『ワイズカンパニー 知識創造から知識実践への新しいモデル|野中郁次郎/竹内弘高』
ワイズカンパニー―知識創造から知識実践への新しいモデル
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Highlights & Notes
> 『知識創造企業』の出版は、経営学者の間に「ナレッジ(知識)ブーム」を巻き起こし、やがてナレッジマネジメントという新しい分野も生み出した。一九九〇年代半ばまで、主流の組織論や研究では「情報」に重点が置かれていたが ★ 4、われわれは「知識」に着目し、組織やコミュニティにおいて、イノベーションの力学がどのように築かれているかを解き明かそうとした。ナレッジブームは、学術分野としてのみならず、企業の機能としても発展を遂げた。ナレッジマネジメントは現在、マネジメントの研究と実践の両方で、主要なテーマの一つと見なされている ★ 5。
> 前著では、知識が情報やデータと似たものでありながら、それらとはどこが違うかを論じた。情報と違って、知識には「信念」や「積極的な関与(コミットメント)」が深くかかわっている。知識は当人の価値観や、倫理観や、道徳観によって形作られるものだ。また情報と違って、知識は「行動」とも切り離せない。知識には必ず、何らかの用途や目的がある(例えば、イノベーションの材料にするなど)。さらに知識には、データや情報とは違い、常に「意味」が伴う。文脈のない知識はないし、他者やものとの関係を持たない知識もない。
> 「共同化」は,日常の社会的な交流を通じて,経験が共有されることで,新しい暗黙知が築かれる過程.「
> 第一には、正しい種類の知識が利用されていないということ。『知識創造企業』で指摘したように、知識には暗黙知と形式知の二種類がある(この二種類の知識についておさらいしたい方は、本章の最後に付した補論をご覧いただきたい)。企業の幹部陣がえてして頼ろうとするのは、形式知(言葉にでき、計量でき、一般化できる知識)のほうである。ウォール街では、融資を一件ずつ検討するより、数字や、データや、分析や、科学的な公式を使うほうが、大きなリスクを管理しやすいと信じられている。
> 形式知を頼みにする企業は、変化に対処できない。理論を優先させた科学的で、演繹的な手法では、世界は文脈に依存しないと仮定され、普遍的な答えが探られる。しかし社会現象(そこには経営や企業も、もちろん含まれる)は文脈に依存している。人々の主観的な目標だとか、価値観だとか、興味だとか、あるいは、それらの相互依存的な関係だとかを考慮しなければ、社会現象の分析は何の役にも立たない。ところが、経営者たちはそういうことを考慮していない。
> マネジャーは自らに次のように問わなくてはいけない。自分はどういう未来を創造したいのか、と。本章でのちほど詳しく論じるが、インサイド・アウトのアプローチによる戦略の研究によれば、企業の根本的な差は、思い描かれる未来像の違いから生まれる。企業のトップが実現したいと望む未来は、主観的な目標や、信念や、関心に根差しているべきである。その目標の下に全社員が団結して、互いの間に社会的な関係を築かなくてはいけない。社員一人一人が感覚や、気持ちや、見方を互いに共有し、自分が置かれている文脈を直観的に理解して、それに応じた適切な行動を取れるようにしなくてはならない。
> 何より肝心なのは、未来の創造では自社が儲かりさえすればそれでよい、という発想はやめなくてはいけないということである。未来の創造とは、公益の追求でなくてはならない。マネジャーは自社にとってだけではなく、社会にとって善であるかどうかを熟慮して、判断を下すことが求められる。経営はより高次の目的にかなうものでなくてはならない。そうすることで初めて、企業は社会的存在(社会に永続的な恩恵をもたらすという使命を帯びた存在)であるという自覚が芽生える。ひいては、人類の現状を改善するという社会科学の本来の意義を取り戻すこともできる。
