『中動態の世界 意志と責任の考古学|國分功一郎』
中動態の世界―意志と責任の考古学―(新潮文庫)
https://www.amazon.co.jp/dp/B0DYRR5TKH
Highlights & Notes
──僕の友人でも、「回復とは回復し続けること」って言葉の意味が全然分からなかったという人がいるんですよ。彼は「ずうっと毎日、回復の努力をし続けなければならないなんて大変だなぁ」って思っていたと言う。
「こうやって話していると何となく分かってくるんだけど、しゃべってる言葉が違うのよね」
私は毎日さまざまなことをしている。たえず何ごとかをなしている。  だが、私が何ごとかをなすとはいったいどういうことだろうか? どんな場合に、「私が何ごとかをなす」と言えるのだろうか?  たとえば、私が「何ごとかをさせられている」のではなく、「何ごとかを なしている」と言いうるのはどういう場合か? そこにはいかなる条件が必要であるのか? 言い換えれば、私が何ごとかをなすことの成立要件とは何か? どうすれば私は何ごとかをなすことができるのか?  いや、問いはもっと 遡りうる。そもそも、私は何ごとかをなすことができるのか?  言語にまつわるとある事項を頼りに、本書はこれらの問いに迫っていく。決して新奇なことを述べるわけではない。本書の議論は、さまざまな分野がすでに明らかにしていたことの総合のようなものである。だから、「そんなことは分かっている」と思われる論点も多々あろう。だが、そのような総合が試みられなかったがゆえに、ある一つの世界が、 垣間見 られつつも、像を結ばなかったのである。
たとえば子どもは、駆けることはできてもジョギングができないことがある。「歩く」と「駆ける」の間にあるジョギングの動作は、ずいぶんと後になって習得されるものだ。しかしひとたびジョギングができるようになると、われわれはそれが習得されたものであることを忘れてしまう。歩くという行為についても同じことが言えよう。
熊谷晋一郎の表現を借りれば、「私たちは、目を覚ましているときにも内部モデルという夢の世界に住んでいる 04」。われわれは脳内でのシミュレーションに過ぎないものに、自分と世界のリアリティを感じながら行為しているということだ。
重要なのは、謝罪が求められたとき、実際に求められているのは何かということである。
たしかに私は「謝ります」と言う。しかし、実際には、 私が 謝るのではない。 私のなかに、私の心のなかに、謝る気持ちが 現れる ことこそが本質的なのである。
「私が何ごとかをなす」という文は、「能動active」と形容される形式のもとにある。たったいまわれわれが確認したのは、能動の形式で表現される事態や行為が、実際には、能動性のカテゴリーに収まりきらないということである。
「私が歩く」 から「私のもとで歩行が実現されている」 を引いたら、何が残るだろうか?
意志は実現に向かっているのだから、何らかの力、あるいは原動力である。ただし、力ないし原動力とはいっても、制御されていない 剝 き出しの衝動のようなものではない。意志は目的や計画をもっているのであって、その意味で意志は 意識 と結びついている。意志は自分や周囲のさまざまな条件を意識しながら働きをなす。おそらく無意識のうちになされたことは意志をもってなされたとは見なされない。夢遊病者の歩行はその人物の意志による行為とは言われないだろう。
ところが不思議なことに、意志はさまざまなことを意識しているにもかかわらず、そうして意識された事柄からは 独立している とも考えられている。というのも、ある人物の意志による行為と見なされるのは、その人が自発的に、自由な選択のもとに、 自らで なしたと言われる行為のことだからである。誰かが「これは私が自分の意志で行ったことだ」と主張したならば、この発言が意味しているのは、自分がその行為の出発点であったということ、すなわち、さまざまな情報を意識しつつも、そこからは 独立して 判断が下されたということである。
たしかにスピノザは、「自由な意志」という概念を 斥け、この世界とわれわれの心身を貫く必然性に 則って生きることをよしとした。スピノザによれば、意志は「自由な原因」ではない。それは「強制された原因」である 09。すなわち、私が何ごとかをなすのは、 何ごとからも自由な 自発的意志によってではない。いかなる物事にも、それに対して作用してくる原因があるのだから、意志についてもそれを決定し、何ごとかを志向するよう強制する原因がある。人々がそのことを認めようとしないとすれば、それは、彼らが自分の行為は意識しても、 行為へと決定する原因のことは意識していない からに過ぎない 10。  こうしてスピノザは簡潔かつ説得的に、「行為は意志を原因とする」という考えを斥けた。
何かがこの区別を、われわれの思考のなかに効果として発生させている。何がこれを発生させているのか?
