『問いの編集力 思考の「はじまり」を探究する|安藤昭子』
本書は「問い」に関する本ではあるが、「場を動かす問いをうまく設計しよう」といったワークショップ運営の指南書ではない。「お題をどうつくるか」という設問設計やファシリテーションのためのノウハウ本でもない。「問いはいかに生まれてくるのか」という、自分の中から「内発する問い」とその発生のメカニズムについて、人間の編集力に重ねて考えてみたものだ。
「問い」はなんであれ、内面の了解と外側の世界のズレから生じるものだ。既知(すでに知っていること) と未知(まだ知らないこと) が 踵 を接するところに問いのタネが潜んでいるのだとすれば、誰にも問うべき事柄は際限なくあるはずなのだ。ただ、与えられた問いに首尾よく答え続けるうちに、自分の内側から湧き出る問いは「問うまでもないこと」として処理される。そうして、問いの芽吹きがおこる柔らかな領域にはいつしか固く蓋がされてしまう。
「問い」は、必ずしも自発的なものとは限らず、多くの場合なにかに誘われるように生まれてくるものである。自分と自分を取り囲む環境とのあいだに、相互作用する柔らかな力を感知できるようになることも、「問いの編集力」には大変に重要な技能となるはずだ。
これから一冊をかけてみなさんと巡っていく「問いの編集力」とは、「問いを引き出す編集力」であり、「問いに宿る編集力」であり、また「問いの姿をした編集力」であるとも言える。「問い」と「編集力」のあいだにある「の」の役割は、本書がたどる文脈と読者一人ひとりの見方に応じて移ろうことと思う。いずれにしても、人間だけに許された「問う」という知的営みを、一人ひとりに内在する編集力によってアップデートするプロジェクトであると思っていただきたい。
カレンダーにこの文字をみるたびに、泥だらけの服と土の匂いを思い出す。
人間の想像力も、これに似ている。自覚できないほどの微細で複雑な記憶の群れが、今この瞬間も刻々と進む思考を支えているのだ。思考が「生きた」状態を保つためには、一見何の役に立つのかわからないようなイマジネーションの断片が自由に動き回っていたほうがいい。冬の虫たちのように、記憶の奥底で出番を待つ雑多な知識や断片的なイメージの群れもあるだろう。自ら問う力は、たくさんの思考や記憶のかけらの複雑なつながり合いの中から芽吹いてくる。 目先の目的に気を取られていると、そうした内側の豊かな世界を忘れて、単線的で合理的な思考が優先されてしまう。土を生かすことよりも、即効性のある肥料ばかりが欲しくなり、「そのうちに芽吹く可能性」を自ら摘んでしまう。「すぐに役に立つ」ものが「すぐに役に立たなくなる」という現象は、これによる。役に立たないだけならいいが、悪くすれば考える土壌の力そのものを奪ってしまうのだ。
「私」を柔らかくほぐし、ゆるませ、外気を入れ、雑多なセンサーが動く状態にしておくことだ。想像力における「啓蟄」は、何にでもなれる柔らかな「私」に気がついたときに、ふいに訪れる。「私」はもともと、「たくさんの私」なのだということを、思い出しておこう。
この生命体それ自体が、大量の情報から成る「たくさんの私」なのだ。
いる。それら「たくさんの私」の束を仮説的にひとくくりにしているのが、日頃私たちが「私」と感じている自己意識なのだ。
「たくさんの私」が共存しているのであれば、当然「私」の中に矛盾も亀裂も吹き出てくる。それらは面倒くさい問題のようでもあるけれど、実はその「ギャップ」にこそ、自分を前に進める問いの可能性が潜んでいるのだ。 古典文学からアイドルグループまで、人々の心を動かす物語には、必ずや何かしらの「意外性=ギャップ」が仕込まれている。古来、「ギャップ萌え」は人間の活力を引き出すトリガーになってきた。 物事を大きく変化させ動かしていくのは、常に落差やズレ、矛盾や葛藤だ。場面に応じて「よくできている自分」「よくやれている私」だけが、「私」でなくていい。おぼつかなさや心もとなさ、不甲斐なさや割り切れなさを抱えて、何かを思う自分自身にこそ「ギャップ萌え」をしたほうがいい。そのためにはまず、「 整合性のとれた一貫した私」という幻想から脱すること、そして「たくさんの私」を自由にしてやることだ。