> 過去に類例のないほどダイナミックで不安定な今の世界には、賢明な変革者の役割を果たせるワイズリーダーが求められる。それは何事にも文脈があることを踏まえて判断し、あらゆるものが変わることを踏まえて決定を下し、どんなことも成否はタイミングに左右されることを踏まえて行動を起こすリーダーである。ワイズリーダーは、社会にとって何がよいか、何が適切か、何が公正かを見きわめると同時に、絶えず変わり続けるビジネスの現場の状況も熟知していなくてはならない。したがって、細かいところまで目を配るマイクロマネジメントと、将来の大局的な構想の両方が必要になる。
> 知恵は高次の暗黙知であり、ものの本質を見抜くことを可能にする(だから、「ミステリアス」に見える)と同時に、変化の激しい世界に対処することを可能にする(だから、とても「ダイナミック」に見える)。
> 藤野のプラグマティズムは、ホンダの航空機部門の責任者となったことで、いっそう顕著に発揮された。たとえば、開発チームの編成を、業界平均の三分の一から四分の一という小規模なものにした。チームの人数が少なければ、エンジニア全員がスペシャリストとゼネラリストの両方を兼ねなくてはならないので、おのずと問題解決のサイクルが速まるというのが藤野の考えだった。  同じように、一つの格納庫内で、飛行機の胴体とエンジンの両方の開発に取り組んだ。そうすることでチームが「森と木」を同時に見られ、最適な解決策を見つけやすくなった。
> 第二の課題は、理論と実践の隔たりを埋めることである。西洋の学者にはプラトン以来、理論どおりにならないことは、現実の側に何らかの問題があるはずだと考える傾向が見られる。われわれの考えはそれとは真逆である。われわれはむしろ自分たちの理論的なフレームワークが不完全であるせいだと積極的に認めたい。
> ここで注意してほしいのは、この二つの知識の違いは、あくまで程度の違いであり、両者は別個のものではないことである。二つの知識はそれぞれひとつながりのものの別の側面を表している。暗黙知という膨大な知識の氷山の一角として見えているのが、形式知である(図1‐1)。マイケル・ポランニーが言うように、「知識はすべて暗黙知か、暗黙知に根差したものかのどちらかである ★ 38」。
> 日本のマネジャーにとって、現実は、止むことなき流れの微妙に変わり続けている状態の中、目に見える具体的なものの中にある。現実を永遠不変の、目には見えない、抽象的なものと考える西洋の支配的な世界観とは異なる。日本のマネジャーは自然や他の人間との物理的または身体的な相互作用のうちに現実を見る。そういう現実の見方は、人間と自然は一つである(主客一体)、体と心は一つである(心身一如)、自己と他者は一つである(自他統一)と説いてきた日本の知的伝統とつながっている。
> しかし、このように何度も述べておいたのだが、われわれの知識創造の理論はもっぱら日本の知的伝統、とりわけ西田幾多郎の哲学に基づくものだと受け止められた。J・C・スペンダーは『知識創造企業』の貢献について評価した最近の論文で、次のように書いている。「彼(野中)の立場は、日本の哲学、特に、二〇世紀の日本最大の哲学者、西田幾多郎(一八七〇‐一九四五年)の哲学に根差している」  さらに、この指摘は次のように続く。「野中の知識創造や学習についての直観は、西田の行為に基づく認識論から出てきたものだ。西田の認識論は、知識は思惟のみによって創造されると考える西洋の見方とは対立する ★ 2」  前著の刊行から二五年の間に、われわれはさらに深く西洋の認識論を研究してきた。その結果わかったのは、知識創造に関しては、スペンダーの指摘は正しいが、知識実践に関しては、あれかこれかという二項対立の図式はやはり当てはまらないということである。実際、「知識実践とは何か」や「知識はどのように実践されるか」についての根本的な考え方には、東西の文化間にいくつもの共通点が見出される。
> アリストテレスがフロネシスの他に挙げている二種類の知識は、エピステーメー(普遍的に通用する科学的な知識)とテクネー(スキルに基づいた技術的な知識)である。価値判断を含むフロネシスと違って、エピステーメーとテクネーは客観的で知的な徳(アレテー)となる。エピステーメーは事実に関する知識であり、普遍的な原則 ★ 4 に基づくとともに、既存の知識に根差している。テクネーは「ものを生み出す」知識、あるいは別の言い方をするなら、自然には生じないものを生じさせようとする知識である。
