mimic騒動についての所感(rush 22/08/31)
ここ数日、mimicというサービスが話題となっている。
これは、AIによる画像の自動生成サービスで、既存の十数枚の画像によるファインチューニングによって、似たような画風の新たな画像を生成するものだ。そもそも、ここ最近は類似サービスの発表が連なっており、prompt入力などによるAI画像生成サービスが話題となっていた。しかし、このmimicは概ね好意的に受け入れられた画像生成サービスとは異なり、一躍批判の対象として議論の的となり、理解のない解説や、それぞれの立場に基づく不快感の表明などが相次ぎ、結果としてサービスの萎縮を招いた。
この事件について、主な議題は著作権法における情報解析(或いは知的財産権のあり方)に関する話であり、私が昔からかなり強い興味を持っている分野で、非常に強いお気持ちを持っている。
そこで、ここにその一部を記し、備忘録とする。
Twitterにおける各位の発言の類型について
各位がTwitterで発言することにより、それぞれが考えたことを短く(或いは不十分な情報や論証とともに)話すため、収集がつかなくなっている。
ここで、このような法的問題が絡む議題における一般論として、議論を整理するための枠組みを知っておく必要がある。すなわち、このような議題においては、以下のような視点が存在し、それぞれ答えが異なる。ここに、それぞれの視点と議論における注意点などを示す。
一般の法律問題としての議題
法律は、現実社会においてそれぞれの利益の調整を図り、権利の侵害から人々を救済するものであるが、かといって常に正義を定義するものではなく、また法律問題と倫理的な判断は分けねばならない。
さらに、それぞれの立場や微妙な事例の差異によっても結論が異なる。適切な条件と対象なしに、「〇〇できない」などと言うことは不正確である。
例えば、今回話題になった「AI学習禁止」の意思表示の効果の問題だ。これも十分に事例を具体的にし検討しなければ答えは得られないにもかかわらず、著作権法の権利制限規定を持ち出して端的に「不可能」と唱える発言が目立つ。このような発言は不正確あるいは語弊を招く発言であり、私としては受け入れ難い。(もちろん、適切な条件設定のもと論じる発言も見受けられるが、実際にそのようなツイートは嘘を言わないために表現が弱くなり、また多くのことを論じなければならないために結果としてTwitterに適さず、口をつぐむ人が多い。)
従って、今回の問題を法律問題として論じるならば、まずは登場人物について明らかにし、問題となる権利について明確にし、その上で事例を具体的に設定しなければ、そもそも結論は出せないはずである。Twitter上では不適切な省略が多く見受けられるが、気をつけたい。
契約内容・解釈・(契約の)違法性の問題
もちろん、特に何も契約がない場合には法の定めによるが、利用規約などの契約が存在すれば話は別だ。違法とならない範囲において(当然この契約と法の関係も重要な議題であるが)、私的自治の原則に基づいて私たちは自由に契約を締結できるのであり、その規定は契約により当然異なる。契約の規定を「プログラミング」することで、様々な問題に予防的に対処したり、或いはコピーレフトのような思想を契約内容に反映させたりすることも可能となる。これを対象に議論をするならば問題となるのは契約内容であるから、契約内容なしにこの議論は行えない。また、この利用規約における予防的規定を、必ずしも拡大解釈することは不適当であるが、そのようなツイートも多く見受けられた。
立法、規制のあり方、権利のあり方に関する議論(政治的議論)
法律問題と混同されがちなのが、将来にわたってあるべき姿を議論するいわば「政治的議論」だ。
前提として、この政治的議論には簡単にマルバツをつけられるような一元的な規範は存在しない。それは、現在存在しない法律や、その基となる価値観の是非が対象であるからだ。将来あるべき姿を議論する中では、究極的にはそれぞれの価値観や実現されるべきと考えている未来像に判断は委ねられる。この議論に対して、現行法下での結論を理由に主張を否定するのは不適当である場合が多い。「AI学習の是非」や「AI生成物の権利」などはこの内容である。
