『静かに生きて考える|森博嗣』
# 静かに生きて考える Thinking in Calm Life
### Metadata
- Title: 静かに生きて考える Thinking in Calm Life
- Author: 森博嗣
- Last Updated on: 2025年2月14日 金曜日
### Highlights & Notes
何が良いのかというと、クルマで走っているときはエンジンの音しか聞こえない、いわば静寂な環境、これだと思う。
なにかを考えることもなく、周囲の風景を見ているわけでもない。ただ運転をする、というシンプルな体験が面白い。
面白くても、面白くなくても、必ず全部読む。面白くないものも、何が面白くないかを考える材料になる。
そういう自分も、庭で土を掘って、線路の工事をする。手は汚れ、躰は疲れる。楽しみをヴァーチャルで再現できたとしても、疲労などのマイナス面は現実で生じるだろう。そのマイナス面を「やり 甲斐」とか「生き甲斐」と総称する。これらの言葉をプラスの意味に受け取っている人が多いようだけれど、希望的観測であり、悪くはない。
人の幸せは、仲間でわいわい騒ぐ時間に存在する、と勘違いさせる圧力がある。その機会で 儲けるビジネスが圧力をかけているからだ。変だなと気づく人は、しだいに 喧騒 から遠ざかり、自分の楽しみに出会うことができるけれど、気づかないまま歳を重ねると、孤独な老後が待っている。その孤独こそ、自身の思い込みが作ったものだ。
本当にどうでも良いことだが、「どうでも良い」は、「こうであるべき」よりは幾分好ましいように感じている。
他者と親しげにつき合っていると、ときどき無駄な集いに誘われることになるが、時間が惜しいなら断れば良い。このとき、理由を語る必要はない。ただ、「そういうのは、ちょっと」と片手を広げて微笑むだけで済む。大してエネルギィを消費しない。自分の生き方を語る必要はない。それこそ、時間とエネルギィの無駄だろう。スペシャリストであっても、表向きはジェネラルでいれば良い。難しいことではない。
僕は、人の意見を聞くし、多くの場合それを受け入れる。 大勢 の動向に積極的に同調するようなことはないにしても、自分の好みを強く主張することはなく、「まあ、どちらでも良いことだから譲歩しよう」となることがしばしば。そもそも、人が僕に意見をするのは、僕にとってはどうでも良い事案である場合が大多数なのだ。
これは、「研究」に近い行為といえる。研究は、新たな問題を解く作業だが、しかし、必ず先人の成果の上でスタートする。否、研究でなくても、人が成そうとする行為は、ほぼ同じだ。なにか関連するものが過去に必ず存在する。過去の人の知見や業績を踏まえ、そこに自分の発想とエネルギィを注ぎ込む、それが「人生」だともいえるだろう。
人間というのは、相手に対して褒めたり叱ったりするけれど、結局は、「自分の期待」に対する結果の到達度で、満足したり不満を持ったりする。ときには、その評価が、相手の「人間性」に向かうこともあるけれど、それは、人間性に期待していたからだ、と理解できる。 自分自身についても、なんらかの期待を無意識に持ってしまい、その結果、一喜一憂することになる。ということは、その期待の精度をもっと上げて、精確な予測をすれば、もう少し期待どおりになって、自分に腹を立てることも少なくなるだろう。
沢山知ったから楽しくなれないのではない。これは断言できる。そうではなくて、「どうせ知っても大して面白くない」ことを知ったからだ。
普通の大人は、自分の家のことも、自分が使っている機械なども、自分では問題解決できない。不具合が生じても直すことができないし、もちろん作ることもできない。そもそも、やってみたいとも考えない。どうしてだろうか? つまり、「社会人」だからである。社会とは、大勢の人間が分業し、それぞれの得意分野で仕事をする仕組みだ。このサークルにいると、自分のことなのに「誰かがやってくれる」生き方になる。自分はただ自分のノルマをこなすだけ。それ以外のことは、他者のノルマになる。