> エピステーメーが「なぜを知る」知識、テクネーが「いかにを知る」知識だとすれば、フロネシスは「何をなすべきかを知る」知識といえる。フロネシスでは具体的な時と場合、社会にとってよいことや正しいことは何かが考慮される。
> 本節の冒頭で、知識実践の起源はフロネシスにあると述べた。なぜそういえるのか。それは『ニコマコス倫理学』を注意深く読むと、アリストテレスがそのように考えていたと思える理由がいくつか見つかるからである。  第一には、フロネシスは、「行動」を起こすことにかかわるものであると言うこと。言うまでもなく、行動のない実践はない。  第二に、フロネシスはその場に固有の状況、言い換えるとその場の「文脈」にふさわしい最適の行動を取ることにかかわるものであるということ。やはり言うまでもないが、現実は時とともに変わるものである。  第三には、フロネシスは「善」の行動を起こすことにかかわるものであるということ ★ 6。倫理的に優れた判断をするほうが劣った判断をするよりもよいことは明白である。  第四には、フロネシスは「目的」に合致した行動を起こすことにかかわるものであるということ。アリストテレスが指摘するように、目的は状況に応じて異なりうるが、高尚な目的ほど、社会のためになる。  以上から、フロネシスを理解するうえで鍵となる語は「行動」「文脈」「善」「目的」であることがわかる。ゆえに、われわれはアリストテレスのフロネシスという概念がわれわれの知識実践という考え方の土台になると確信したのである。
> 知識はすべて、 必然的に行動を伴う(「『知る人』は『行動する人』である ★ 23」とウィリアム・ジェイムズは述べた)。 文脈に基づく(知識を使うためには、知識と行動を結びつける複雑な文脈を読み取らなくてはいけない)。 目的を必要とする(明確な目的がなければ、いかなる知識からも実際的な意味を引き出せないと、ジョン・デューイは指摘した ★ 24)。
- 研修転移の促進要因になってる
> では、コンサートでモーツァルトの曲を弾くピアニストを例に、具体的にこのサイクルを見てみよう。ピアノを演奏するためには、曲全体との関係を知る他に、指遣いに関するさまざまな暗黙知も求められる。しかし演奏中、細部にばかり意識を向けていたら、つまり楽譜に記された指遣いの指示ばかり気にしていたら、いい演奏はできないだろう。  ステージに上がったピアニストは、指遣いのことは考えずにできる限り正確に指を動かしながら、演奏する曲自体に集中しなければならない。各指の最適な暗黙知を「モーツァルトの曲を弾く」という知識実践につなげるには、どこに気をつければよいかを自分で意識的に判断しなくてはいけない。その判断は、明確な目的意識(モーツァルトの曲で聴衆を感動させる)に導かれることで可能になる。このように、知識実践では、絶えずどこに意識を向ければいいかを意識的に判断し続けることが欠かせない。
> 最近の研究では純粋に合理的な思考でさえ、社会的な感情の影響を強く受けることが示されている ★ 53。一方、社会的な感情も、他者とかかわる感覚運動のプロセス(行動)によって形成されることが研究からわかっている ★ 54。これらの研究からいえるのは、社会的な状況における行動が共通の理解につながるということであり、したがって、行動をともにすることが相互主観性の実現の鍵となるということである。
- ダンバー数で似たようなこと言ってなかったっけ?
> これらの発見が示唆するのは、利他行動は高次の認知活動の結果というより、脳の内在的な仕組みに深く根差しているということである。
> ダーウィンの進化論の影響を受けたネルソンとウィンターは、ルーティンとサブルーティンを組織の遺伝子と見なし、次世代に受け継がれるものと考えた。ルーティン化された習慣があると、個別の状況に応じた有用な知識を使うことができ、それぞれの組織に固有の組織的知識を活かすことができる。
> ダガンによると、戦略的直観とは、「(論理的思考力と想像力の)両方の能力が、一人の知性の中で、大小のひらめきを通じて一つに組み合わさること ★ 70」という。
> ハイデガーの『存在と時間』では,哲学と科学がこれまでずっと「ある(存在する)」とはどういうことかを深く問わないまま,「あるもの(存在するもの)」に関心を向けてきたことが指摘されている.
