決闘裁判の記録(13世紀~19世紀前半)
★ Jordan v. Simon (1219)
LANGBEIN, LERNER & SMITH, HISTORY OF THE COMMON LAW 30 (2009).
のっぽのジョーダンは、ダフィールドのサイモンが、国王の平和に反し、害意を持ちかつ重罪として(in felony)、ストーリングバラのジョフリー、サイモンの息子であるウィリアム、およびサイモンの2人の娘とともにジョーダンの姪であるハウィーサの家にやってきて、家の中に入るや否やドアを閉め、サイモンはハウィーサの首をひもで絞めて殺害したと訴えた。ジョーダンは、サイモンらが家に入ってドアを閉めたのを目撃し、家に近づいて中に入れないことが分かると直ちに叫喚告知(hue and cry)を行った。サイモンがこうしたことを国王の平和に反し、害意を持ちかつ重罪としてなしたことにつき、もしサイモンが否定するならば、ジョーダンは身をもって立証するつもりである。・・・
サイモンは出頭して、国王の平和を破り、重罪を犯し、ハウィーサを殺害したことについて一言一句これを否定したので、裁判所はこれについて判断する。
本件の訴えは適法になされたことが宣誓証言により示されたので、両当事者の間で決闘を行うと決められた。両当事者は、聖マリアの清めの祝日2月2日から8日経った後の次の月曜日(1219年2月11日)に出頭すべきである。
サイモンは有罪となり、縛り首(縊首刑)に処せられた。
縛り首になった者の財産に関して調査を行うべきである。訳注:重罪で有罪判決を受けた者の財産は国王に没収された。
https://scrapbox.io/files/6024c2ca0a97ba001cc8e00f.jpg
●13世紀に行われた決闘の様子
Walter Bloweberne(左)は、Hamon le Starre(右)に対して決闘裁判を行い、敗れたHamonは、重罪で有罪が確定したことにより、直ちに縊首刑(縛り首)に処せられた。
The History of Common Law, at 32の解説を参照した。
● 決闘裁判の回避
Daniel Klerman, Women Prosecutors in Thirteenth-Century England, 14 Yale J. L. & Humanities 271, 287 (2002)
https://digitalcommons.law.yale.edu/yjlh/vol14/iss2/2/
13世紀(1194~1294)の殺人罪(Homicide)の私訴(Appeal)347件のうち、女性によるものは223件で、全体の65%を占める。
★ Ashford v Thornton * 1818 106 ER 149
光安徹「中世イングランドにおける決闘裁判」成城法学42号73頁、119頁(1993年)より
その後四〇年間、この制度の存在は人々の記憶から忘れ去られたが、一九世紀になって再び決闘の申し出が行われた。これが一八一八年のアッシュフォード対ソーントン事件である。一八一七年五月二七日午前七時頃、ウォリック州のサットン・コールドフィールド教区のある水の淵から、メアリー・アッシュフォードという少女が死体で発見された。そこから四〇ヤード離れた叢の上に人の形の跡と血痕があり、そこで強姦された後に水の淵に運ばれ、水の中に投げ込まれたことによる窒息死であった。前日の夜ダニエル・クラーク邸での舞踏会で共にいたソーントンに嫌疑がかけられ、彼は正式起訴で審理されたが、陪審は無罪の評決を下した。そこでメアリーの兄ウィリアム・アッシュフォードが殺人私訴を提起し、事件は一八一七年10月の聖ミカエル祭の期間に王座裁判所に係属した。アッシュフォードは、犯行の状況を説明し、ソーントンが国王陛下の平和に反して妹を殺害したこと、そして彼がこれを否定するならば、裁判所の裁定するところに従って、重罪と殺人罪を証明する準備があると述べた。これに対する被私訴人の抗弁は一一月一六日に行われた。彼は無罪を主張して、そのことを自らの身体によって防御する準備があると述べ、白い豚革の大きな長手袋の一対を弁護士から受け取ると、一方を身に付け、他方を法廷の床に投げ付けた。私訴人は、彼の挑戦を受けるべく手袋を拾い上げようと一瞬前に出たが、彼は自制し、手袋は被告人の弁護士の提案よって裁判所に保管された。一二月二一日に私訴人の反対抗弁が行われ、彼は犯行の状況を詳述し、極端で強い有罪の推定があるため、この私訴において被告人に決闘裁が認められるべきでないと主張した。一八一八年一月のヒラリー開廷期において被私訴人は再び抗弁し、私訴人の反対抗弁以上により強い無罪の推定が存在すると主張した。