『ストーリーとしての競争戦略 ― 優れた戦略の条件|楠木建』
ストーリーとしての競争戦略 Hitotsubashi Business Review Books
https://www.amazon.co.jp/dp/B00978ZRYA
Highlights & Notes
エンターテインメントとしての小説やエッセイは別にして、私が本を読むときにまず知りたいことは、「この人はなぜ、この本を書くに至ったのだろうか」という動機です。
戦略の優劣の基準はどこにあるのか。優れた戦略の条件とは何か。私は自分の感覚を、もっとしっかりとした言葉でつかみたいとずっと思ってきました。
こうした経験を一〇年、一五年と重ねているうちに、私なりの基準が次第にはっきりとしてきました。それは戦略が「ストーリーになっているか」ということです。そこに生き生きと動く「ストーリー」が見えるか。私がよりどころとしている戦略の優劣の基準はここにあります。
この本のメッセージを一言でいえば、優れた戦略とは思わず人に話したくなるような面白いストーリーだ、ということです。
ここで問題にしているのは、戦略の「当たり外れ」ではなく、あくまでも「優劣」です。「優れた戦略」が現実に成功するかどうかはわかりません。戦略として優れていても、失敗することは少なからずあります。顧客と競争相手という、直接的にはコントロールの利かない相手がいる話ですし、未来のことはどっちにしても不確実です。ビジネスの成功・失敗は、「やってみなければわからない」としか言いようがありません。しかし、それでも「優れた戦略」を持つことには意味があります。
【引用】放っておいたら二割以下にとどまる打率を、少なくとも三割、できたら三割五分に持っていく。これが戦略に与えられた仕事です。
ですから、「当たり外れ」という結果でいえば、戦略の優劣は、一割五分とか二割のごく小さな違いを問題にしているのです。本編で詳しくお話ししますが、そもそも利益ポテンシャルが大きい魅力的な業界に身を置いていれば、ユルユルの戦略であっても、三割以上の打率を残せるかもしれません。戦略が優れていても打率四割は期待できないのですから、こうした外的状況に恵まれている企業にとっては、戦略の優劣など大きなお世話ということになります。
しかし、これでは「項目ごとのアクションリスト」にすぎません。
戦略全体の「動き」と「流れ」が、さっぱりわからないのです。
本来は「動画」であるはずの戦略が、無味乾燥な静止画の羅列になってしまう。戦略をつくるという仕事が「項目ごとのアクションリスト」を長くしたり細かくすることにすり替わってしまう。「ストーリーがない」「ストーリーになっていない」というのはそういうことです。
そこにストーリーがあれば、その戦略をつくっている人自身がストーリーに興奮し、面白がり、実に楽しそうに戦略を「話して」くれるからです。
当事者がそもそも面白がっていない。これがストーリーになっていない「戦略」に共通の特徴です。
戦略を構成するさまざまな打ち手がストーリーとして自然につながり、流れ、動かなければ、そこには何らかの本質的な矛盾や欠陥があるはずです。
昔から「儲け話」というように、戦略とは面白い「お話」をつくるということなのです。
実務ですぐに使えるような「実践的」な何かを提案しようという、このところの戦略論の「テンプレート偏重」や「ベストプラクティス偏重」には、むしろストーリーのある戦略づくりを阻害している面があります。一見して効き目がありそうなテンプレートやベストプラクティスを探してきて自社に流用するという発想は、むしろ戦略ストーリーを破壊してしまうのが普通です。
そうしたことではなくて、ここでお話ししたいのは、競争戦略を「ストーリーづくり」(story-telling)として理解する視点と、その背後にある論理です。ストーリーという視点に立てば、競争戦略についてこれまでと違った景色が見えてくるはずです。
話し手である私から、聞き手である皆さんにお願いが三つあります。一つは、客観的な知識を仕入れる「お勉強」として読まないでいただきたいということです。
【引用】親切な本であれば、「どの章でも、関心のある部分から読んでもらいたい。直接関心のない章や、テクニカルな説明になる部分は読み飛ばしていただいて構わない」ということになっているのですが、この本はあくまでも流れを持ったストーリーですので、順を追ってお読みいただかないと、話の筋がよくわからなくなってしまいます。
この本ではあえて長い話をしておきたいという意図もありました。