これはそれぞれの立場により主張が異なるのが当たり前であって、簡単に正解不正解を決められるものではない。(勿論、提唱する未来が到来したとして、望ましくないと考えられる事態を引き起こすことなどを批判することは可能である。後述の「立法についての注意点」はその例である。)
ましてや、これを茶化し、或いは差別的に批判することは好ましくない。
さて、ここからは今回の問題についてTwitter上を跋扈した各意見について、思うところを述べる。
絵師等による不快感の表明と、これに付随する否定的意見への反駁について
我々は、絵師による意見表明や不快感の表明の多くは、現行法においてセーフかどうかには興味がないことを理解せねばならない。また、これは個人的な意見であるが、人が創作において不快に感じていることに対し、「法的にセーフだから」とか、「みっともない」といって説得・批判する行為は全く的を射ないものであると思う。私は、AIも文化も適切な権利保護により発展する未来を望むが、このような発言は単に絵師たちの感情を逆撫でし、対立を煽るものでしかないと思う。当然発言や非難は基本的に自由であるが、もし私の友人が軽々しくそのような発言を行おうとしているならば、よく考え直してほしいと思ってしまう。もちろん、誹謗中傷などは表現の自由を逸脱し、どの立場であっても許されるものではないことに注意したい。
新たな規制や権利の確立、立法についての注意点
とはいえ、これらの不快感情に基づいて直ちに規制やルール化を行うのは容易でない。
まず、権利について具体的かつ緻密な議論を行わねばならず、そのような責任感と能力を持つ人は多くないだろう。(そしてまた、責任感のないとんでも理論が跋扈し、影響力を持ち、真面目に議論している人々が割を食う。)また、現代において特に情報に関する法的規制は、国をまたぐ際に大きな問題を引き起こす。というのも、日本国内で様々な規制を行ったとしても、海外で進んでしまえば対処のしようがないのである。規制を考えるならば、まさに著作権について世界中の国を巻き込んで標準化して確立したベルヌ条約のように、世界的な条約や枠組みとして議論をせねばならず、それを待たずして日本国内だけで規制を強化するのはかえって日本法でコントロール可能なサービスの発展を妨げ、海外に遅れをとることになりかねない。しかし、だからと言って規制がなければない程いいわけでもなく、声高らかに規制による弊害のみを妄想し吹聴するのは、紳士的な発言とはいえないだろう。(最低限、現在の著作権法を正しく理解し、遵守する必要がある。)
そこに自分と異なる人々への尊敬は存在しているか?
「AIサービスの提供者は、人々の不快感を逆撫でしないようにするべきであった」という意見を見た。これ自体は(若干結果論的ではあるが)妥当な考えであると感じる。しかし、その表現の中に人々の不快感の表明を揶揄し、「学級会」と呼ぶものがあった。確かに、法的問題とは関係なく不快感を示し、また各々が各々の立場で問題設定をして結論を語りあう様をよく言い得た表現ではあると思うが、その表現を当事者たる絵師の人々が見ればどう思うだろう。
この小気味よく、的を射た比喩表現は、明らかに問題の解決にはつながらないだろう。私たちは、この問題が価値判断を多分に含むのであって、論理的な正しさや現行法における結論のみが正しい世界ではないことを理解せねばならない。しかも、現実的に絵師の感情を逆撫でし、対立感情を煽ることとなれば、結果として、適切な議論を行い、合意形成をすることが難しくなることは容易に想像がつく。
確かに、避け難い社会の変動や技術の進歩によって、失われていく職は存在するだろう。ただし、私はそのような職であっても、クリエイティビティを発揮し、世の中に創作物を送り出してきたこれらの人々は、尊敬されて然るべきだと考える。また、それらの人々が新技術に対して不快感を示すのは当然であって、それを揶揄しても何も社会は進歩しないだろうと考える。
