2023年3月読書会メモ(yasumi)
週刊ポストのグラビア連載をまとめた本。
写真を撮る太田真三氏と、文章を書く松岡正剛氏との無言のかけあいも見どころ。
テーマは日本文化。グラビアなので(私は電書だったけど)紙のほうがよさそう。
ハンコに「ハーッ」と息を吹きかけたあの日、
軒をつたう雨粒が石畳を穿つようす、
「三尺の庭に上野の落葉かな」という句のうつくしさ、
そういうものをいいなと思える人におすすめ。
忘れていたことをたくさん思い出せるから。
以下、あとがきより引用。
「ちょっと写真に押されるなと感じた。そこで一旋、私も動きだした。俳諧に倣うことにしたのである。文章の展開に俳句の例示をいろいろ入れこむこと、およびもっと倣いにしようと思ったのは「芭蕉の方法に肖る」ことだった。」
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松岡氏は、芭蕉のディレクションのうちとくに次の見方に大きな影響を受けているとのこと。
「実に居て虚に遊ぶことはかたし」
「虚に居て実を行ふべし」
『乳房のくにで』深沢 潮
普段の自分は絶対に選ばない本。ジャンルはフェミニズム本。
小説というより、当事者が体験した社会課題を小説の形で世に訴えるような本だった。
読後に著者の別の本に関するインタビューを見た。立場が違い、関心が薄く、その問題や専門用語を一切知らない人にも伝わる文章を心がけている、というような記述があり、その狙いは成功していると思った。
面白かった。著者は当時ポストモダン哲学が趣味だったそうで、「ケアとセラピー」の話にときどき挟まれる「暇と退屈」や「中動態」などの哲学や、文化人類学などの言葉との関係づけも良かった。
依存と共同体について。
全部自分でやろうとしないで、人にケアされることをお互いに受け入れると、「いる」が可能になる。コミュニティのメンバーになるとは、「背中を掻く右手になることであり、右手に掻かれる背中になることなのだ。222p」
メンバーの語源は、ラテン語の「menberum」、体の一部とか手足という意味がある。
効率化と金儲け「会計の声」がケアを損なう。
「ただ、いる、だけ」のケアは「会計の声」と相性が悪く、代わりにセラピーが要請されがち。
「ただ、いる、だけ」に市場価値を求める行為は、「サッカー場の外の公園で一日絵を描いていた人が、「お前、今日、一点もゴール決めてないよな」と言われるようなものだ。322p」
とても読みやすいです。インタビュイーは「一般意志2.0」と「観光客の哲学」の韓国語版訳者の安天氏。
『一般意志2.0』の提案は、熟議には限界がありデーターベースで補う必要があるということ。
↑ただし、民主化・人権意識・多様性が十分に確保された社会でのみこの提案は機能する。
ようは「組み合わせ」が大事。晩年のフーコーも"調和の可能性”を提示した。
韓国語には「熟議」にあたる言葉が無いと安天氏。
柄谷の「くじ引き」とは対比的。←東氏にとってくじ引き論は一種の「否定神学」。
柄谷-高橋の他者観は究極的には神、東-ローティの他者観は”近くにいるペット”。
「誤配」は無責任さ・軽薄さ・不真面目さの積極的な捉え直しである(yasumi.icongood!)。
昔と変わった点は、誤配は放っておくとむしろ生まれにくい。能動的誤配が必要。
リオタールの『ポスト・モダンの条件』出版40周年に寄せた講演も収録。
リオタールのウィトゲンシュタインの「言語ゲーム論」の理解には不足があり、↑この本で科学的な知の未来を読み誤ったと東氏は考察する。
全体的に、「人を賢くする道具」がオーバーラップしました。
心=意識=認知?? このあたりの基本情報を知りたくなってきた。
ノーマンのいう認知科学の「心」は、臨床心理学の「心」とは違いそう。
ちなみに著者の小沢牧子さんは、業界の権威である河合隼雄の言った「心の専門家」に対して、「心の専門家はいらない」とこの本で言っている。
面白そう?1:『心と認知の情報学』←どうしてタイトルに心が入っているのか。