2023年4月読書メモ(yasumi)
心=意識=認知?? このあたりの基本情報を知りたくなってきた。
これまでは臨床心理学・精神分析的な「心」に興味があったが、別の方向からも考えてみたい。
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「意識=私」は能動的なものではなく、受動的な錯覚に過ぎないという「心の地動説」を提唱。
脳の神経回路網=ニューラルネットワークのモジュールを「小びとたち」に例える。
「私」たちが主体的に行うと思っている「思考」は、無意識下の「小びとたち」が行なっている自律分散計算。
小びとたちは連想ゲームを並列に繰り返すが、隣の小びとの声が多いと自分は黙ってしまう(側抑制)。
ひらめくような思考も、複雑な意思決定も、小びとの連想ゲームの結果を「私が考えた」と錯覚する点は同じ。
「意識=私」は、エピソード記憶をするために、進化的に生じた。116-117
心を持つロボットは作れるとして、最後は東洋的思想や自然崇拝とのつながりにまで展開していく。
「私」が〈私〉だと思っているものは錯覚にすぎない、という諦観は、すべてをコントロールできるはずだという資本主義的な考えとは違って、確かに東洋思想や仏教に近いと思う。
「学習」の際、脳内で形成されるのはフィードバック制御器(場当たり的+誤差学習)と、フィードフォワード制御器(内部モデル、逆モデル)
学習初期の誤差を最小にするように内部モデルが学習される→繰り返すことで予測精度があがり、誤差がゼロに
個人的に一番ショックだったのは「運動は苦手なんだけど、考えるのは得意です」という主張は成り立たないんだな…という点(運動下手なら思考下手。順モデルを逆モデルの獲得に活かすための訓練とイメージトレーニングが不足、もしくはやり方がまずいのか、その両方?)。
ニューラルネットワークのつながり方や発火しやすさは、学習によって後天的に変わっていく。つまり、小びとたちの体験=外界とのインタラクション、脳内の記憶とのインタラクションの2つ、に左右される。
抽象(メタ)→で検索し、細谷功さんの『具体と抽象』を読んだことがある。
観察→で検索し、佐渡島さんの『観察力の鍛え方 』がヒット。
ということで両者の対談である本書を読み始めた。うーん。
うーんと思ったのは、哲学思想で対談本だと読みやすいが、実用で対談本だと「体験」に寄りすぎる印象。
著者ともにビジネスマンで、「言葉のズレ」を擦り合わせることを大前提にしている。
私は、「言葉のズレ」る不思議や、ズレたまま一緒に居られる可能性を考えるほうが面白いと感じる。
抽象⇄具体と、目的⇄手段の対比。
今やっている事が「手段」だと捉えられれば、より抽象度をあげた「目的」が考えられる。
「抽象度=上位目的=自由度」をあげることができれば、考えが広がる。
ピラミッド型で考える
横軸が具体。情報やデータ、知識の幅や量で底辺の大きさが変わる。
縦軸が抽象度。具体と抽象の距離が遠いほど、大きなピラミッドができる。
具体的(出発点)→抽象化(類推)→具体化(置き換え)という放物線で考えると良い。
佐渡島さんのテーマは「物語」による感動(感じて、動く)。
★以前から思うのだが「よくできた物語」は、思っているほど動機づけにならない
★「耳すま」を見て、小説を書き始めるだろうか?「宇宙兄弟」を見て、ランニングを始めるだろうか?
★よい作品は内省も起こすが(ノーマン)、見たからといって実行するわけではない。動機づけまで持っていくには、どうしたらいいのだろう?
★ひとりノリつっこみになるが、そこでピラミッド型が使えるのかも。
具体的(出発点)→抽象化(類推)→具体化(置き換え)
★物語のシチュエーションをなぞることはできないが、その教訓を抽象化し、自分に置き換えができれば、「動機づけになった」と言えるのかも。
これ面白そう『ゲームで学ぶ探索アルゴリズム実践入門~木探索とメタヒューリスティクス』単行本(ソフトカバー) – 2023/2/18
「今日実際に話されているおよそ三千の言語のうち、文字をもっている言語はたったの七八(オング、『声の文化と文字の文化』)