しかし、同じくバンヴェニストが指摘しているように、実は多くの言語が能動態と受動態という区別を知らない。それはいかなる言語にも見出される普遍的な区別ではないのだ。  それどころか、この区別を根底に置いているように思われるインド=ヨーロッパ語族の諸言語においても、この区別は少しも本質的なものではない。その歴史的発展において、かなり後世になってから出現した 新しい文法規則 であることが分かっている。
態に注目することでわれわれは、歴史を無視した構文の意味論的分析を避け、言語の歴史に注目できるようになる。
つまり、経験を分類するための普遍的な枠組みとして提示されているこれらの項目は、もしかしたら、アリストテレス自身が話していたギリシア語という言語の文法をそのまま反映したものかもしれないというわけだ。
われわれは、あらゆる動詞が能動態と受動態をもち、それらがいずれも過去や完了や現在や未来などの時制に活用するという漠然としたイメージをもっている。しかし、少なくとも完了時制はそのイメージに 抗う。「完了はギリシア語の時制体系に収まりきらない 37」。  つまり完了は、時制であるにもかかわらず、 態の区分に干渉する ということである。そして、そのような特別な地位をもつ時制である完了が、中動態と深い関係をもつ。
つまり、これら四つは、エネルゲイアとパトスの対立ではうまく説明できない、活用と意味とがズレた例である。したがって、それらをまとめるメソテースという名称は、規則に対する例外を名指しているというのがアンダーセンの解釈だった。
「エネルゲイア」と「パトス」という語が決して「能動」と「受動」をその第一義としないように、「メソテース」という語もまた「中動」をその第一義とはしない。それは一般に「中間的なもの」を意味し、有名なところではアリストテレスが言った「中庸」もメソテースである。また、ラロが指摘しているように、メソテースに対応する形容詞メソスは、古代ギリシアの言語学において、二項対立の図式に当てはまらないものを指すのにしばしば用いられた 42。
文法研究の歴史を見て分かるのは、文法を論じるという作業に伴う、想像をはるかに超えた困難である。  私たちは言語を使っている。だから、その言語の規則を知っているはずである。ところが、その規則を意識し、整理してみようとするとうまくできない。文法を論じるということは、自分たちが従っているにもかかわらず、完全に意識することはできない、そのような不思議な何かを相手にするということである。
能動態と受動態の対立を大前提としたうえで、それに収まらない第三項として中動態を取り上げるやり方が問題なのは、それがこの態を、不必要に特別扱いすることにつながるからである。それはしばしば神秘化の様相を呈する。特に哲学においてこの傾向は著しい 04。  哲学ではこの一〇〇年ほど、西洋近代哲学に固有の〈主体/客体〉構造が疑問視されてきたという経緯があるため、この構造を能動/受動の文法構造に重ねつつ中動態を称揚するという事例が散見される。
中動態が能動態との対立においてその意味を確定していたのならば、まったく同じように、能動態もまた中動態との対立においてその意味を確定していたはずである。だとしたら、中動態と対立していたときの能動態を、現在のパースペクティヴにおける能動態と同一視してはならないことになる。中動態を定義するためには、中動態と対立していた能動態も定義し直さなければならないはずだ。
哲学的な言い方をするならば、バンヴェニストだけがここで、カントの言う意味で「超越論的」である。バンヴェニストは、われわれが経験する物事だけでなく、われわれが物事を経験する際の 条件そのもの を問うている。
能動と受動の対立においては、 するかされるかが問題になるのだった。それに対し、能動と中動の対立においては、主語が過程の 外にあるか内にあるかが問題になる。
「希望する(エルポマイ)」はどうだろうか? われわれは希望しようと思って希望するのではない。不確かである未来に、しかし期待せざるをえないとき、主体(主語) をその座として希望するという過程が発生する。
中動態と対立するところの能動態においては──こう言ってよければ──主体は 蔑ろにされている。 「能動性」とは単に過程の出発点になるということであって、われわれがたとえば「主体性」といった言葉で想像するところの意味からは著しく 乖離 している。インド=ヨーロッパ語では、「存在する」も「生きる」も、「主語から出発して、主語の外で完遂する過程」だったと考えられるのである。