思うに、(主語が明らかに大きいが)一部の技術者やエンジニアは、論理や正解不正解を重視するあまり、それを重視しない人々を軽視し、蔑視する傾向があるのではないだろうか。まるで、感情に左右され理論を尊重しない様を嫌っているかのように感じるのだ。気持ちはわからなくもないが、少し発想力を働かせてみるか、或いは自分と立場の異なる人々への十分な尊敬の念があれば、そのような視座には至らないのではないかと思う。法律は社会の合意形成のもとでなされるものであり、それには適切な議論が欠かせない。旧来の人々の活動を置換しうる技術を開発する技術者であればこそ、このような文化、創作、社会の担い手であった(或いはこれからもそうであり続けるであろう)旧来の人々への尊敬の念を、忘れないようにしたい。
mimicは叩かれるべきか、規制は行われるべきか
それでは、絵師たちの不快感に基づいて、mimicは叩かれて然るべきサービスなのだろうか、そしてまた規制は行われるべきなのだろうか、私の考えを述べる。
まず、現状においてmimicは法的に大きな問題点を有していないと考えている。また、倫理的にも殆ど著作権法を悪用する意図はないように感じている。mimicがきっかけではあったが、画像生成はmimicに関係なくこれから進んでいく技術であることは間違いない。
とすると、mimicを批判し、或いは協力した人を非難しても仕方がないように思う。ただし、かといって創作者は全てのコントロールを諦めるべきだとも思わない。
個人的には、基本的には現行の体制で問題はないが、ある画風を特に学習し、似たような創作物を生成させる行為には、何らかの規制があっても良いと思う。一種の(著作者の)人格権として、他者の創作性が発揮されることなく自分の画風などをコピーした模造品が出回ることを拒否できて然るべきだと考える。当然、これはただの直感に基づく政治的主張であって、この規制(或いは権利の制定)にも特に立法技術的な多くの課題が存在するが、これからの社会における落とし所はこの辺りではないかと思っている。
私の感じる、AIによる生成技術への嫌悪感の言語化
ここからは、(ここまでもであるが)特に私の直感に基づく意見である。
私は、生成技術に嫌悪感を持っている。それは、写真のような技術が人々の仕事を置換したことに対する不安感とは異なるものであると感じている。その嫌悪感の正体を、ここで言語化することを試みる。
そもそも、私は社会による恩恵を受けたならば、その恩恵の程度に応じて適切な分、社会に貢献すべきであると考えている。社会を共同体と言い換えても良いが、とにかく、いわゆるフリーライドする人のみが跋扈すれば、社会はうまく成り立たないと考えているからだ。(ただし、貢献は自発的なものであることが望ましく、規制によって成り立つべきかどうかは私にはわからない。)
この思想に基づくと、生成技術は人間の多大な知恵や努力の結晶を学習データとし、人間の創造性に似た何かを生成することを目指しているが、似た何かを生成することに長けた生成技術は、創作者の仕事を奪い、価値を下げはしても、創作者の社会に何かを還元するものではないと考える。それどころか、創作者による文化を一度破壊してしまうと、今度はその学習するためのデータすら作れなくなり、文化の発展と共に進むAIの発展というサイクルも崩壊してしまう。
もちろん、私の想像力が至らないだけで、創作者がうまく生成技術と付き合い、より大きな価値を生み出す可能性や、生成技術をうまく使って、創作者がさらに本質的な創作に従事できるようにする可能性を秘めているかもしれない。しかし、現状では生成技術の出来栄え(の中途半端さ)と、その影響を鑑みるに、恐れているような未来を到来させかねないと感じる。インターネット上のデータが生成されたデータに置換されていけば、生成されていないデータで人間の創作性を学習していくことは難しくなる。ある種の汚染である。この生成技術が、自分自身でより精度を高めていくような機構を持っていればいいが、私が知っているものではそのような機能はない。
これらの理由を背景として、私は生成技術に嫌悪感を持っているのである。つまり、中途半端に人間の文化を破壊するが、それを完全に置き換えられるほどの能力は有しない。そのような未来の到来を恐れているというのが、私の嫌悪感の正体ではないかと考えている。
みなさんは、新技術についてどのようにお考えだろうか。