エドワード・クック
(Sir Edward Coke, 1552-1634)
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1578年にバリスタ(弁護士)の資格を取得、庶民院議長、法務総裁(Attorney-General)などの要職を歴任。当初は国王大権の支持者であった。しかし1606年に民訴裁判所首席裁判官に任じられると、国王、宗教裁判所、エクイティ―裁判所などに対し一貫してコモン・ローおよびコモン・ロー裁判所の優位を強く主張するようになった。1616年に裁判官を罷免されるが、1621年に庶民院議員となり、権利請願(Petition of Right)の起草にあたった。
Prohibitions del Roy 1608, 12 Co. Rep. 63, 77 E. R. 1342
(末延三次「サー・エドワード・コウク〔名裁判官物語〕 」法学セミナー2巻40頁(1956)より)
1606年6月20日、クックは民事訴訟裁判所の首席判事に任命された。・・・
クックは就任すると間もなく、ある重大問題に立ち向かわねばならぬことになった。それは、これまで数世紀も続いたコモン・ローと教会法との管轄の争いである。
中世では牧師の主な収入は、タイズ(tithe)すなわち十分の一税であった。土地からの収益すなわち穀物、家畜の子、羊毛、果物、蜜等の十分の一を取り上げるのである。ところが経済の発達につれ、金銭をもって現物に代える協定を結ぶことがはやってきた。いわゆる特殊十分の一税(modus decimandi)である。しかも15世紀後半からイギリスの農業経済に変革が生じ、これまでイギリスの中心だった農作物は減産され、軽視されていた羊毛のようなものが重要性をもちはじめた。さらに宗教改革の結果として、タイズそのものの合理性を疑う者も現われ、貨幣価値の下落と相まって、農民は自分たちに有利な金納協定を主張するようになった。そしてコモン・ロー裁判所の見解では、右の協定は教会と農民との間の契約によるものであるから、現物払いの場合と違って、われわれの管轄に服すべきである、とされた。
1604年にホイットギフトの後を襲ってカンタベリの大司教となったバンクロフトRichard Bancroftは、牧師たちの収入をふやす一手段として、タイズの金納は、協定の存在がはっきりと証明されぬ限り認めぬという方針をとったために、つぎのような事態が起こった。すなわち、牧師が教会裁判所に訴えてタイズの現物払いを請求する。農民は、金納協定を主張するが、協定はたいてい口頭だからなかなか認めてもらえない。そこでコモン・ロー裁判所に対して、教会裁判所の審理中止または手続停止の命令を求める。で、もしも牧師がコモン・ロー裁判所の方へ行くと、ここは陪審裁判であり、陪審員は被告と同じ農民だから勝ち目はまずないのである。
この問題は16世紀末から17世紀にかけて重大化した。1600年には司教連がエリザベスに善処法を要望し、1605年には大司教バンクロフトが枢密院に25条からなる長文の陳情書を差出し、禁止令状(writ of prohibition)の非を鳴らした。コモン・ローの判事連も負けてはいず、翌年の春に答弁書を提出、我々は法律上の義務を果たしているに過ぎない、我々のすることがわるいのなら、議会の立法でやめさせたらよい、そうすれば我々も助かる、と応酬した。
・・・クックは禁止令状を一向に止めないので、問題はついにジェイムズ1世司会のもとに、クックおよびバンクロフトを双方の代表者として討議されることになった。1608年11月10日、日曜日のことである。議論の中心はやはりタイズである。
(以下、中村による試訳、クックによる判例集より)
カンタベリー大司教バンクロフトは、十分の一税その他の宗教的事項に関する制定法の解釈、もしくは高等宗務官裁判所(high commission)に関するエリザベス女王初年の制定法に基づいて、教会裁判所が管轄権を持つ場合、また法に権限が明示されていないいかなる場合についても、国王自らが裁決を行うことができると国王に対し申し述べた。裁判官は国王の代理人に過ぎないのであるから、国王は裁決しようと欲する事項を裁判官から取り上げて自ら裁決を行うことができる。さらに大司教は、このことはそのような権限が聖書における神の言葉により国王に帰属しているという神聖さにより明らかである、と述べた。
これに対し私は、イングランドの国王裁判所の全裁判官および財務府の貴族の面前で、彼らの明らかな同意を得て、次のように答えた。刑事すなわち大逆罪や重罪についてであれ、または当事者の相続、不動産もしくは動産に関する当事者間の訴えについてであれ、いかなる事件についても国王自らが裁判を行うことはできず、イングランドの法と慣習に従って司法裁判所により決定され裁かれなければならない。・・・国王は星室裁判所に出席することがあるが、それは特定の問題につき裁判官に諮問するためであって、裁判を行うためではない。同様に、王座裁判所においても、国王が同席しても裁判所が判決を下すのである。・・・したがって国王はいかなる国王裁判所からも事件を取り上げ、自ら裁決を下すことはできないのである。・・・
裁判官たちも国王にこれに同意する意見を具申した。
すると国王は、「法は理性に基づいており、そのような理性は裁判官と同様、朕も他の者も持ち合わせているではないか」と言った。
これに対し私は次のように答えた。「神が陛下に卓越した英知と高邁なる資質を授け給うたのは事実でありますが、陛下はイングランド王国の法制度に通じてはおらず、臣民の生命、相続、動産や財産に関する訴訟は、自然的理性によって決せられるものではなく、人為的理性と法的判断によって決定されるものであって、その法たるや、これを習得するまでに長年の研究と経験とを必要とするものであります。法は臣民の事件を裁くための黄金の杖と秤であり、陛下を安全と平和のうちに守護しているのです。」