本編をお読みいただくとわかるように、この本を書いた問題意識の中核には、このところの「戦略」なり「戦略論」が、出来合いのフレームワークやテンプレートに流行のキーワードをちりばめて一丁上がり! というような、やたらと「短い話」に終始しているということがあります。戦略にとって肝心要の因果論理が軽視される傾向にあります。「何を」「どのように」が先行して、その背後にある「なぜ」があまりにも希薄になるという成り行きです。  競争戦略はキーワードの羅列ではありませんし、ましてやワンフレーズでは語れません。流れを持ったストーリーというその本質からして、戦略はある程度「長い話」でなくてはなりません。戦略がどんどん短い話に傾斜していく中で、本来のストーリーとしての戦略を取り戻すためには、ストーリーの駆動力となる因果論理にいちいち踏み込んだ「長い話」をする必要がある。これが本書を貫く私のスタンスです。言いたいことは全部言う。大切だと思うことはしつこく書く。確信犯的にやりたい放題やった結果、ここまでの長尺ものになったという次第です。持ち運びの点ではわりと迷惑な本なのですが、寛容な気持ちでじっくりと最後までお読みいただければ幸いです。
競争戦略はキーワードの羅列ではありませんし、ましてやワンフレーズでは語れません。流れを持ったストーリーというその本質からして、戦略はある程度「長い話」でなくてはなりません。戦略がどんどん短い話に傾斜していく中で、本来のストーリーとしての戦略を取り戻すためには、ストーリーの駆動力となる因果論理にいちいち踏み込んだ「長い話」をする必要がある。これが本書を貫く私のスタンスです。言いたいことは全部言う。大切だと思うことはしつこく書く。確信犯的にやりたい放題やった結果、ここまでの長尺ものになったという次第です。持ち運びの点ではわりと迷惑な本なのですが、寛容な気持ちでじっくりと最後までお読みいただければ幸いです。
言いたいことは、「論理」が重要だということです。まわりくどく感じるかもしれませんが、世にあふれている「戦略」の議論に(私に言わせれば)おかしな話が少なくないのも、戦略を支える肝心要の論理をないがしろにしているからです。
戦略論という、なまじっか「実践的」な分野で学者稼業をしていると、経営や戦略を仕事として実践している人々とのインターフェースがどうあるべきなのか、真剣に考えざるをえません。
経営学と経営は違うのです(一緒だったら、私はそもそも学者商売を選んでいません)。「学者の話を聞いて良くなった会社はない」という金言(?)もあるそうです。
ビジネスの成功を事後的に論理化しようとしても、理屈で説明できるのはせいぜい二割程度でしょう。
自らの一連の行動が貴重な実験です。
実務家であっても、完全に個別の具体的な現実にべったり張りついて、本当の意味での「直感」で場当たり的に判断し、行動しているかというと、そんなことはありません。優れた実務家は、必ずといっていいほど何らかのフォームを持ち、それを野性の勘の源泉として大切にしているはずです。学者のいう「理論」ではありませんが、その人に固有の思考や判断の基準があるのです。
当人にとっての有用性という意味では、野性の勘が一番上等です。
そのけもの道を走っている人だけが、走っているがゆえに、きちんと見ることができるのです。
この比喩でいうと、学者とは、さまざまなけもの道を走っている人を眺めながら考えているという人種です。実務家に見えるものが学者には見えません。ましてや、迅速で適切なアクションもとれません。立ち止まっているからです。
何が理屈かをまるでわかっていない人には、「理屈じゃない」ものが本当のところ何なのかもわかりません。
野性の嗅覚が成功の八割にしても、二割の理屈を突き詰めている人は、本当のところ何が「理屈じゃない」のか、野性の嗅覚の意味合いを深いレベルで理解しています。「ここから先は理屈ではなくて気合だ」というふうに気合の輪郭がはっきり見えています。だからますます「気合」が入り、「野性の勘」に磨きがかかる。「理屈じゃないから、理屈が大切」なのです。
論理(logic)とは、「AならばBである」というように二つ以上の思考や現象をつなぐ理由づけ(reasoning)を指しています。
一般的な定義でいえばこのとおりなのですが、経営や戦略を考えるという文脈では、論理とは「無意味」と「噓」の間にあるものとして理解できます。
仮に「ブランドなんて何の役にも立たない。そんなものはどうでもいい」という主張をしている本があったら、ちょっと読んでみたいと思います。そういうことを主張するためには、どうしても「論理」が必要になるからです)。
