『西田幾多郎の思想|小坂国継』
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哲学の動機は悲哀の意識である
あらゆる二元論の否定
二つに見える岩
カントとの比較のくだりは、たのてつのカント回のおかげで話の流れを追えた
否定の論理
真理とは何かという問いは、良き生とは何かという問いに従属すべきもの
この連休で読み終わろうと思ったが思いの外重たいので毎日少しずつに切り替えよう
活動とそこから生まれた事とは絶対的に同一である
事行(じこう タートハントルング)
カントならびに新カント学派の構成説
絶対無の場所、意識の野、有の場所という重層関係
場とは、その語からイメージされる空間的外延的静的ではなく、作用的内在的活動的なもの
“一言でいえば、有るもの、働くものの根底に、これを包む絶対無の存在を想定し、そして前者を後者のいわば影像として考える立場である。この意味で、「場所」の論理は東洋的無の思想の哲学的論理化であったといえるだろう”
アリストテレスの論理学、主語の論理の概説がわかりやすかった。
やはり、本題を持ち出すために必要な前提知識を概説的に説明している箇所というのは、枝が繁茂し過ぎず見通しがよい。
本題を書くときにも意図したい。
ヘーゲルとの関係
純粋経験のおさらいとしての記述がわかりやすかった。
本題として触れている段階ではわからないが、後続のおさらいの段になってよくわかるということはよくある。
本題の時点では、自分の中に下地ができでなかったり、本題として扱うが故に細かいところまで説明されてたりするからだろう。
だから本はわからなくても気にせず読み進めばよいというのは一つの真理。
(もちろん、わからないなら時間を無駄にせず読むのをやめればよい、というのもまた別の真理としてはある)
ヘーゲルの論理学
(略)ヘーゲルにおいては、普遍が自己を限定し、自己を特殊化して個物となるのである。例えば、「このリンゴは赤い」という判断において、アリストテレスでは、このリンゴが赤いという性質をもつと考えるが、ヘーゲルでは、赤いという普遍概念がこのリンゴに自己自身を限定すると考える
字面だけを追ってくと理解した気がするのだが、ふとページから顔を上げて周りを見渡すと、自分が感じてる世界とどうつながるのかわからなくなる。
西田とヘーゲルの違い
具体的普遍を場所的に見るか過程的に見るか
宗教的意識と絶対無の場所と絶対無の自覚の関係の説明はちょっとよくわからなかった
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