生きる喜びというのは、大雑把にいってしまえば、日々の充実であって、もっと簡単にいえば、自己満足である。 他人のために人生を作り上げ、死ぬときに「完成だ!」と打上げパーティで大騒ぎするものではないだろう、と思う。人生には〆切もないし、約束もない。面倒だし、考えないといけないけれど、大概は自分が好きなようにできる。 自分が好きなようにできない、と感じている人たちは、まるで自分の人生をコンテストに出品して、周囲から審査を受けるような具合に、日々を 捉えているみたいだ。みんなに認めてもらわないといけない。周囲から 褒められないと意味がない。大勢が賛同してくれないとやる気にならない。そんなコンテストを自分で 妄想 している。自分がそのコンテストの主催者なのに。 たしかに、勉強や仕事の一部には、そんな「競う」面がある。けれど、人生の大部分がそうではない。全部が競争だという錯覚を、早く正した方が良い。人生は、戦いでも競争でもない、と思うだけで、生きやすくなるだろう。
考えない人でも、感じることくらいはするらしい。怒ったり、笑ったり、悲しんだりする。でも、どうしてそういう感情を持つのかまでは、深く考えない。考えるかわりに、今はネットで検索し、同じ感情を抱いた人たちの 呟きを見て、「あ、同じだ、良かった」と安心する。この安心も感情的な反応であって、考えてそうしているわけではない。
信頼は、何を材料にして、どのような構造で、そしていかなる手順で構築されるのか、と考えてみよう。
人の記憶は、デジタルではなくアナログだから、忘れて失われるのではなく、焦点が合わなくなる。ただ、文章はデジタルだから、忘れたら消えるだろう。
真っ直ぐに目的物を 捉えて、目を離さずに進むのが「計算的な思考」である。これは「集中」していなければならない。それに対して、「発想的な思考」は、一点を見続けるのではなく、視線を逸らせて方々を見回す必要があり、「集中」の正反対ともいえる状態でなされる。 発想というのは、「着眼」から生まれる。どこに目をつけるのか。何を見るのか。できるだけ広く見回し、なるべく沢山のものを見る。関係がないものでも目をつける。そうするうちに、ふと気づくことができる。これが「発想」である。
自分の行為を周囲の視点がどう見ているか、を気にする人は多い。しかし、本当に頭の良い人は、それを気にしない。何故なら、既にその周囲の視点と同様のものを自分の中に持っていて、瞬時に自己評価しているからである。 他者評価ではなく自己評価だから、自分の行為に対して評価を得るまでの時間が極めて短い。だから、成長が早い。これが天才が生まれるメカニズムといえる。
どうもそれだけではない。自分の幸せを自分だけで 嚙 み 締めることができないのだ。素晴らしさを一人では処理できない。誰かに見てもらって、その人が感動する様を確認しないと、本当に幸せなのかどうか判断できない。だから、写真や動画を撮って、他者に見せなくてはならない。 幸せだけではない。腹が立つような体験も、誰かに教えて、その人たちにも怒ってもらいたい。みんなで一緒に怒ってほしい。そうしないと、自分が怒って良いのかどうか不安だ。「皆さんはどう思いますか?」と問いかけないと、怒るべきなのか、それとも、我慢をしなければならないのか、判断できない。このような思考、行動をする人が、最近増えているように観察できる。
ところで、多くの場合、問題を抱えている人というのは、問題を解決しようとしていない、といっても良い。解決したいというよりは、問題を 曖昧 にしたいのだ。このため、問題を明確にすると腹を立ててしまう。
相手を救うのか、相手に好かれるのか、のいずれを選択するか、という判断をまずしなければならない。嫌われる覚悟で助けるのか、嫌われたくないから放っておくのか、いずれかだ。
本来、意見には正しいも間違いもない。意見は個人のものであり、その人にとっては正しいけれど、誰にとっても正しいわけではない。正しさなんてものは、 所詮 その程度のものである。
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