ところが、この後でまたこの話題には戻りますが、結論を先にいうと、その種の法則は、幸か不幸か(たぶん「幸」のほうだと思いますが)、戦略論の対象にはなりえません。経営や戦略は「科学」ではないからです。小売業界でとてもうまくいった施策を鉄鋼業界にそのまま持ち込んでも、うまくいくとは限りません。かえって変なことになるかもしれません。同じ業界であったとしても、ある会社でうまくいったやり方であっても、他の会社で全く効果がないということはごく普通にある話です。
本当に一般性の高い法則があれば、その法則を取り入れて、それに従ってやっていればうまくいくのですから、経営などそもそも必要なくなります。「こうやったら業績が上がる」という法則は、大変に魅力的に聞こえるのですが、こと経営に限っていえば、そうした主張はどこまでいっても噓なのです。
一橋大学の沼上幹さんは「どうすれば成功するのか教えてほしい」という実務家の問いに対して、次のような説得的な答えを提出しています。  この問いに対して経営学者に用意されている答え方が一通りしかないということはもはや明らかであろう。すなわち、「法則はないけれども、論理はある」という答え以外に、社会科学の一分野としての経営学は用意できるものがないのである ★ 2。  要するに、無意味と噓の間に位置するのが論理なのです。経営や戦略を相手にしている以上、法則定立は不可能です。しかし、それでも論理はある、「論理化」は可能だという主張です。
第一に、けもの道で身につく嗅覚は決定的に大切なのですが、その一方で、限界もあります。それは、日々けもの道を走っていると、視野が狭くなり、視界が固定するという問題です。走りながら考えている人は、どうしても視界が狭くなります。
運転中によそ見をしていると危険だからです。
ものがよく見え、的確な判断と行動ができるという野性の嗅覚の強みは、「走りながら考える」ということ自体にあるので、視野と視界の問題はすぐには解決のつかないジレンマです。
その会社のその事業の文脈に埋め込まれた特殊解として戦略を構想します。
経営者が経験に即して語る戦略論は迫力に満ちていますが、ユーザーがその知見を自らの状況に当てはめるのは困難です。いったん論理化して汎用的な知識に変換しておけば、(具体化能力のある)実務家は、その論理を異なった文脈に利用できるわけです。反対に、論理化のプロセスがなければ、知見の利用範囲がきわめて狭くなってしまいます。
第三に、ありがたいことに論理はそう簡単には変わりません。目前の現象は日々変化します。だからこそ「変わらない何か」としての論理が大切になるのです。
激動期が何十年間も毎日続くというのは、論理的にいってありえません。要するに、「変わっているけど変わっていない」というのが本当のところなのです。為替レートや株価は定義からして毎日変わる現象です。新しい市場や技術が生まれては消えていきます。そういう意味では現象が「激動」するときもあるでしょう。しかし、現象の背後にある論理はそう簡単には変わりません。日々動いていく現象を追いかけることに終始してしまえば、目が回るだけです。目を回してしまえば、有効なアクションも打てません。そういう人には腰の据わった戦略はつくれないのです。
この意味で「論理ほど実践的なものはない」と私は確信しています。
実践にべったりの処方箋は、ある特定の実務家にとって、特定の状況のもとでは有用でしょう。しかし実践は、どこまでいっても一人ひとりに個別の問題です。そうだとしたら、いわゆる「実践的なビジネス書」というものは実はひどく窮屈な話なのです。
教科書的な定義では、「組織がその目的を達成する方法を示すような、資源展開と環境との相互作用の基本的なパターン ★ 4」とか書いてあるのですが、これではちょっとわかりにくい。いずれ
もちろん現実にこのような人がいたらかなり怪しいので警戒してしまうのですが、ここでお聞きしたいことは、業界の事情通でない、ごく普通の知的水準の人に、自社の戦略をどのように説明するか、ということです。その答えに、あなたの戦略についての暗黙の定義があるはずです。
違いをつくって、つなげる」、一言でいうとこれが戦略の本質です。
