放置ゲームから考えるゲームの楽しさとは3 (lemon/20/04/21)
え?今日22日?私がそうと言うまで21日だ!(ドン)
遅れてごめんなさい、サラダチキンとファミチキ食べてる私です
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ということで映画の面白さについて分析しましょう。
まず映画といってもおおよそ3つの要素に分かれるでしょう。それは視覚、聴覚、理解の3つに分けられます。
視覚はもちろん画面に描かれる世界の鮮明さであり、聴覚はそれを引き立て感覚を研ぎ澄ませる役割を果たし、理解はそれを連続させるストーリー/プロットと呼べるでしょう。
例えどれ程素晴らしいストーリーで、最高の音楽だったとしても、画面が二人の登場人物で構成され、それが青と赤のドットであれば面白くないでしょう
音楽のない映画も悪く有りませんが、かっこいい戦闘シーンは金属音の合奏となるでしょう。
ストーリーがなければそれは映画ではなくある種の抽象画のはずです。
では、放置ゲームはこれの何を満たしているでしょうか。
実は、何も満たしていないのです。
放置ゲームたるために、グラフィックの良さは必要ありません。
音楽がなくとも成立してしまったのがクッキークリッカーでしょう。
ストーリーもまた、必要ありません。
では、一体何が面白いのか。
映画にはもう一つ、もう一つだけ、ゲームとは圧倒的に違う所があります。
それは「勝手に進んでいく」というところです。
つまり、観客は何をせずともプロポーズは進み結果が分かりそして死別するのです。
元々映画とはそのようなもので、要は人間の営みを覗く主体として観客が位置されているのです。
一人称視点で終わる映画では、魅力が伝わらない可能性があるということなのです。
そう、勘の良い方は気づいたでしょう。映画と放置ゲームの共通点として「それに関わる当人ではない視線から、勝手に進む出来事を観察する」が挙げられることに。つまり「受け手の位置付け」が従来のゲームと異なるのです。
従来のゲームでは物語の中心人物を操作したり、あるいは関わったりすることで「登場人物」としてのプライヤーが存在していました。ところが放置ゲーはどうでしょう?プレイヤーは当人でもなんでもなく、或る種の神として世界を覗き見てるだけなのです。それこそ神ゲーなわけです。
次回、神ゲーについて分析し、いよいよゲームとは何かを突き詰めて行きます。どうぞお楽しみにー
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一行日記:迷走なう。まだ21日、まだ21日…