持論 なぜ推定無罪の原則は浸透しないのか (rush/20/09/04) こんにちは、坂ラッシュです。
最近ArchLinux系であるところのManjaroのKDE EditionをノートPCに入れて遊んでいます、楽しい!
さて、ゆうしゅーな後輩さんが 「逮捕=犯罪者なのか 秋月蒼希」()みたいな持論を展開されていましたので、私も少し持論を述べてみたいと思います。 今回は、エビデンスなしなので、危ない主張です。ご容赦を。
まずこの記事を読んでいる諸兄なら、日本の(というか大体どこでも)刑法理論には、推定無罪の原則というものがあることはご存知でしょう。
これは、裁判において判決が確定するまでは無罪と推定され、犯罪者として取り扱ってはいけないという原則です。
しかし、日本ではどうでしょうか。
「〇〇容疑者」と報道され、しかも事実を認めていない場合でも巷では「どうしてあんなことやっちゃったのかねぇ」なんてインタビューが流れる始末です。
マスコミもまるで有罪であることが確定しているかのような言いぶりです。(確定していることが明らかでも、あまり罪を取り上げ、人格や作品を否定するような報道はなされるべきではないと考えますが)
この原因を探ってみましょう。
後輩さんはこれについて「マスメディアの報道」と「初等教育機関教育者の知識不足」が原因であるとしています。
全く持って同感です。
この他に幾つか原因を考えてみます。
理由1. 99%有罪の司法
日本の司法は、起訴されると99%の確率で有罪となります。
これより、〇〇被告、〇〇容疑者(被疑者とほぼ同義です)のことを、有罪であると推定しても差し支えないという考え方ができそうです。(駄目だと思いますが)またマスコミもそのようなスタンスを取っているように思われます。
そもそも、この有罪率の原因として、本来、疑わしきは罰せずという原則が司法において適用されますが、実際には疑わしきは罰せよとなっているという問題があります。
これは起訴するかどうかを決定する検察官が、確実に有罪に出来ると考える者のみを起訴するからであり、また裁判官はそれを信頼しているからなのです。
本来はこれも不適切だと考えますが、仕方ないのでしょうか。
ところで、起訴率を見てみましょう。これは50%程度らしいです(交通犯罪を除き)。なるほど、逮捕されて検察に送られれば、50%の確率でほぼ有罪と言えるのですね。(つまり実質有罪率は、逮捕した人をすべて送検すると仮定しても50%程度!!)
起訴され、被告人となっている〇〇被告を有罪と仮定するのには一定の合理的な理由があれど(許されるとは思っていません)、こうなってくると容疑者が有罪であると仮定することは到底できないことが明らかとなるでしょう。
理由2. フィクション作品の影響
繰り返しますがエビデンスはありません。しかしお茶の間にはこの影響が強いように感じます。
某小学生名探偵アニメや、数多くの刑事ものを見ているとわかりますが、明らかに立証不可能な事件や、証拠不十分な捜査で最後に犯人(被疑者)が自白をして作品が終幕する、という場面を度々目にします。
作品上はもちろん被疑者であり、犯人であり(被疑者のことを犯人と呼ぶこともしばしばありますね!)、まず冤罪はありえないのですが、現実はそうではありませんね。
いつもあの類のドラマを見ていると、明らかに起訴できない OR 有罪にできないだろこれっていう案件があります。
でもこれを違和感なく見ている聴衆からすれば、もちろん被疑者は犯人であり、有罪なのでしょう
このような被疑者 = 犯人が成り立ち、しかも裁判でも多分有罪 という確固たる「推理もの」の土台も、また被疑者 = 犯罪者という流れ・大衆意識を作り出しているのかもしれません。
ちなみに、私は「少女を描いた作品のせいで性問題が起きるから規制すべきだ」みたいなタイプの表現規制を嫌うタイプの人間なので、このように推測しながらも当然エビデンスもないことを前提にして変な主張はしませんし、仮にあったとしてもこれを理由に「刑事ものを放送するべきでない」みたいなことを言うつもりは毛頭ありません。
でも、刑事ものの最後に「この作品はフィクションであり〜」という注釈と一緒に
「現実の司法においては推定無罪の原則が適用され、被疑者は有罪が確定するまでは無罪であるものとして扱われます。
裁判は自白証拠のみならず物的証拠を基本として進められます。
また、現実の事件は、作品とは異なり被疑者が有罪となるとは限りません。」
みたいなテロップが出ても面白いのかなとは思います。(しかし繰り返しますが、これが強制されるべきだとは主張しません。)
g以上、マスコミや教育の問題の他にこのような原因があるのではないかな、と考えを巡らせてみました。
何度もいいますがこれはエビデンスを持たず、戯言であります。
また、やはり何よりも各人が教養を持ち、正しい視点でマスメディアのニュースを見られるようになることが一番ですね。
床屋談義をわざわざ読んでくださり、ありがとうございました。