神戸大学の三品和広さんは、次のような三点の興味深い指摘をしています ★ 5。いずれも戦略の「つながり」という本質にかかわる重要なポイントです。第一に、経営の問題の多くは、大きな事象を構成要素に分解し、そのうえで一つひとつの要素を別個に吟味しようとするアナリシスの発想に基づいている。だから企業の組織デザインにしても、マーケティング、アカウンティング、ファイナンスといった構成要素に分解される。第二に、しかし、戦略の神髄はシンセシス(綜合)にあり、アナリシス(分析)の発想と相いれない。だから、戦略に対応する部署は企業の中に見つからない。第三に、戦略は部署でなくて人が担う。サイエンスの本質が「人によらない」ことにあるとすれば、戦略はサイエンスよりもアートに近い。  戦略は因果論理のシンセシスであり、それは「特定の文脈に埋め込まれた特殊解」という本質を持っています。優れた戦略立案の「普遍の法則」がありえないのは、戦略がどこまでいっても特定の文脈に依存したシンセシスだからです。
こうした優れた経営者による戦略論は迫力があります。第一に、当人の特殊な文脈の中で練り上げられた知見であるので、戦略の文脈依存性が確保されています。第二に、実際に丸ごと作動したシンセシスであるので、因果論理が骨太です。第三に、最も重要なこととして、その経営者は現実に成功(もしくは失敗)しているので、成果との因果関係が(少なくとも結果においては)強力に確保されています。
本質を短い言葉にしてしまえばそういうことなのですが、実行と経験に裏打ちされた主張を通して読めば、きわめて骨太な「論理」が浮かび上がってきます。
実体験の迫力を出そうとしても出せない経営学者としては、特定の文脈に埋め込まれたシンセシスとして戦略を扱いながらも、経営者とは違ったアプローチで、しかし実務家にとって有用な戦略論を語る必要があります。そこで私がたどり着いたのが、「ストーリーとしての競争戦略」という視点なのです。ストーリーの戦略論は、因果論理のシンセシスという戦略の本質を正面から捉える視点です。
競争戦略は、「誰に」「何を」「どうやって」提供するのかについての企業のさまざまな「打ち手」で構成されています。
しかし、個別の違いをバラバラに打ち出すだけでは戦略になりません。それらがつながり、組み合わさり、相互作用する中で、初めて長期利益が実現されます。
戦略をストーリーとして語るということは、「個別の要素がなぜ齟齬なく連動し、全体としてなぜ事業を駆動するのか」を説明するということです。
個々の打ち手は「静止画」にすぎません。個別の違いが因果論理で縦横につながったとき、戦略は「動画」になります。ストーリーとしての競争戦略は、動画のレベルで他社との違いをつくろうという戦略思考です。
ストーリーとしての競争戦略とは、「勝負を決定的に左右するのは戦略の流れと動きである」という思考様式です。
個別の要素についての意思決定(たとえば、ある製品の生産を社内でやるか、それとも外部企業に任せるか)は、基本的にwhatやwho(whom)やhowやwhereやwhenを確定するということです。こうした個別の打ち手に対して、戦略ストーリーが問題にするのはwhyです。右で「線」とか「流れ」といっているのは、なぜある点がもう一つの点につながるのか、ある打ち手がなぜ次の打ち手を可能にするのか、という因果論理に注目しています。戦略を一連の流れを持ったストーリーとして考えなくてはならないゆえんです。
しかし、戦略ストーリーの筋の良さは、他の要素とのつながりの文脈でしか決まりません。マブチの先行的な中国での現地生産は、もちろん先見の明もあったでしょうが、それ以上に他の打ち手と因果論理できちんとつながっていたということが大切です。
マブチの成功を見た同業他社が、中国現地生産の戦略を「ベストプラクティス」として導入したとしても、周囲の打ち手とのつながりに欠けていれば、かえって筋の悪い話になってしまいます。ストーリーの断片を切り取ったスチール写真を見るだけでは映画が評価できないのと同じように、ストーリー全体を通して見ないことには、筋の良し悪しは判断できません。
ところが、現実には、肝心のシンセシスの側面がきれいさっぱり欠如している「戦略」が少なくありません。そこに一貫したストーリーが流れているかどうかは、情報量の多さとか分析の密度、正確さとは別ものです。
なぜそうなってしまうのでしょうか。通常のオペレーション業務のように、戦略をつくるという仕事を担当部門の「分業」で、「分析的」にやろうとする発想にそもそもの間違いがあると思います。トップは目標を打ち出すだけで、戦略をつくる作業を会社のさまざまな業務部門に投げてしまう。それを受けてそれぞれの業務部門が、目標を達成するためのアイテムを、自分の担当する分野の範囲でひねり出し、バラバラに上にあげる。それを受けて、「経営戦略部門」が見た目はきれいなプレゼンテーション資料に落とし込む、というプロセスです。これでは戦略をつくるという仕事が、アクションリストを長くしたり細かくする作業にすり替わってしまいます。本来は「動画」であるはずの戦略が無味乾燥な静止画の羅列になり、文字どおり「話にならない」のです。