精神病理学者の木村敏( 1931-2021) 氏は、「〝私〟とはなにか」を解くなかで、自己には「主語的自己」と「述語的自己」の両面があると言っている。常に変わることなく「私」であり続ける「主語的自己」がある一方、日頃は意識していないが何かの拍子に現れてくる「述語的自己」もある。前者は「私は~である」という主語になりうる私(「私はビールに目がない甘党である」)、後者は「~は私である」という述語になりうる私(「ビールに目がない辛党は、私である」「夕焼けが淋しい三歳児もまた、私である」) だ。そして、一見安定した不変の同一性を持っているように思われる主語的な「私」は、実のところこのおぼつかない述語的な私の束を認知しないと「私」として成立しえないのだと言う。言われてみれば、そのとおりだ。
編集力では、「述語的自己」をめっぽう重視する。「主語的」な問いは、往々にして編集の可能性を狭めるからだ。たとえば「男は度胸、女は愛嬌」といったときに、「男」はどうだ、「女」がなんだを追求していこうとすれば、あっという間にジェンダー問題の制限の中に入っていく。昨今の炎上現象は、社会全体がこうした主語の動向ばかりを気にしすぎていることに起因しているようにも思う。「愛嬌」ってなんだ、「度胸」はどうだと考えていくと、その風景はアイドルにも極道にもゆるキャラにもアスリートにもなっていく。その上で、「男」や「女」が視界の一角に入ってくればいい。
このいくつかのニューワードを「俳号」や「ペンネーム」のようにして、ものを考えたり書いたりコミュニケーションしてみてもいいだろう。江戸時代のクリエイターたちはたくさんの名前をもって創作活動をしたという。日本人は古来、「たくさんの私」を遊ばせることで豊かな文化をつくってきた。「独立したひとりの私」という西洋的自己が、そのゆるく雑多な自己感覚を上書きするようになって、「整合性のとれた私」が幅を利かすようになったのだ。
「問う」ということはつまり、「いつもの私」の中にはないものに出会うこと、その未知との遭遇の驚きを自分に向けて表明することだと言っていい。
私たちは常に、何かにさしかかっている動的な存在なのだ。
誘われている存在としての自分を、時にはまっさらな気持ちで感じてみるといい。
視覚や聴覚といった入力器官からの刺激を受けて脳で意味をつくるのではなく、「環境の中にある意味が行為を通して発見される」という見方である。ジェームズ・ギブソンもまた、モリス・バーマンが問題にしたデカルト的パラダイムの限界を乗り越えようとしたひとりだ。先述のベイトソンが「近代的自己」にある 誤謬 を指摘したのだとすれば、ギブソンは「近代的認識論」の不足を問い直したと言える。
私たちは、何かを認知した瞬間にすでに「意味」に出会っている。何かを認識するその接面で、刻々と「意味」が創発しているのだ。ベイトソンが言うように、 「主体としての木こりが対象としての木を切っている」のではなく、「切られる木」や「さっきついた傷」のほうにすでに意味が宿っていて、木こりは生きたシステムの中でそれをピックアップしている、ということだ。
ユーザは必ずしも「考える→決める→ジェスチャー→離す」という段階を順番に進んでいるのではなく、何かを思うことと指を動かすこと、あるいはやめようかと思うことや次のジェスチャーをイメージすることを、ほぼ同時に行っている。こうしたマイクロスリップを前提にしたインターフェイスを志向したことで、「流れるような( Fluid)」操作感覚を実現している。「体( BODY)」のみならず「心( MIND)」の延長としてのデバイスを目指すということらしい。逡巡や失敗や出戻りを織り込んだほうが人間の動作感覚に馴染む、という例だ。
このマイクロスリップの原理を石黒浩氏がつくるアンドロイドに実装したところ、ロボットを人間に似せていく過程で、ある閾値を超えると嫌悪感を感じるようになる「不気味の谷」と呼ばれる現象が、見事に解消したという。
このように、人間は必ずしもゴールをめがけて合理的な動きをしているわけではない。コミュニケーションにおいても、言いよどむ、躊躇する、言い直すなどを組み合わせながら、ジグザグに進んでいるし、それがお互いの心地よさにもなる。思考もまた同じだろう。「ああでもないこうでもない」と複数のマイクロスリップを繰り返しながら、ズレやノイズを含んでものを考えている。脇道や横道をチラチラと視界に入れながら流れに任せて思考しているときほど、結局望ましい景色に早く到達する、ということは往々にしてある。環境と自分の間に「試行錯誤」を許容するインターフェイスをおいたほうが、なにかとうまく運ぶのだ。