この過ちを繰り返さないために、「中動態」という古語が残り続けねばならない。誤解の歴史を身にまとった「中動態」という古名が使われ続けねばならない。「内態と外態」というクリアーな分類を受け入れて分かった気になってはならない。そのクリアーな分類を受け入れて満足することは、中動態の歴史を考えまいとすることである。
- 問いの編集力
そこでは主語が過程の外にあるか内にあるかが問われるのであって、意志は問題とならない。すなわち、能動態と中動態を対立させる言語では、 意志が前景化しない。
ある単語の不在は、 出発点ではなくて結果 である。たとえば、「オオカミ」という単語をもたない言語があるとすれば、それはその言語の使い手たちが、 オオカミを特別に認識する必要をもたなかったからに過ぎない。認識の必要だけでなく、さまざまな事例ごとにさまざまな事情があるだろう。それは個別に検討してみなければ分からないことである 27。
つまりアレントによれば、未来が未来として認められるためには、 未来は過去からの帰結であってはならない。未来は過去から切断された絶対的な始まりでなければならない。そのような真正な時制としての未来が認められたとき、はじめて、意志に場所が与えられる。 始まりを司る能力、何ごとかを始める能力の存在が認められることになる。
責任を問うためには、この選択の開始地点を確定しなければならない。その確定のために呼び出されるのが意志という概念である。この概念は私の選択の脇に来て、選択と過去のつながりを切り裂き、選択の開始地点を私のなかに置こうとする。
選択がそれまでの経緯や周囲の状況、心身の状態など、さまざまな影響のもとで行われるのは、考えてみれば当たり前のことである。ところが抽象的な議論になるとそれが忘れられ、いつの間にやら選択が、絶対的な始まりを前提とする意志にすり替えられてしまう。過去から地続きであって 常に不純である他ない 選択が、過去から切断された始まりと見なされる 純粋な 意志に取り違えられてしまうのだ。
選択は無数の要素の影響を受けざるをえず、意識はそうした要素の一つに過ぎないとしたら、意識は決して万能ではない。しかし、それは無力でもない。
- 嘘と無意味の間の言い換えになってる
自発的と非自発的の区別は、不正をはたらくことと正しきを行うことの区別に、すなわち、いかなる行為が非難され、また賞賛されるべきかを明確にすることに役立つ 25。アリストテレスによれば、自発的行為のみが非難と賞賛に値する。まったく意図せずに偶然に善行をなしたとしても、それは賞賛されるに値しない。
- 刑法の行為と結果みたいそうか、ここから責任に繋がっているいくのか
フーコーの権力論はそれまで支配的であったマルクス主義的な権力観を一変させたと言われている 32。これは、フーコーが権力を抑圧によってではなく、行為の産出によって定義したことによるものだ。  ごく大雑把に言うならば、マルクス主義的な権力観においては、権力は「国家の暴力装置」と同一視されていた。暴力を独占している階級や機構が大衆を抑えつけている、その有り様がボンヤリと「権力の行使」と名指されていたのである。  それに対しフーコーは、権力は 抑えつけるのではなくて、 行為させる と考えた。  たとえば工場で労働者が、軍隊で兵士が、学校で生徒が、 然るべき仕方で行為させられている。その意味で権力は、「抑圧」のような消極的なイメージでは 捉えきれないのであって、「行為の産出」という積極的なイメージで語られねばならないというわけだ。  したがってフーコー権力論の特徴の一つを、権力と暴力の明確な区別に求めることができるだろう。マルクス主義的な権力観では、それらが 曖昧 に重ねられていた。フーコーは次のようにはっきりと、権力と暴力を区別する。
つまり、 権力は相手の行為する力を利用するが、 暴力は行為する力そのものを抑え込む。
では、権力関係においては、権力を行使する側と行使される側の関係はどうなっているか?  ここで注意しなければならないのは、権力関係において権力を行使 される 側にいる者は、 ある意味で能動的 だということである。権力を行使 される 側は、行為 する のであるから。「権力の関係においては、行為者に多少なりとも「能動性」が残されている 35」。
こう考えると、暴力には大きな限界があることが分かる。暴力は相手の身体を押さえ込み、受動性の極に置く。したがって、そこからは行為を引き出すことができない。言い換えれば、「暴力の行使それ自体によっては服従を獲得できない 39」。服従を獲得するためには、暴力は行使可能性のうちに留まっていなければならない。