戦略「論」が宿命的にやっかいなのは、法則の定立がほとんど不可能だということです ★ 16。にもかかわらず、一部の戦略論、特に「アカデミック」な戦略論には法則の定立をめざそうとするものが少なくありません。この数十年の正統派経営学の基本姿勢は、法則の定立を志向しています。これは経営の実在をコントロール可能なシステムであると想定し、大量観察を通じてそのシステムの挙動に規則性を見出し、そこから法則を導出しようという立場です。こうしたアプローチは、近年の統計学の発達や自然科学の成功にも影響されて、より「科学的」であるという印象を与えます。できるだけ多数の多様なシステムを観察することで、より一般化の程度が高い法則を導出し、その法則を実務家に伝授していくというプロセスが正統派経営学の標準となりました。
私はこの種の法則戦略論の有用性を疑わしく思っています。なぜならば、第一に、そもそも戦略とは他社との違いを問題にしているからです。大量観察を通じて確認された規則性は、あくまでも平均的な傾向を示すものでしかありません。そこで提示された「法則」に従うということは、他社と同じ動きに乗るということであり、戦略にとっては自殺的といえます。第二に、「他の条件が一定であれば」といったとたんに、戦略の本質である「文脈依存性」や「シンセシス」が根こそぎ切り捨てられてしまいます。
その理由は、こうした戦略論が実務家のニーズに「過剰に適応」するからです。
戦略ストーリーの「キラーパス」(第5章)のところで詳しくお話しするように、ある部分での(多分に意図的な)「弱み」が、別の部分での「強み」をもたらしているということは、優れた戦略がしばしば含んでいる因果論理なのです。
しかし、ベストプラクティスを取り入れるだけの「戦略」が戦略の名に値しないのはいうまでもありません。これまた「違いをつくる」と「シンセシス」という競争戦略の二つの本質にまるで逆行するからです。
問題は、会社で「シナリオ・プランニング」とかいうと、単純なシミュレーションをやるだけになってしまうということです。
シミュレーションは時間軸が入っていますから、その意味では動画の側面もあります。しかし、この種の数字を羅列しただけのシミュレーションが戦略ストーリーの名に値しないのはいうまでもありません。数字の背後にある因果論理がほとんど考慮されていないからです。
そのような「おいしい」状況をつくり出す手段として、ゲームの戦略論は企業の「戦略的行動」(strategic behavior)に注目します。たとえば、戦略的な低価格の設定や強気の投資によって、潜在的な参入業者や競合他社のやる気をそぐというような行動です。より一般的な言葉でいえば、「駆け引き」です。
しかも、ゲーム理論的な戦略思考は、ゲームに参加しているプレイヤーがすべて基本的には合理的で、相互の行動がもたらす成り行きを完全に理解できている、と想定しています。しかし、何を合理的とするかは、それぞれの企業の主観的な判断に大きく影響されるはずです。プレイヤーが置かれている文脈が異なれば、「合理的な行動」の中身も変わってくるでしょう。ゲーム理論的なフレームワークは論理的思考を助けますが、それが現実の戦略構想の指針になるとは考えにくい、というのが私の意見です。
マイケル・デルさんは「ホームランでなく、ヒットをねらう。ビジネスは野球と同じで、できるだけ高い打率をめざすのがベストだ。なぜなら、永遠に続く大ヒット製品やテクノロジーなど存在しないからだ」と言っています ★ 21。画期的な新製品、まだ誰も参入していない新興市場、自社だけで占有可能な技術、こうした強力な点の一撃があれば成功できるかもしれません。この種の要素レベルの差別化は目立ちますし、わかりやすく、華々しい成功をもたらします。しかし、これだけグローバルに情報が行きわたった時代になると、そうした「必殺技」は探してもなかなか見つかりません。すぐに他社も同じようなことを仕掛けてきます。
仮にイタリアから数人の有力選手を引き抜いてきても、カテナチオは再現できないでしょう。どうしたらそういうことができるのか、因果関係が複雑でわかりにくいので、まねされにくく、優位が持続しやすいのです。