> ハイデガーも,フッサールの現象学の基本的な前提に従い,人間は否応なくこの世界に投げ込まれている存在(被投性)だと考えた.
> 自分に備わった可能性を最大限に発揮するためには,この人間存在の究極の現実から目をそらさず,「いま・ここ」を生きる以外にないと,ハイデガーは論じる.確実に保証された時間は現在だけであり,それ以外の時間は保証されていないからである.
> から.演繹法は, はずである ことを証明するのみであり,帰納法は, 実際に 有効であることを明らかにするのみである.アブダクションは かもしれないこと を提示するのみである」(
> われわれは知識を次のように定義する。ある特定の状況や文脈において、他者や環境との相互作用を通じ ★ 1、人々によって創造され、実践される ★ 2、正当化された真なる信念 ★ 3。したがって、知識の創造と実践は社会的な営み ★ 4 になる。なぜなら、人は他者との相互作用を通じて、たいていは集団や社会の影響下で、知り、行動し、実践するからである ★ 5。
> その後、稲盛はアメーバ経営の原則に則り、JALを「アメーバ」と呼ばれる小集団に分けた。各集団は一〇人ほどのメンバーからなり、それぞれ収支の責任を負う。こうして三万人の従業員が三〇〇〇の小さな「チーム」に分けられ、各チームのリーダーがそれぞれ毎月、収益とコストの管理を担うことになった。
> 稲盛がかつて京セラでアメーバ経営の手法を取り入れ始めたのは、自身が創業したスタートアップ企業から起業家精神が失われるのを懸念したからだった。自社を小さな集団に分割して、それぞれ独立採算制にした理由について、稲盛は次のように振り返っている。  「私は個人の能力を引き出し、みんなが生きがいを持って働けるようにするには、どうしたらよいかを考えていました。思案の末、創業時に戻ればよいと思い当たりました。全員が経営者になる。ならば、全体を工程別、製品群別にいくつかの小さな組織に分け、それぞれが一つの中小企業のように経営を任され、独立採算で運営するのです。  その小集団は、固定したものではなく、一つ一つが環境の変化に適応して、自己増殖していくため、アメーバと名づけられるようになりました。(中略)  アメーバ経営では、好業績を上げても、それがすぐに給与に反映される仕組みにはなっていません。素晴らしい業績を上げたアメーバに対して与えられるのは、名誉と誇りです。みんなのために貢献したという満足感と、信じ合える仲間から寄せられる感謝や称賛こそ、人間が得られる最高の報酬なのです。(中略)  私のアメーバの考えは、社内の全員が参加し、従業員の間に信頼関係がなければ、うまく機能しません。最も大切なのは、全員が考えを共有し、同じ方向を向いていることにあります ★ 14」
> ミドルマネジャーたちは片言の英語しかしゃべれなかった。しかし手を真っ黒にし、しばしば地面に膝をついて製品の説明をすることで、現地の自転車店の人たちと親しくなった(共同化)。
> 一九六〇年代半ば、シマノの本社は一つの階に置かれていた。社長を含め、社内の全員が、同じフロアで仕事をしていた。財務部も、総務部も、生産部も、品質管理部も、その他の部門も全部、仕切りのないだだっ広い一つの部屋にあった。若い社員が試験部品を自転車に取りつけている横で、重役が国際電話をかけているという光景が日常的に見られた。この本社には情報交換の理想的な場が築かれていた(連結化)。
> つまり、それは誰もが自由に異なる視点や考え方を持ち込めるコミュニティである。知識の創造・実践のコミュニティは、気分や感情や思いを共有する「相互主観性」でつながった人々のグループからなる。企業のマネジャーや、幹部や、トップは従業員に対して、高次の目的を追求することを奨励するとともに、従業員が自分たちと同じように高次の目的を追求できるよう、その支えとなる文脈や価値観を共有、創造し、導き、教育することを求められる。開かれた相互主観性のコミュニティにおいてのみ、高次の目的の下に、SECIの上昇は促進される。