権力と暴力が混同されがちであるのは、権力がしばしば暴力を利用するからである。暴力が行使可能性に留まりつつも効力を発揮するためには、権力を行使される相手がその暴力の恐ろしさを理解していなければならない 40。したがって権力は、暴力の恐ろしさを理解させるために、暴力を 限定的 に用いることがある。
しかし、 強制はないが自発的でもなく、 自発的ではないが同意している、そうした事態は十分に考えられる。というか、そうした事態は日常にあふれている。それが見えなくなっているのは、自発か強制かという対立で、すなわち、能動か受動かという対立で物事を眺めているからである。
動詞を「個体化された行為者」と結びつけたがる今日のわれわれの意識では、こうした文は例外のように思われるが、〈名詞的構文〉から発展した動詞の最初期にあったのは、このような言い回しであったということである。動詞はもともと、 行為者を指示することなく動作や出来事だけを指し示していた。
このような人称の歴史はその名称がもたらすある誤解を解いてくれる。動詞の非人称形態が後に「三人称」と呼ばれることになる形態に対応することを考えると 16、一人称(私) や二人称(あなた) の概念は動詞の歴史において、後になってから現れてきたものだということになる。 「私」に「 一人称」という名称が与えられているからといって、人称が「私」から始まったわけではない 17。「私」(一人称) が、「あなた」(二人称) へと向かい、さらにそこから、不在の者(三人称) へと広がっていくというイメージはこの名称がもたらした誤解である。
ギリシア語やラテン語などの古典語は西洋の人文学の基礎として大きな権威をもっており、人類が築き上げた一文明にとっての揺るぎなき起源のようにイメージされることも多い。しかし、実際にこれらを学んだ人間にはすぐに分かることだが、ギリシア語にせよラテン語にせよ、大きな変化の流れのなかで生成変化しつつあった言語である。
名詞的構文の時代、動作は単なる出来事として描かれた。そこから生まれた動詞も、当初は非人称形態にあり、動作の行為者ではなくて出来事そのものを記述していた。  だが動詞は後に人称を獲得し、それによって、動詞が示す行為や状態を主語に結びつける発想の基礎がそこに生まれる。とはいえ、動詞がその後に態という形態を獲得した後も、動詞と行為者との関係については、動作プロセスの内側に行為者がいるのか、それともその外側にいるのかが問われるに留まっていた。そこにあったのは能動と中動の区分だったからだ。  だがその後、動詞はより強い意味で行為を行為者に結びつけるようになる。能動と受動の区別によって、行為者が自分でやったのかどうかが問われるようになるからだ。
私の身体のもとで、「歩く」という過程が実現されるためには、実に多くの要素が協働しなければならないのだった。どの要素が欠けても「歩く」という過程は実現されない。この過程には実に多くの要素が参与している。  ところが、能動と受動を対立させる言語は、行為にかかわる複数の要素にとっての共有財産とでも言うべきこの過程を、もっぱら 私の 行為として、すなわち、 私に帰属するもの として記述する。やや 大袈裟 に、 出来事を私有化する と言ってもよい。「する」か「される」かで考える言語、能動態と受動態を対立させる言語は、ただ「この行為は 誰のものか?」と問う。  ならば次のように言えよう。中動態が失われ、能動態が受動態に対立するようになったときに現れたのは、単に行為者を確定するだけではない、行為を行為者に帰属させる、そのような言語であったのだ、と。 出来事を描写する言語 から、 行為を行為者へと帰属させる言語 への移行──そのような流れを一つの大きな変化の歴史として考えてみることができる。
ところが不思議なことに、自動詞表現と受動態表現という兄弟関係にある表現を、われわれが現在用いている能動対受動の対立図式のなかに持ち込むや、とたんにこれら二つの表現は、 能動態と受動態として対立してしまう。たしかに、"I appear" は能動態で、"I am shown" は受動態だからである。  この事実は、能動対受動の対立図式がどれほど行為の帰属という観点に取り 憑かれているかを実に分かりやすく示すものである。もともと大差のない表現であるにもかかわらず、「その行為を誰に帰属させるべきか?」という問いが作用するや、両者は対立させられる。同じ しぐさ が、行為の帰属をめぐる尋問を受けると、 自発的に姿を現したのか、何かによって姿を現すことを 強制 されたのか、どちらかを選ばねばならなくなる。
現代英語においても、受動態で書かれた文の八割は、前置詞byによる行為者の明示を欠いていることが、計量的な研究によってすでに明らかになっている 29。つまり、ほとんどの受動態表現は能動態表現に転換不可能だということである。