企業の競争優位の源泉が戦略の構成要素のレベルから「システム」なり「仕組み」のレベルへとシフトしているという問題意識の点でも、私の話はこれらの研究と共通しています。「ストーリー」「モデル」「システム」「アーキテクチャ」、呼び名の違いは別にしても、こうした考え方はいずれも個々の要素ではもはや企業が持続的な競争優位を確立しにくくなっているという問題意識に立脚しています。加護野忠男さんは、「ビジネスシステムの静かな革命」という興味深い議論をしています。システムレベルの差別化は構成要素レベルの差別化と比べて、「静かな差別化」です。だからこそ、システムレベルの差別化はまねされにくく長持ちするという面があります。差別化の次数を要素からシステムへと繰り上げれば、新しい競争優位が獲得できるという論理です。
ストーリーの戦略論とビジネスモデル(システム)の戦略論との違いは、ビジネスモデルが戦略の構成要素の空間的な配置形態に焦点を当てているのに対して、戦略ストーリーは打ち手の時間的展開に注目している、ということです。
ダイナミック」というのはあくまでも「動きが見える」ということで、「長期的なことを考える」ということを必ずしも意味するわけではありません。長期か短期かという分類軸は、ここで強調している動画か静止画かという軸とは別ものです。
ストーリーという視点を強調する二つ目の理由は、このところ特にその傾向が強まっていると思うのですが、現実の企業経営の中で、戦略ストーリーをじっくりと考え、語り合うことが希薄になっているのではないかという懸念です。
素朴に考えれば、そもそもあらゆる戦略は面白い「お話」であるべきなのですが、これまでも強調してきたように、ストーリーということになると、whatやwhenやhow muchだけでなく、whyが話の中心になります。ところが、やっかいなことに、whatやwhenに比べて、whyに対する説明はどうしても話が長くなります。しかも、whyの線は一本ではありません。複数の打ち手があれば、前後左右に一手を結びつける線は広がっていきます。特定の文脈に依存した因果論理のシンセシスである以上、戦略はワンフレーズでは語れません。ある程度「長い話」にならざるをえません。
第二に、テンプレート戦略論やベストプラクティス戦略論の主たるユーザーは、実際のところ、経営者というよりも経営企画部門などの「戦略スタッフ」であることが多い。彼らの仕事は戦略構想そのものではなく、戦略を構想する人(経営者や事業部門長などのジェネラル・マネジャー)が必要とする情報の整理や分析です。そもそもシンセシスの任にない人々であれば、手っ取り早いアナリシスのためのテンプレートを好むのは自然な成り行きです。
第三に、「プロフェッショナル経営者」という幻想です。もちろん、真の意味での経営技量なりシンセシスに優れた経営者は存在します。しかし、ここでいうカギカッコつきの「プロフェッショナル経営者」というのは、戦略があたかも標準的なスキルセットであると誤解している人々のことを指しています。「経営者の戦略スタッフ化」といってもよいでしょう。こうした人々にとってテンプレートやベストプラクティスは過度に心地よく響きます。
戦略を一枚のテンプレートにまとめてしまえば、メールに添付して一時に一〇〇人に送りつけることはできます。しかし、これでは情報を伝達しているだけで、戦略についての注意を喚起し、共有することはできません。
自分の仕事がストーリーの中でどこを担当しており、他の人々の仕事とどのようにかみ合って、成果とどのようにつながっているのか、そうしたストーリー全体についての実感がなければ、戦略の実行にコミットできません。戦略ストーリーをつくる立場にいるリーダーだけでなく、ミドルマネジメント以下の多くの人々も、仕事に向かって突き動かされるような面白いストーリーを強く求めているはずです。
ストーリーの面白さは、戦略の実行にかかわる社内の人々を突き動かす最上のエンジンになります。数字で綴られた静止画の羅列に突き動かされる人がいるでしょうか。素晴らしい経営理念やビジョンや価値観を掲げる会社はたくさんあるのですが、具体的な戦略の段になって出てくるのが無味乾燥な静止画のリストであれば、せっかくのビジョンも「床の間の掛け軸」になってしまいます。
戦略ストーリーをつくるということは、このように現在地や目的地や地図情報を記した地図の上に、自分たちが進むべき道筋をつけるということです。到達すべき目的地を特定したり、地図情報を細かく書き込むことは、あくまでも下ごしらえであって、戦略ストーリーではありません。ストーリーという道筋を組織のすべての人々が共有し、道筋のついた地図をポケットに入れて、それを見ながら進んでいく。これが私の「戦略を実行する組織」のイメージです。