次の期日は二月六日であった。そこではブラクトンが引用され、血まみれのナイフを持って死体の上で発見された場合のように強い有罪の推定が存する場合には、被告人は防御できず、即座に刑が執行されることが明らかになった。しかし、その場合被告人は如何なる審理も認められず絞首刑に処せられることになる。そこでグランヴィル、ブラクトン、フリタ (Fleta)、ストーンフォード (Staunford)といった権威的典籍が調べられ、結局強い有罪の推定が存する場合、ブラクトンの当時においては一切の審理なくして即座の死刑執行であったが、ストーンフォードの時代以降は被私訴人から決闘裁判という審理形態の選択権を剥奪するにとどまることが確認された。四月一六日、四人の裁判官は全員一致で被私訴人に決闘裁判が許されることを判決した。私訴人の反対抗弁は、被私訴人から決闘裁判を剥奪する極端で強い有罪の推定が存するというには不十分であるというのがこの判決の内容である。首席裁判官エレンバラ卿は以下のように述べている。「一般国法は決闘裁判を支持する。我々の義務は、ある法を宣言することであり、我々があるべきと望む法ではない。従って、この審理形態に対する如何なる偏見があろうとも、それは尚国法であり、裁判所はそれを支持する判決を下さねばならない。」 四月二〇日私訴人は私訴を取り下げ、決闘は行われなかった。被私訴人は形式的に国王訴訟で再び罪状認否され、以前の無罪判決を抗弁し、釈放された。これがイングランドの法廷における最後の決闘の申し出である。
その一年後の一八一九年に、ほぼ同様の性質の私訴が提起された。是に於て、議会はわずか一日のうちに第一、第二、第三読会を経て決闘の廃止法案を成立させた。庶民院における議決は三月二二日、六四対二の多数で通過した。この法律は殺人私訴法(Appeal of Murder Act)と呼ばれ、一八一九年七月二二日に国王の勅裁を経て正式な法律となった。「殺人罪、反逆罪、重罪及びその他の犯罪の私訴と、その中の訴訟手続きの方式は抑圧的であると判明し、 あらゆる訴訟で決闘裁判は使用に適さない裁判形態であるが故に、これは完全に廃止されることが望ましい。従って、以下のこと(等)が制定された。この法令の通過からそしてその後は、反逆罪、殺人罪、重罪及びその他の犯罪の凡ての私訴は終止し、終結し、無効とされるべし。この 「法令の通過後は如何なる時でも、何人も或は何人達も、他の如何なる人或は人達に対する反逆罪(等)の私訴を開始し、受け、起こすことは法の認めるところではなく、今後このような凡ての私訴は、これに反する法、法律、慣習に拘らず、完全に廃止されるべし。」この法律により、決闘裁判は権利令状を含むあらゆる訴訟において完全に廃止された。それがイングランドに導入されてから七五〇年後、そしてかかる制度が実務上使用されなくなってから四五〇年後のことである。
★ モンテスキュー『法の精神』 (1748年)野田良之(他訳)岩波文庫版(下)
第6部第28編「フランス人における公民の法律の起源と変遷とについて」
第18章「決闘による証明はいかにして広まったか」180-181頁
一方において、聖職者はすべての世俗的事件において人が教会と祭壇とに頼るのを見て喜んでいた。そして、他方において、自尊心の強い貴族層はその権利を剣によって支えることを好んでいた。・・・
決闘による証明の選択において、国民はその戦士的天性に従っていたのである。なぜなら、決闘を神の審判として設けておきながら、同じく神の審判とみなしていた十字架、冷水および熱湯による審判は廃止されていたからである。 
第23章「裁判上の決闘の法慣例について」192頁
人間というものは、根底において合理的なもので、自分たちの偏見をすら規則のもとにおく。裁判上の決闘ほど良識に反するものは他になかった。しかし、そうだとしても、その実施はある種の思慮をもって行われた。
第25章「裁判上の決闘の慣行に加えられた制限について」197頁
戦争があり、そして、血族の一人が打合いの手袋を投げるか受けるかしたときは、戦争の権利は消滅した。当事者が裁判の通常の進行に従うことを望んだものと考えられたのである。そして、当事者の一方が戦争を継続するようなことをすれば、その当事者は損害を賠償することを判決で命ぜられたことであろう。
このように、裁判上の決闘という手続きは、それが一般的な争いを個別的な争いに変え、裁判所に力を取り戻させ、そして、もはや万民法(≒国際法)によってしか支配されていなかった人々を公民(=国民・市民)状態に戻すことができたという利点をもっていた。
極めて気狂(きぐる)いじみた仕方で取り運ばれる無数の賢明な事柄があるように、極めて賢明な仕方で運用される気狂いじみたこともある。