これは完全な憶測である。しかし、学問にはしばしば憶測が必要である。生物の進化の過程は常に、見つかった化石と化石の間を憶測しながら解明されていく。憶測の度合いが極端にならざるをえない「ミッシング・リンク」でさえ、学問はこれを論じようとする。ならば、憶測であることを強調したうえで、このような仮説を提示することも許されよう。
ここで注意せねばならないのは、こうした構文の存在をもって「英語にも中動態がある」と主張してしまっては、中動態をめぐる諸問題には接近できなくなるということである。そのような主張には、ある時点での言語状態を取り上げて、それを一つの完結した体系として描き出すことができるとする言語観が透けて見える。言語を均衡のとれた体系として見ていると言ってもよい。  言語は不均衡な体系である。言語は常にさまざまな要求に対応しながら、抑圧と矛盾を抱えつつ運用されている。人の心や社会と同じである。だから、矛盾が甚だしくなれば、抑圧に対する反発が強くなることもある。
この回帰は日常的な言語が中動態の抑圧に 密やかに反抗しつつあることの証拠である。実はこの抑圧に敏感に反応していた知的な営みがある。それが哲学である。「中動態」という切り口から大々的に言語を論じた哲学というのは存在しないのだが、「する」と「される」、能動と受動に支配された言語への違和感は陰に陽に、少なからぬ哲学者によって表明されてきた。
ときに哲学は「プラトン主義」の別名と 捉えられ、「哲学史はプラトンの本の余白に書き込まれた注釈に過ぎない」(ホワイトヘッド) などとも言われた。
意志は絶対的な始まりであることを主張する。いや、そう主張していなくとも、そうでないならば意志は意志ではありえないのだった。だが、そのような絶対的な始まりがありうるとはとても思えない。「意志が始まりを所有したことなどあったためしがない」。  にもかかわらず人はそのような意志をもとうとする。そのとき、いったい何が起こるか? そこに起こるのは「過去の忘却」である。  意志しようとするとき、人は過ぎ去ったことから目を背け、歴史を忘れ、ただ 未来だけを志向 し、何ごとからも切り離された 始まりであろうとする。そうして思考はそのもっとも重要な活動を奪われる。アレントがわざわざドイツ語で──しかも接頭辞を強調するためにハイデッガー風にハイフン付きで──記したAndenken、すなわち回想を奪われるのだ 12。
ハイデッガーはつまり、 意志することは忘れようとすることだ と述べている。
【引用】人は意志するとき、ただ未来だけを眺め、過去を忘れようとし、回想を放棄する。
一言で言えば、意志は過ぎ去ったこと、あるいは歴史に対して「敵意Widerwille」を抱くことになる。しかし敵意を抱くことは不快なことであって、結局「意志は自己自身に苦悩する」ことになる。  ハイデッガーはこのような意志そのものに巣くう「敵意」こそ、ニーチェの言う「 復讐 Rache」の本質であるとすら述べる。ハイデッガーは 意志することは憎むことであり、 復讐心を抱くことだ とまで述べるのである。
たとえば「雨が降る」という出来事を、大気というこの存在のなかにどう位置づけたらよいだろうか? 大気は不断の変化を続けているのであり、そこに「雨が降る」という命題で名指せるような何かが見出されるのは、あくまでもある一定の視点──人間的な──に立った場合のことに過ぎない。ここから、表層で起こる変化は二次的なものであって、変化がその上で起こるところの「実体」をこそ考察の対象としなければならないとする哲学的思考が生まれる。  ごく大雑把に言えば、この系統の考え方に属するのが、プラトンやアリストテレスの哲学である。 「アリストテレスにおいてはあらゆるカテゴリーは存在との関連で言われるのであり、そして、存在のなかの差異は、 第一義としての実体 と、それに 偶有性として関係づけられるその他のカテゴリー との間に走っている 29」。  この考え方においては、実体を名指す名詞こそが特権的な地位に置かれる。名詞によって名指される実体に、形容詞によって名指される性質が付与され、それが動詞によって名指される運動を担うという構図になる。
すなわち、「動詞が名詞に先行している」というのは、端的に論理と歴史の混同、「可能にする」と「開始する」の混同に基づく間違いである。
ラテン語では、受動態が受動の意味よりもむしろ自動詞的な意味、すなわち中動態の意味をもつことがあり、これはしばしば「中動態的受動態」と呼ばれる。たとえば、「時代は変わる」を意味する "Tempora mutantur" という文において、動詞mutoは受動態に活用しているのだが、これを「時代が変えられる」とは翻訳しない。とはいえ、時代は変わると同時にたしかに変えられてもいるし、変わることが自らに影響を与えてもいる。つまりそこには単に変化していくという過程だけがある。
