプレーをしたいと思っています。自分がいいプレーをしたと思っていてもサポーターの皆さんが反応してくれなかったらテンションが下がりますし、逆にそれほどいいプレーだと思わなくてもサポーターの皆さんが反応してくれるとテンションが上がったりします。  つまり、サポーターの皆さんは、選手たちの「いいプレー」の基準を示す存在だということです。
というのも、僕たち選手は、サポーターの声を、言葉ではなく空気から感じています。ブーイングをされたかされなかったかよりも、サポーターの皆さんがどのように感じているかを、 スタジアムの空気で感じている のです。
最近よく、人と人の間に「何をしたらいい」というような正解はないのではないかと思います。大事なことは「何をするか」ではなく、「なぜするか」であり、行動ではなく、気持ちなのだと思います。逆に言えば、「なぜするか」が明確に考えられているなら、全て 正解 なのだと思います。
選ぶ人によって変わるもの」を目標にしていては自分がブレてしまうのではないか。
結局、どの監督もおっしゃることですが、サッカーにおける日本代表とは、決して日本で一番サッカーがうまい選手から順番に選ばれるものではないということだと思います。監督が変われば当然、メンバーも変わります。もちろん日本のトップが集まる舞台ではありますが、それでもいくつかの矛盾を孕んでいるように見えることは仕方のないことなのです。
Jリーグで所属クラブのために一生懸命試合を戦いながら、「日本代表を目指す」というのは、誰に向かってサッカーをするのかという点で、どこか誠実さに欠ける気がして、器用ではない僕には何か違う気がしていました。
しかし、僕は気が付けば 35 歳となるこの歳までサッカー選手を続けてこられました。長く続けることが素晴らしい、と言うつもりはありません。ただ、小さい(と言っても大きかった)頃、誰もサッカー選手になることを予想しなかったただの〝でくの坊〟が、プロとして 13 年もの間、サッカーを続けることができたのです。  それを不思議と捉えている人も多いと思います。  そこにはサッカーを〝する側〟と〝見る側〟の決定的な違いがあると思います。  サッカーを見る、というのは当然ながら 見えるものを見ます。選手にスポットライトを当てれば、選手の身体的特徴、プレー、仕草、言動。そうした目に見えるものから情報を得て楽しんだり、評価したりします。  しかし、サッカーをする私たちは、生まれたときからその自分の特徴や癖を知っています。例えば私なら本書に書いたような特徴をサッカーを始めたときから知っていました。 「サッカーをする」というのは、その自分を知った上で、どのようにプレーするか、ということです。  だから、例えば「足が速い」とか「高さがある」とか「技術がある」ということで特徴を語られると少し違和感があります。それらは本人からしたら、サッカーをするときの前提みたいなもので、そこから何を生み出すかが「サッカーをする」ということだからです。
結果は全て切り離されたものですが、一つひとつの試合の流れは決して完全に分かれているものではなく、自分たちの中では繫がっています。
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#2025/04/16
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岩政大樹