優れた世のリーダーたちは、 剛毅 果断 に見える行動の奥に、無数の人知れぬ優柔不断を抱えているものだ。
「ああでもないこうでもない」の迷いを「ああもこうもありうる」という前向きな可能性の束にしていくには、ノイズをこそリソースにする編集への自覚が必要だ。
「ここ/むこう」「ウチ/ソト」、その境界線はいつでも文脈の中で揺らいでいる。
こうした体験を通して、伊藤さんは「セルフ(自己) とは、『環境』に相対的に創発するのではないか」と感じるようになったという。
似たもの同士が集まったり、好みの情報だけを選択することは何も今に始まったことではないが、これまでと明らかに違っているのは、私たちを取り囲む環境の側が、人々の嗜好性や行動パターンを学習する機能を身につけているということだ。
慣れ親しんだ風景に安住するうちに、自分を取り囲むある限定された世界を全世界であるように感じ、それを疑わなくなっていく。時折私たちを襲う閉塞感の原因は、必ずしも社会のせいなどではなく、この境界への無自覚な従属ではないかと思う。
問いが生まれる土壌としての思考環境を、人任せにして放っておかずに、いつでも自分で耕せる状態にしておこう。
国際秩序の問題も、たいていは緩衝地帯をめぐる攻防だ。ウチでもありソトでもある緩衝領域を持たないときに、国家も生命も不安定になっていく。地政学的な問題のみならず、日常の人間関係から個人的な思考や認知にいたるまで、「間」が何らかの秩序をたもっているのだ。思考の領域に異物が侵入してきたときに、いったんそのままに受け止める認知の緩衝領域と言ってもいい。「間」がきゅうきゅうとしていると、ついつい反射的な反応になる。怒りや恐れといったストレス感情は、たいていの場合こうした異物への反射的反応の残骸だ。自分と環境との間に精神の緩衝領域を持てていれば、入ってきた異物を飲み込むなり捨てるなり噛み砕いて別の意味に変換するなり、都度選択することができる。ミトコンドリアを見習いたい。
複雑なものを複雑なままに、わからないことをわからないままに、痛みを痛みとして、判断を保留して抱え持つ。「
正解を出すことを求められ続けてきた私たちは、考えを保留したり「わからなさ」を吟味したりといった「すぐに着地しない思考」にとかく弱い。インフルエンサーの一問一答が重宝されるのも、複雑な状況に対してのわかりやすい見解を持っていたいという需要の現れだろう。「答えめいたもの」が手に入れば、ひとまずはスッキリできる。ただその「簡易的なスッキリ」が、その先の思考を奪っているということも、時には思い出したい。ゆるやかな思考停止状態は、ジワジワとイマジネーションの活力をうばっていき、より狭い世界に私たちを追い込んでいく。
ただし、「わからない」だけでは「問い」にならない。「わからない」を「わかりたい」と思ったときに、「未知」は「問い」として動き出す。鮮明な好奇心や情熱的な探究心は、その軌跡を追うようにあとからついてくる。
だ。「未知」の領域にとどまって判断を保留する「ネガティブ・ケイパビリティ」を保持するためには、まず自分の意識が向く先を自在にマネージできる必要がある。
注意のカーソルは常に、デノテーション(外示作用) とコノテーション(内示作用) の両方を読み取りながら動いている。デノテーションは直接的で外事的な意味にあたる。いわゆる「文字通り」ということだ。一方、コノテーションはその言葉や行間に含まれる暗示的・連想的な意味を指す。初めてのデートで「歩くの速いね」と言われたら、「でしょ?」とは言わないだろう。「あ、ごめん速かった?」と言って少しゆっくり歩くのではないだろうか。このとき「歩くの速いね」のデノテーションは「歩行スピードが速い」という事実そのもの、コノテーションは「もっとゆっくり歩いて」というお願い、もしくはクレームの可能性が高い。「話を額面通りに受け取る」といえば、表面上の意味(デノテーション) だけを理解して、その言外にある真意(コノテーション) を察していない、ということだ。
「注意のカーソル」は、このデノテーションとコノテーションの両方に反応している。何かを理解するということは、デノテーションを通して背後にあるコノテーションをキャッチしていく行為でもある。コノテーションは、人の記憶の中にあるさまざまな文化的背景をキックして、感傷や感情ごと意味を想起させる。注意のカーソルは、そこを立体交差しながら動き回っているのだ。