われわれの「活動能力potentia agendi」や「思考能力potentia cogitandi」を高める感情をスピノザは「喜びlaetitia」と呼び、それらを低める感情を「悲しみtristitia」と呼んでいる(第三部定義三、定理一一、感情の定義一~三)。『エチカ』ではさまざまな感情が詳細に分析されているが、いかなる感情もこのどちらかに分類できるというのがスピノザの考えである。感情は欲望としてわれわれを決定する。そしてその決定には喜びと悲しみの二つの方向があるということだ。
この定理はわれわれが〈変状する能力〉と定義した本質を、別の角度から説明したものとして読むことができる。すなわち様態の本質は力であり、その力は自らを維持するように働いていて(コナトゥス)、それが外部からの刺激に応答するときには変状を 司るのである(〈変状する能力〉)。
この本質概念をドゥルーズは実にイメージ喚起的な仕方で説明している。スピノザによれば、農耕馬と競走馬との間には、農耕馬と牛との間よりも大きな相違があることになるだろうとドゥルーズは言っている 27。  本質を不変不動の形態として捉える伝統的な哲学の考え方に従うならば、農耕馬だろうと競走馬だろうと、馬は馬であり、牛とは何の関係もない。だが、スピノザ哲学からは牛も馬もまったく違ったように見えてくるのだ。農耕馬の〈変状する能力〉は競走馬のそれとはまったく異なり、むしろ同じ農耕の場で働いている牛のそれに似ているだろう。  形態だけを取り上げる本質概念は抽象的である。それに対し、〈変状する能力〉から捉えられたスピノザ的本質概念は具体的である。ここにはまったく新しい分類学の思想がある。
この定式こそスピノザの考える能動と受動に明快な説明を与えてくれるものだ。  われわれの変状がわれわれの本質によって説明できるとき、すなわち、 われわれの変状がわれわれの本質を十分に表現しているとき、われわれは能動である。逆に、その個体の本質が外部からの刺激によって圧倒されてしまっている場合には、そこに起こる変状は個体の本質をほとんど表現しておらず、外部から刺激を与えたものの本質を多く表現していることになるだろう。その場合にはその個体は受動である。  一般に能動と受動は行為の方向として考えられている。行為の矢印が自分から発していれば能動であり、行為の矢印が自分に向いていれば受動だというのがその一般的なイメージであろう。それに対しスピノザは、能動と受動を、 方向 ではなく 質の差 として考えた。
われわれはどれだけ能動に見えようとも、完全な能動、純粋 無垢 な能動ではありえない。外部の原因を完全に排することは様態には叶わない願いだからである。完全に能動たりうるのは、自らの外部をもたない神だけである。  だが、自らの本質が原因となる部分をより多くしていくことはできる。能動と受動はしたがって、二者択一としてではなくて、度合いをもつものとして考えられねばならない。われわれは純粋な能動になることはできないが、受動の部分を減らし、能動の部分を増やすことはできる。
スピノザはいかなる受動の状態にあろうとも、それを明晰に認識さえできれば、その状態から脱することができると言っている(第五部定理三)。
- 認知しただけで変わる
他人から 罵詈雑言 を浴びせられれば人は怒りに震える。しかし、スピノザの言う「 思惟 能力」、つまり考える力を、それに対応できるほどに高めていたならば、人は「なぜこの人物は私にこのような 酷いことを言っているのだろうか?」「どうすればこのような災難を避けられるだろうか?」と考えることができるだろう。そのように考えている間、人は自らの内の受動の部分を限りなく少なくしているだろう。  他人の能力や実績を見て、ねたんでしまったときも、「どのようにして自分はこの人物をねたむに至ったのか?」と問いうるほどに思惟能力を高めていれば、ねたみに占領されてしまった変状に変化をもたらすことができるだろう。  この意味では、罵詈雑言を浴びたらそのまま怒りに震えるとか、他人の高い能力やすぐれた実績を見たらそのままねたむといった、変状の 画一的な 出現を避けることがスピノザの『エチカ』では一つの大きな課題となっていると言ってもよい。
- 真に取り扱いたいのはこういうことかも
スピノザはいわゆる自由意志を否定し、人がそれを感じるのは自らを行為へともたらした原因の認識を欠いているからだと説いた。