これがこの話の一番重要なポイントで、ストーリーとしての競争戦略の一つの本質を物語っているのではないかと私は思います。つまり戦略ストーリーというのは、きわめて主体的な意志を問うものだということです。言い換えれば、戦略ストーリーは、前提条件を正確に入力すれば自動的に正解が出てくるような環境決定的なものではないということです。
戦略は「当たり外れ」の問題ではありません。少なくとも事前においては、そこにストーリーがあるかないかという有無の問題です。もしくは、その道筋のついた地図を手に進んでいく人々が、「信じているか、いないか」の問題です。将来はしょせん不確実だけれども、われわれはこの道筋で進んでいこうという明確な意志、これが戦略ストーリーです。ストーリーを語るということは、「こうしよう」という意志の表明にほかなりません。「こうなるだろう」という将来予測ではないのです。
自分が確かにストーリーの登場人物の一人であることがわかれば、その気になります。
戦略の実行にとって大切なのは、数字よりも筋の良いストーリーです。過去を問題にしている場合であれば、数字には厳然たる事実としての迫力があります。しかし、未来のこととなると、数字はある前提を置いたうえでの予測にすぎません。戦略は常に未来にかかわっています。だから、戦略には数字よりも筋が求められるのです。
インセンティブ・システムなどさまざまな制度や施策も必要でしょうが、そんな細部に入り込む前に、人々を興奮させるようなストーリーを語り、見せてあげることが、戦略の実効性にとって何よりも大切だというのが私の見解です。
このところ会社のさまざまなことごとについての「見える化」が大切だ、という話が強調されています。オペレーションのレベルの話で、しかもそれが過去に起こったことのファクトについての話であれば、私も見える化に大いに賛成です。しかし、話がオペレーションよりも戦略レベルになると、見える化が本末転倒になってしまいます。
これは話を極端にしているのですが、実際のところ、戦略的な意思決定をするのに暗黙のうちにこの種のアプローチをとっている経営者は決して少なくありません。これでは見える化どころか「見え過ぎ化」です。因果論理についての深い思考は全くありません。
戦略構想は定義からして将来を問題にしています。起こったことを数字で体系的に見える化しても、その延長上には戦略は生まれません。あらゆる数字は過去のものだからです。日々事実を積み上げていくオペレーションにとっては見える化は武器になりますが、将来の戦略構想ではあまり役に立ちません。まだ誰も見たことがない、見えないものを見せてくれる。それが優れた戦略です。
見える化という思考様式は戦略にとっては役に立たないどころか、ものの考え方が戦略ストーリーの本質からどんどん逸脱してしまいます。戦略にとって大切なのは、「見える化」よりも「話せる化」です。戦略をストーリーとして物語る。ここにリーダーの本質的な役割があります。
第一に、日本企業は相当に成熟した経営環境に直面しています。経営環境が成熟するほど、個別の構成要素のレベルで競争優位を構築するのが困難になります。画期的な新製品、まだ誰も参入していない成長性の高い市場セグメントへの参入、この種の差別化は目立ちます。しかし、成熟した環境の下では、こうした派手な差別化の要素は探してもなかなか見つかりません。そこで、ストーリーという一つ上位のレベルに次数を繰り上げた差別化が求められるわけです。映画や演劇でいえば、登場する役者には大スターはいないけれども、それを組み合わせて動かす筋書きの面白さで勝負し、気づいてみたらロングランで成功を持続しているというのがストーリーの戦略論のめざす姿です。
ポジショニングの戦略はそれがもたらす成果との因果関係がより明確なので、どちらかというと「短い話」で済む傾向にあります。GEのジャック・ウェルチさんが一九八〇年代にとった戦略はその好例です。ウェルチさんは就任と同時に「ナンバーワン、ナンバー2の事業しかやらない」「参入障壁が低くて多数乱戦になる事業はやらない」「市場や技術の変化の激しい事業はやらない」といった切り口で、手がける事業領域を大胆に絞り込みました。これは徹頭徹尾ポジショニングの戦略です。ウェルチさんの戦略的意思決定は数年のうちに増収をもたらしました。
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#2023/12/01
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楠木建
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