これに対し国王は大いに怒り、それでは自分は法の下にあることになり、そのように断言するのは大逆罪に該当すると言った。それに対し私は、「ブラクトンいわく、『国王は何人の下に立たざるといえども、神と法の下に立たざるべからず』」と述べたのであった。
(末延三次・前掲43頁より)
その後、法務次長ベイコン(Francis Bacon)などをも巻き込んで、1610年までコモン・ロー裁判所と宗教裁判所との間の論争は続いたが、ジェームズ1世は結局クックの意見を採用した。
このようにしてクックは、イギリス法を変更しうるのは議会だけであること、裁判をなしうるのは専門の裁判官だけであることを、おそるべき博学と勇気と執拗さとをもって、主張しとおしたのであった。ダイシーAlbert Venn Diceyが、「クックの議論のように衒学的な、技巧的な、非歴史的なものはない」と評した言葉は全然当たらないわけではないが、クックが、幾多の不利な先例に拘わらず、王権神授説を奉ずるジェイムズ1世およびその側近の俊秀な学者たちを向うに廻わして、敢然その主張を貫徹したことは、偉とするに足りるであろう。ダイシーも、さきの言葉に続けて、「しかし、いかに正しい議論でも、いかに明敏な政治的手腕でも、この偉大な首席判事の頑固な誤謬によって強行された理論ほど、憲法の存立自体にとって、より肝要である規範を樹立したものはかつてない」といっているのである。クックこそは、英米法における法の支配の観念の、生みの親であった。
Edward Coke, Second Part of the Institutes of the Laws of England 45 (1628)
1225年のマグナ・カルタ 29条1215年のマグナ・カルタの39条と40条とをあわせたもののクックによる注釈
堀部政男「英米の法律家-人とその思想 サー・エドワード・クック(その3)」法学セミナー1969年11月号96頁より
(1) いかなる自由人も・・・〕  これは、隷農に及ぶ。ただし、彼らの領主との関係を除く。というのは、かれらは、かれらの領主との関係以外では自由だからである。『提要』第1部189頁参照。
(2) いかなる自由人も・・・〕  人とは、両性、すなわち男女に及ぶはずであるけれども、本条は、公爵夫人、伯爵夫人および男爵夫人に及ぶものと定められ、かつ宣明されているが、侯爵夫人および子爵夫人は除外されている。しかし、それにもかかわらず、侯爵夫人および子爵夫人もまた、本条の範囲内に含まれる。
本条にもとづき、1つの根からのごとく、イギリス法の多くの実り豊かな枝がはえてきたのである。
したがって、まず、この真正の意味が理解されるべきであって、その後において同条がいかに宣明され解釈されてきたかが理解されるべきである。まずはじめに、よりわかりやすくするためには、ことばの真の構成および関連に従って、本条をいくつかの枝に分けることが必要である。
本条は、9つの個々の枝を含む。
1.何人も、国土の法によるのでなければ、すなわち、イギリスのコモン・ロー、制定法、または慣習法によるのでなければ、逮捕されまたは拘禁されることはないということ〔になる〕。というのは、国土の法により、というこれらのことばは、本条のおわりのほうにあるけれども、本条のなかのそれ以前のすべての事項にかかわっているのであり、また、このことは、人の身体の自由というものがその後に続いているすべての残りのものよりも人にとっては貴重であるので、第一次的な地位を有するのであって、それ故、以下に示されるように、かれが、侵害を受ける場合には、本条において法により救済されるのはしごく当然だからである。
・・・
(4) 自由について〕  リベルターテス、すなわち、自由という、このことばは、3つの意味をもっている。
1.まず、すでに述べられてきたように、それは、王国の法を意味し、その点においてこの憲章は、自由の憲章と呼ばれる。
2.それは、イギリスの臣民が有する自由を意味する。たとえば、イギリスの仕立て屋の同業組合は、条例を制定する権限をかれらの設立勅許状によってもっていたので、同組合のあらゆる組合員は、その織物の半分を当該同業組合の拘束を受けない、ある織物職工によって仕上げさせなければならず、それに違反すれば、10シリング等を没収するという条例を制定した。ところが、次のように判示された。この条例は、臣民の自由に反するので、コモン・ローに反する。というのは、あらゆる臣民は、かれが望むところのいかなる者によってもその織物を仕上げさせる自由をもっているからである。・・・
3.自由は、重罪人、法外放置者、およびその他の同種の者の動産のように、国王の賜物として臣民が有する特権、または、難破物、遺棄盗品、迷いでたもの、およびその他の同種のもののように、臣民が取得時効によって請求する特権を意味する。
・・・一般的に、すべての独占は、臣民の自由に反し、また国土の法に反するので、この大憲章に反する。
・・・
(以下、中村による試訳、ただし、平良『教材アメリカ法入門(4訂版)』47頁(鳳舎、1984年)を参照した。)
(8) 国土の法によるのでなければ〕  国土の法によるのでなければという言葉の正しい意味と解釈については、エドワード3世37年法律第8号を参照。同法では、「国土の法による」という言葉は「適正な手続なくして」と表現されている。同法では、大憲章に含まれている事柄であるが、何人も適正な手続なくして連行され、収監され、自由保有の土地を奪われることはないと規定されている。適正な手続とは、善良かつ法に従った人々大陪審のことをさすの正式起訴または告発によってということであり、そのような行為は適正な方法、すなわちコモン・ローの訴訟開始令状によるのである。
コモン・ローの適正手続による場合を除いて、答弁のために連行されることはない。
・・・本条は、単にイングランドの古法を宣言しただけのものであると考えられなければならない。・・・