自分の注意のカーソルを自覚せずにほったらかしにしておくと、「疑心暗鬼」や「自信過剰」や「被害妄想」などの偏った方向に意識が傾きやすくなる。こうした面倒くさい自我は、文脈と意味の間でコノテーションがねじれて「勝手な思い込み」が動かなくなっている現象ともいえるだろう。自分の注意のカーソルに敏感になってみると、こうした思考の癖がよく見えるようになる。それだけであっさり解決する問題のなんと多いことか。あまり自分の認識を自動運転に任せないほうがいい。
まずは、「注意のカーソル」の動きの癖に気がつくこと。いつだって「心配」と「問い」は紙一重だ。自分の内側で勝手にグルグルまわりを続けるブツクサを、どこかで区切って「じゃあどうしようかな?」と思ったとたん、「不安と混乱」は「好奇心と問い」に変わることがある。
何かの情報に接したときに、そのまわりに勝手な連想が動く。どんな情報も意味のネットワークを持っていて、必ずや仲間を連れている。他の情報を連想せずに「それだけを見る」ことのほうが難しい。この連鎖性こそが情報の正体と言ってもいい。
連想には、「雨」と言えば「雪」「嵐」のように類似性に基づいて似たものを想起するパターンと、「傘」「遠足中止」のように言葉の隣接性によって関連する語を引き出すパターンがある。似ているものを引き寄せて、関係のあるものを引き連れながら、イメージはどんどん連なっていくのだ。
連想は、野放しにすると行くあてのない白昼夢になるが、意図してマネージしていくと、強力な発想のエンジンになる。
情報の多面性とはつまり、さまざまな文脈(地) の上に展開される、たくさんの意味(図) のバリエーションのことである。複雑に絡まり合う情報の「地と図」を意図的に動かしていくことで、狭く固まっていた視界が柔らかく広がっていく。
ひとつめは、「地」にあたる主体と場所を変えてみる方法だ。「~にとって」「~における」の「~」をさまざまに入れ替えながら、「誰」にとってか、「どこ」にあるのか、といった視点を動かしてみる。冷凍食品メーカーを「地」とすれば「お弁当」は市場だし、お弁当を紹介するインスタグラマーが「地」となればお弁当は自己表現の作品群だ。学校を「地」にすると、カバンの中にあるときは生徒の持ち物であり、お弁当の時間となれば生徒間のコミュニケーションの媒体となり、時に感染症対策の対象にもなる。このように、「地」が変われば「図」も変わる。情報に関わる主体と場所(地) を切り替えてみると、それまで見えていなかった視点(図) が開けてくる。
ふたつめは、言葉の力を使って見える景色を変えてみる方法。「お弁当」という言葉に「に、を、で、の、と、も」などの助詞を切り替えながらつけてみよう。「お弁当に」と言えば、何を詰めるかが連想されるけれど、「お弁当と」と言えば、一緒に持っていくお箸や水筒が思い浮かぶ。「お弁当の」「お弁当で」「お弁当を」などなど、試してみるとクルクルと景色が変わることを感じられるだろう。
メディアが伝える情報は、少なからず何らかの「地」(立場) によっている。「他の『地』で見るとどんな『図』が見えてくるのか」というベーシックな問いを常に抱えておくこと、そして自分で考えるための「地」はいつでも自分で選んでいいのだということを、その方法と共に理解しておくことが大切なのだ。
何かに熱心に気持ちを向けていると、思いがけないところから大事な情報が舞い込んでくることがある。そのときは「ああ、助かった」と幸運に感謝するものだが、これは「ラッキーにも思いがけないところから大事な情報が入った」という現象なのでは、おそらくない。「思いがけないところから入った情報が大事であることに気がつく」という、はっきりとした心の作用なのだ。
編集は、偶然を必然に転化する営みである。
『セレンディピティの探求』を書いた澤泉重一氏は、自分では意図しない「やってくる偶然」と自らの意志による「迎えにいく偶然」がうまく出会うところにセレンディピティが生じるといい、「偶察力」という言葉をあてている。「偶然」と「察知」を生かす力という造語だ。「やってくる偶然」と「迎えにいく偶然」の出会い頭のニュアンスがよく現れている。
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