無知の知
しかしわたしは、彼とて別れて帰る道で、自分を相手にこう考えたのです。この人間より、私は知恵がある。なぜなら、この男も、わたしも、おそらく善美の事柄は何も知らないらしいけど、この男は、知らないのに何か知っているように思っているが、私は、知らないから、その通りにまた知らないと思っている。だから、つまり、このちょっとしたことで、私の方が知恵があることになるらしい。つまり、私は、知らないことは知らないと思う、ただそれだけのことでまさっているらしいのです。(ソクラテスの弁明より) この時代にとっての無知とは何か?
無存在の存在を認めると言うことはいつからできるようになったのだろうか
例えば、ゼロと言う数字は5世紀のインドで発見されたと言われている
ゼロが無存在の存在という発見とすると、800年近く前にソクラテスは無知の知を説いたとされている
「知らないことを知っている」と言うのは、この時代におけるかなり最先端な知識だったのではないかと想像できる
ほとんどの人が、この世は知っていることで構成されており、知らないことがあるとは想像もしていないと考えていたのではないか
人は、知らない=恐れと感じる
知らないことを受け入れる器がまだ人間に備わっていないため、この頃の人間にとっては「知らないことを認めること」は耐え難いものだったのかもしれない
その結果誕生したのが宗教だったのではないか
なぜそれまで無知の知が生まれなかったのか
現代の紙の祖パピルスは紀元前3000年にはすでにあったというが、ソクラテスの時代の言語古代ギリシア語の誕生は紀元前800年とされている 言語や紙を使って考えると言う行為をするのは、まだまだ難しい技術だったのかもしれない だから、難しいことは簡単に考えるのを諦めるし、それを受け入れる心の器も存在しなかった
そして、考えるのをやめたが一方で適当な理由をつけて自分を安心させたのかもしれない
自問自答の力量がなかった
自問自答にはある「力量」が必要です。
ここでいう「力量」とは、考えると言う行為そのものの力だとして良いと思う ちなみにソクラテスは言葉を文章にするとそれは真実ではなくなると思っていた これは、この時代の書き言葉が発達しておらず、話し言葉を正しく書き言葉に変換する技術がなかったためにそう思わせたのだと思う
ソクラテスの対話に耐えられる者は少なかったのではないか
誰しもが時間があるわけではない
忙しい中「それはどういうことですか?」としつこく聞かれたら誰だって毛嫌いするだろうえむおー.icon