> 知識の創造・実践モデルのダイナミックな性質を理解するには、おもちゃの駒のたとえで考えるのがいい。駒は一定以上の速さで回転していれば、外部から衝撃が加わっても、重力に逆らってバランスを保っていられる。企業の場合、それは回復力を維持でき、持続可能であることを意味する。回転が止まれば、駒は倒れる。  それは企業にとっては、死を意味する。回転を続ける駒は、右や左に傾く。それは企業が「いま・ここ」の文脈や状況の変化に適応することを示している。駒の回転とは、企業でいえば「行動」のことである。駒を回転させ続けるには、回転の原動力である垂直の矢印、つまりフロネシスが欠かせない。
> 知識のスパイラルな上昇のためには、新参者にいつも開かれている知識の実践者のコミュニティが組織内に必要になる。
> 知識創造・実践企業におけるリーダーの役割は、信念や、哲学や、価値観を掲げるとともに、従業員が率先して、また安心して、自分の知識を口にし、みんなと共有しようとする環境を築くことにある。
> 吉田の考えでは、「巡環」の要をなすのは社員であり、社員は給料と賞与の一部を自社株の購入にあてるべきだとされた。その投資から利益が出れば、社員は配当という形で恩恵を受けられ、会社と社員間のお金の流れに好循環が生まれる。その好循環は顧客とビジネスパートナーを含んだより大きな流れの一部になる。
> それは理想論であって、現実にはそううまくいかないと思う人もいるかもしれない。しかし、本書でこれまで何度も繰り返してきたように、企業が理想主義的にならなければ、新しい未来は決して築けない。
> 三月一四日には、また別の問題に直面した。「何を配達すればよいか」という問題である。ヤクルト製品の在庫は日に日に減り、ヤクルトレディが配達するプロバイオティクス飲料は底をつきかけていた。とうとう配達できる製品がなくなると、一部のヤクルトレディは顧客たちに次のように言って、水とインスタント麵を届け始めた。「これは無料です。私も家族を失いましたから、お気持ちはわかります。しかし、これを無料で配るのは、会社には無断で行っているのです」  渡辺はこのことを耳にすると、次のように言った。「ヤクルトレディさん、皆さんはわが社の理念(「世界の人々の健康で楽しい生活づくりに貢献します」)を実践してくれました。正しいことをしてくれました。水とラーメンと温かい心をお客様に届けましょう。今はそれが一番健康につながる商品であり、サービスです。避難所にいる被災者の方々にも同じものを届けましょう。全部無料で配ってください」
> 稲盛はそれと同じ原則、「母の知恵」とも呼べるものを経営の指針にした。「人生も経営も、同じ原理や原則に則して行われるべきだし、また、その原理原則に従ったものであれば、大きな間違いはしなくてすむだろう──そうシンプルに考えたのです ★ 28」
> ピーター・ドラッカーが述べているように、マネジメントはリベラルアーツである。「『リベラル(自由)』であるのは、マネジメントでは知識や、自己認識や、知恵や、リーダーシップの土台が問われるからであり、〝アーツ(技芸)〟であるのは、マネジメントでは実践と応用が問われるからである ★ 40」
> これらのリーダーに共通するのは、自社や社会にとって何がよいことかを判断する能力に秀でていることである。彼らの優れた判断の拠り所となる目的と価値観 ★ 45 が、組織内を言わば「下降」して隅々に行き渡ることで、組織はスパイラルに「上昇」する。これらのワイズリーダーたちが認識しているように、ミドルマネジャーと現場の社員もまた、組織内での善についての判断を支えている、その会社のワイズリーダーなのである。
> リーダーが実際に何がよいことかを判断するとき,目的と価値観はその助けになる.なぜなら何が善で,何が悪かは,目的(自分が成し遂げたいこと)と価値観(自分にとって大切なこと)次第で変わってくるからである.
> この例からわかるとおり,われわれが現実をどう受け止め,どう理解するかは,目的と価値観に左右される.われわれの注意は,意識的にあるいは無意識のうちに,自らの主観的な目的と価値観によって,現実のある特定の側面に向けられている.われわれはそのときどきの時点では,いつも現実の一部しか見ていない.現実のすべての側面を見ているわけではない.