スピノザによれば、自由は必然性と対立しない。むしろ、自らを貫く必然的な法則に基づいて、その本質を十分に表現しつつ行為するとき、われわれは自由であるのだ。ならば、自由であるためには自らを貫く必然的な法則を認識することが求められよう。自分はどのような場合にどのように変状するのか? その認識こそ、われわれが自由に近づく第一歩に他ならない。だからスピノザはやや強い言い方で、いかなる受動の状態にあろうとも、それを明晰に認識さえできれば、その状態から脱することができると述べた。
人は必然的な法則に 囚われたときに不自由となって強制の状態に陥るのではない。自らの有する必然的な法則を踏みにじられているときに強制の状態に陥る。だから自由や強制は変状の質の差として考えられねばならないのである。
自由を追求することは自由意志を認めることではない。中動態を論ずるなかでわれわれは何度も、自由意志あるいは意志の存在について否定的な見解を述べてきた。もしかしたらその論述は読者に「自由」に対する否定的な見解を抱かせたかもしれない。  だが自由意志や意志を否定することは自由を追い求めることとまったく矛盾しない。それどころか、自由がスピノザの言うように認識によってもたらされるのであれば、自由意志を信仰することこそ、われわれが自由になる道をふさいでしまうとすら言わねばならない。その信仰はありもしない純粋な始まりを信じることを強い、われわれが物事をありのままに認識することを妨げるからである。  その意味で、われわれが、そして世界が、中動態のもとに動いている事実を認識することこそ、われわれが自由になるための道なのである。中動態の哲学は自由を志向するのだ。
アダムは歴史を欠いた存在である。エデンの園の時間は止まっている。ビリーの境遇もそれに似ている。彼は私生児であり、その出自が分からない。だがビリーはアダムとは違い、現実の社会、現実の歴史のなかを生きている存在である。彼はやはり誰かから生まれたのである。
嫉妬とはある人の愛情が自分ではない別の人間に向けられることに対する憎しみであり、常に第三者がかかわっている。そして第三者がかかわっているがゆえに、この第三者さえ取り除かれれば(少なくとも 暫定的には) 嫉妬は消える。  それに対し、ねたみは自分自身にかかわっている。その意味でねたみはより根源的である。
しかし彼はその愛に従うことができない。誰かからそのように命じられたのではない。どうしても彼の本性がその愛に従うことを許さない。彼のなかの何かが愛に従うことを許さない。美しいものを愛し、その愛に素直に従って生きる。そんな当たり前のことをクラッガートは許されずに生きている。愛はねたみへと変換され、ねたみは燃えさかるような敵対心を生み出す。クラッガートにもわれわれ読者にも、どうしてそれが彼の宿命であるのか、その理由は分からない。
- 箱
スピノザはねたみの感情を解説して、何人も自分と同等でないものをねたみはしないと言っている(『エチカ』第三部定理五五系)。 「この人は私とは違う」「この人は私よりも、もともとすぐれている」と思う人物のことを人はねたんだりしない。「こいつにこれができるのなら自分にだってできてもいいはずなのに」「あいつがそうであるのなら、自分だってそうであってもいいはずなのに」と思える人物のことを人はねたむ。ねたみは比較と切り離せないのであって、比較できないもの、たとえば自分とは格が違う人物に対しては人はそのような感情を抱きはしないのだ。
言い換えれば、ねたんでいるとき、人は相手に自分を見ている。
ある。『ビリー・バッド』という小説はテーゼを提示しているというよりも、テーゼが選択されるにあたっての 諸々 の条件、コンテクストを周到に提示しているということだ。
すなわち、読解は歴史というコンテクストによって決定されるのであって、どの読解がアプリオリに正しいと言うことはできない。ジョンソンによれば、先例や歴史的状況を参考にしながら判断を下すヴィアは、読者による読みが歴史のなかで決定される様についてのアレゴリー( 比喩) に他ならない。
こうして然るべき参照の枠組みを決定することが、まさに決意の成り行きを決めている。
「人間は自分自身の歴史をつくる。だが、思うままにではない。自分で選んだ環境のもとではなくて、すぐ目の前にある、与えられた、持ち越されてきた環境のもとでつくるのである」。
歴史は人間が思ったようにつくり上げたものではない。だが、それは人間がつくった歴史と見なされる。ここにこそ、歴史と人間の残酷な関係がある。人間が参照の枠組みを選んだことなど一度もない。人はすぐ目の前にある、与えられた、持ち越されてきた参照の枠組みのもとで判断を下すほかないのである。
これは言い換えれば、善と悪には、人間の社会で通用しうる、そして通用している規範には閉じ込められない 過剰さがあるということに他ならない。  その過剰さを知っている人ならば、善が徳に背く場合があることをわきまえているだろう。あるいは、悪徳と言われているものが善の機能を果たす場合があることも。しかしこの過剰さを知らない人、この過剰さに目を向けようとしない人は徳に絶対的な善の役割を与えようとする。そのとき、一般的に通用しうる、そして通用している規範は、一つの通念に過ぎないにもかかわらず絶対性を手にすることになる。人々の同意を根拠とする徳が、人々の同意を必要としない善の性質を身にまとう。相対的なものでしかあり得ないはずの徳が、絶対的な地位を獲得する。
- り んざいかんてき把握
善は過剰である。過剰であるがゆえに、それは悪を暴力的に排除する。そしてまた、過剰であるがゆえに、悪徳を批判しながら徳に従って生きようとする 市井 の人にはその意味が理解できない。「
アレントは以上を次のようにまとめる。「悲劇は、法律は人間のためにつくられているのであって、天使や悪魔のためにつくられたのではないという点にあった 20」。法は悪徳を罰しようとするが根源的な悪はそれをすり抜けてしまう。自然的な善は徳に対して無配慮であるから、徳とともにあらんとする法はこれを罰せねばならない。
完全に自由になれないということは、完全に強制された状態にも陥らないということである。中動態の世界を生きるとはおそらくそういうことだ。われわれは中動態を生きており、ときおり、自由に近づき、ときおり、強制に近づく。
われわれはおそらく、自分たち自身を思考する際の様式を根本的に改める必要があるだろう。思考様式を改めるというのは容易ではない。しかし不可能でもない。たしかにわれわれは中動態の世界を生きているのだから、少しずつその世界を知ることはできる。そうして、少しずつだが自由に近づいていくことができる。これが中動態の世界を知ることで得られるわずかな希望である。
その理由は自分でもうまく説明できないのだが、おそらく私はそこで依存症の話を詳しくうかがいながら、抽象的な哲学の言葉では知っていた「近代的主体」の諸問題がまさしく 生きられている 様を目撃したような気がしたのだと思う。「責任」や「意志」を持ち出しても、いや、それらを持ち出すからこそどうにもできなくなっている悩みや苦しさがそこにはあった。
ただ、本書を書くにあたってはもう一つ大切にしていたことがあった。それは中動態をイメージのままにしない、しかし同時にイメージを大切にするということである。
本を書く作業には断念のフェーズがつきものであり、少なくとも私は執筆中、一度は必ず「この本はこのままでは完成しない。このあたりでお茶を濁して出版してしまおう」と思ってしまう。このフェーズを突破できたのは白石さんの信念があったからである。信念には、一人でそれを守るのは非常に困難であるのに、誰かと共有するとむしろ信念の方が自分たちを守ってくれるようになるという奇妙な性質がある。この本は白石さんと私の信念の共有によって守られて出版を迎えたのである。
本書の副題では「意志」と「責任」の二つの語が並んで用いられているが、両者は本書の構想において、全く異なる地位を与えられている。本書は意志の概念を批判した。だが、それは責任の概念を 蔑ろにすることを意味しない。全く逆である。責任の概念はわれわれが絶対に必要とするものである。にもかかわらず、そのような価値ある概念が、意志のような不出来な概念によってしか呼び出されないことを本書は批判したのである。
加害行為を例としたこの責任の説明は、刑法の分野と関わるものだが、近代法は意志概念のフィクション性など既に織り込み済みで組み立てられているからである。「あたかも行為者が選択肢Aと選択肢Bを自らの意志で自由に選択することができたかのように」考えるというのは、近代法の一つの前提である。
「責任」はどこか息苦しい、出来れば避けたいものというニュアンスをもって受け止められている。しかし、逆だ。責任のある世界は、人が人に応答する世界である。自分の振る舞いに誰かが答えてくれる世界であり、他人の振る舞いに自分が答える世界である。自分に応答能力を感じ、周囲の人びとにもそれを感じる世界、それが責任のある世界だ。
#📚本棚
/icons/hr.icon
#2025/07/05
國分功一郎
https://www.amazon.co.jp/dp/4101035423/
https://gyazo.com/059ebc8f3e35380f969313c9218feeb9