> 要するに,何がよいことかを上手に判断するためには,目の前の現実を深く,さまざまな角度から理解し,なおかつ,現実を解釈・評価する外的な基準も持つことを,リーダーは求められるということである.理想と現実の両方に同時に目を向ける能力によって,何が善かの判断が可能になり,ひいてはそこから有効な行動が生まれる.だから,リーダーは理想主義者であると同時に実用主義者になる必要がある.
> もう、今日では、車を直す技術に、そんな大きな違いはない。悪いところを取り替えればよい時代である。それなのに、お客に信頼される人とそうでない人がいる、カネとモノのやり取りで、そこに人間が存在しないような、心さびしい世の中になっていけばいくほど、そういう親切が重みを持ってくるのである。
> シンプルさとは、単なる見た目の問題ではない。ミニマリズムでもないし、ごちゃごちゃしていないということでもない。複雑さを深く掘り下げることもシンプルさには含まれる。本当にシンプルなものを作るためには、ほんとうに深いところまで掘り下げなくてはいけない。たとえば、ただ製品からねじをなくそうとしたら、かえって複雑に入り組んだ製品ができてしまう。そうではなく、もっと深いシンプルさを実現しなくてはいけない。製品のあらゆる面を理解し、製品がどう作られるかを理解する必要がある ★ 11」
> 仮説を立てずに発注するのであれば、おにぎりは単なる「もの」でしかない。「もの」に意味や文脈がつけ加わるとき、それは「こと」になる。この例で言えば、「船釣りをする人が暑い日でも安全に食事ができるよう、おにぎりを作り、売る」ことで、単なる「もの」であるおにぎりが「こと」に変わる。これが「もの」から「こと」への変革である。
> 西洋では、経営がまぎれもない科学であることを示すため、多くの学者が企業の資源や事業環境を分析することで、普遍的な法則を打ち立てようとしてきた。企業が個々の状況で直面する問題は、戦略立案の公式に組み込まれるべき「初期条件」と見なされる。正しい法則から正しい答えが導き出され、ひいてはパフォーマンスの最適化がもたらされるという考え方である。  しかし、経営幹部が日々直面する個々の状況は、単なる初期条件ではない。それは日々変化する現実の問題であり、「いま・ここ」で対処しなくてはいけないものである。企業が生き残るためには、実際に絶えざる変化に適応しなくてはいけない。綿密な計画を立てることにこだわってはいられない。われわれの経験では、経営とは、直観や、ビジョン、経験(自分の経験)にも基づくものであり、科学というよりアートに近い ★ 22。
> 店員が商品を発注するときには毎回、最初に、顧客が何を欲しているかについての仮説を立てることが求められる。たとえば、飲料品を発注するならば、地元の顧客のニーズに関して自分が知っていることを踏まえ、天候や、近隣の学校の行事や、地域の催しや、停電などの要素を考慮しなくてはならない。さらに仮説を立てるうえでは、顧客 のため にではなく、顧客 の立場に立って 考えることも求められる。
> 実際、セブン‐イレブンの従業員は、次の三つの異なる顧客の視点で考えるよう言われている。平均的な顧客、平均的な顧客の家族、自分の親しい友人である。そうすることで先入観や自分の経験だけで判断するのを避けられる。よりよい仮説を立てるため、自分の観察が正しいかどうかや、自分の解釈がどういう思い込みや背景から生まれているかについて、徹底的に問うことも求められる。
> 他者の知識と自分の知識を総合しようとするところに、「場」の本質はある。
> とはいえ、社内のすべてのイベントや相互交流が「場」になるわけではない。それらが「場」になるためには、何らかの形で知識を創造する相互交流がなくてはならない。また、目的と文脈が社員の間で共有されている必要もある。さらに、その相互交流から新しい洞察が得られたり、新しい意味が創出されたりするのでなければ、「場」とはいえない。加えて、「場」である限りは、知識の実践者のコミュニティを拡大させる原動力にもならなくてはいけない。
> 「場」は知識の方程式の両辺、すなわち創造と実践のどちら側でも重要な役割を果たしている。創造の側についていうと、知識は真空からは生まれない。知識の創造には文脈、つまり、「場」が欠かせない。情報は文脈の中に置かれて初めて、解釈され、意味を持ち、知識になる。知識創造のプロセスは、時と場所、それに他者との関係という文脈と切り離せない。  したがって「場」とは、共有された文脈のことだといえる。「場」の参加者たちは、その共有された文脈の中で、互いの主観的な視点や価値観を理解し、「いま・ここ」の関係を築き、相互作用によって新しい意味と洞察を生み出そうとする。
> 〔「他の名前」として考えついたのが〕レーシングドライバー名『モリゾウ』じゃないですか。逃げていたんですよ。そう思う、僕は。ただ、今となってはその名前がものすごく役に立っている。  そう思ったのは、日本自動車工業会会長になってから。『会長としてこの車どう思いますか』と聞かれたときに、『モリゾウとしては大好きです』と言える強みね。  トヨタの社長としては発言が制限される。パブリックに言っていいことと言って悪いことがある。そうしたときに、モリゾウという一車好き、カーガイ(車好き)としての発言ができる。それは世の中も認めていますから。  最初は逃げでつけたかもしれないけど、今はもう一つの役割があることは、本当にありがたいし、よかったなと思っている。東京オートサロンやNAGOYAオートトレンドのような場で『サインしてください』と言われる。『どっちがいいの?』と聞くと、一〇〇%『モリゾウで』。
> 槍田の考えでは、この問題の背後には過度の利益の追求があった。そこで槍田は、二度とそのような不祥事で会社が傷つくことのないよう、業績評価の基準を見直して、量より質の成果に重点(八〇%)を置くことにした。その結果、収益や利益よりも、成果を達成するプロセスが重視されることになった。  槍田はすべての社員に年次評価の席で、なぜその目標が自分や社にとって重要なのか、どのように自分や社の価値観と一致するのか、将来、自分や社にどういう善をもたらすのかについて、物語形式で述べるよう求めた。物語を考え、伝え、共有するという営みを、三井の文化を変える手段にしたのである。これにより自分の考えを相手に伝え、説得する力が磨かれると同時に、利益を考える前に仕事の質を考える習慣が育まれた。
> 物語は聞き手に、理論では説明し切れない個別の事柄を理解させるのにも役立つ。 第4章 で指摘したとおり、優れた判断は理論や原則には還元できない。モーソンとシャピロが述べているように、「道徳的に優れた判断のために必要なのは、理論的な思考(アリストテレスの「エピステーメー」)ではなく実践的な思考(「フロネシス」)である。実践的な思考は、数多くの経験についての繊細な熟慮と、予測もできなければ、繰り返されもしないさまざまな個々のケースの特殊性に対する細心の注意から生まれる ★ 32」。
> なぜ経営の中心に人間を置くのかという問いは、裏を返せば、世界の不確かさや、断絶や、複雑さや、デジタル化がさらに進むにつれ、世界はコンピュータのハードウェアやソフトウェアに支配されるようになるのかという問いでもある。
> 人間は他の動物と何が違うのか。コンピュータとは何が違うのか。ブラントとイーグルトンによれば、われわれはまだ築かれていない世界との境界を絶えず叩き壊そうとしているという。Siriやアレクサとは違い、人間はピタリと閉じられた世界に生きているのではない。われわれの世界は開かれており、「未来の世界との境界にも、いくつも隙間が空いている」。そして、「われわれは今の現実を理解することと、将来の現実を想像することのバランスをとり、絶えず今日という柵越しに、未来の景色を覗いている ★ 16」のだ。
> 人間は常に退屈さを追い払おうとせずにはいられない。そのおかげで『創造性』が生物学的な習性になっている。人間が芸術やテクノロジーに求めているのは、驚きであって、単に期待が満たされることではない。
- 『暇と退屈の倫理学』
> 「ゼロから一へ」では、歴史に触れることがイノベーションの促進につながる。 第7章 で論じたように、歴史的構想力を働かせることは、未来に「なしうること」を思い描くのに役に立つ。現在の時点から、歴史的な出来事を振り返って、過去を解釈し、再構築することで、可能な未来を築けるようになる。
> 前にも述べたとおり、歴史を知れば、「なぜ」と「いかに」がわかる。歴史には過去と現在の因果関係と、「どのようにそれは起こったのか」が示されているからである。とりわけ危機においては、歴史的構想力が頼りになる。歴史的構想力を働かせれば、危機(特定のときと場所で生じた状況)の背後に何があるのかについて、広く深い洞察を加えられ、ひいては可能な未来を築くために何をするべきかを自分で判断できるからである。
> 歴史の他に、文学も役に立つ。 第7章 で指摘したように、別の世界を思い描き、別のあり方を考えるのが文学である。われわれは物語を読むことで、好きなだけ他人の人生を体験し、「なしうること」の選択肢を知り、複雑さや見通しの不確かさに対処するすべを学べる。
> 「論理的な思考をどれだけ働かせても、個人や集団がすることの意味をつかみ取ることはできない。ロベスピエールやフランス革命を理解するのは、ピタゴラスの定理を証明したり、火星の軌道を計算したりするのとはわけが違う。人生の成り行きは火星の公転軌道のように予測できるものではない。人生には偶然とか、個性とか、選択とか、定まっていないものが、(偉大な小説家によって書かれた物語におけるように)不可欠の要素として含まれている ★ 21」
> フロネシスはSECIスパイラルの中央を縦に伸びる太い矢印で表されている。何をなすべきかを知ることによって、高次の目的を追求できるようになり、拠り所にできる共通の文脈と価値観を築けるようになる。道徳的な判断を下したり、複雑な状況で倫理的な問いを立てたりするうえでの指針も得られる。われわれの理論に社会的な次元──社会にとって何が善で、何が正しいことか──をつけ足すのが、フロネシスである。
- 南雲:第5の軸
> フロネシスは、具体的な時や状況の中に組み込まれている。したがって、フロネシスによってわれわれの従来のモデルに時間的な次元が加わる。それぞれの時と状況において何が善であるかを判断したり、自分で最善策を判断して、その場で行動を起こしたり、あるいは共通善に貢献したりできるのは、具体的な時や状況と不可分のフロネシスのなせるわざである。
> 人間には自分が築きたい未来を思い描くという人間に固有の能力が備わっている。われわれは世界をありのままに見るだけではなく、世界のありうる姿を見ようともする。
> 生き方としての経営では、自社が何を象徴するか、どういう世界に生きたいと思うか、そのような世界をどのように実現するか、どういう方向に進むか、どういう未来を築きたいか、どういうレガシーを残したいか、どのように社会に貢献できるかということが考慮される。よりよい未来を実現できるのは、自分たちにどういう使命が与えられているかを理解し、ひたすら正しく生きようとし、終わりのある一生の中で常に自らを磨き続けるときである。
> 時間的な次元が加わったことには、ダイナミックな文脈で生じる知識創造のプロセスに、循環的、蓄積的な性質があることが捉えやすくなるという効果がある。
> ② SECIは組織モデルだったが、共通善という概念が組み込まれたことで、社会モデルになった。知識創造とは、組織と社会との絶えざる相互作用であり、対話である。したがって知識の創造や実践は、組織の物理的・社会的な境界線内に限定されるものではない。
> 今なら、幸せとは何かがわかる。幸せとは、一番の親友と結婚することである。
> 子どもたちは愛とは何かを教えてくれた。愛とは見返りを求めずに与えることなのだ、と。
> 本書では、その知識を絶えざる実践を通じて知恵(wisdom)にまで高めることの重要性と、その知恵を獲得・活用するための方法を示した。実践を積み重ねていくと、実践知が得られる。なおも繰り返していくと、実践知が豊かになり、次第にスケールが大きくなる。企業の枠を超えて社会までも巻き込んでいく。
> ワイズカンパニーの基盤は共感だ。全身全霊で相手になりきり、「我と汝」の二人称の関係から共感が生まれる。共感をベースにして「利己」と「利他」を社会レベルで両立させる。
#📚本棚
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#2025/10/28
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野中郁次郎
竹内弘高
黒輪篤嗣
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