コモン・ローとエクイティの対立
Magdalen College Case, 77 Eng. Rep. 1235 (K.B. 1615)
Earl of Oxford's Case, 21 Eng. Rep. 485, 576 (Ch. 1615)
事実
1571年の法律により、大学が不動産を譲渡することが原則として禁止されていたにもかかわらず、ケンブリッジ大学マグダレナ校校長ロジャー・ケルクは、クライストチャーチの土地建物および庭園を1574年12月13日に女王エリザベス1世に1年15ポンドの永代使用料により譲渡し、1575年1月29日に女王は事前の取り決めに従って、この不動産を商人ベネディクト・スピノーラに譲渡した。1580年6月15日にスピノーラはこの不動産をオックスフォード伯爵に譲渡し、その後この不動産はオックスフォード伯爵家が相続してきた。
オックスフォード伯爵は、1583年5月9日にこの不動産に含まれる1軒の住宅をEHに51年間賃貸し、この賃借権がEHからWM、AM、FCと転々承継され、FCは1610年12月29日にこの住宅を2年間ジョン・ウォーレン(王座裁判所における訴訟の原告)に転貸した。ところが、当時のマグダレナ校校長であるバルナビー・ゴックは、1606年まで15ポンドの使用料を受け取ってきたにもかかわらず、FCの賃借権、さらにはオックスフォード伯爵の持つ不動産すべてを取り戻そうと考え、1607年2月にこの住宅をジョン・スミス(王座裁判所での被告)に6年間賃貸する契約を結んだ。ジョン・ウォーレンはジョン・スミスによって住宅から閉め出されたために、同人に対し住宅の明渡しを求めて王座裁判所に提訴した。
裁判の途中でジョン・ウォーレンの賃貸期間が終了してしまうが、彼は特別評決を求めて争い、結局王座裁判所で敗訴した。しかし、この判決が下される前に、第18代オックスフォード伯ヘンリー・ド・バラは、バルナビー・ゴックを相手取り、大法官府裁判所に提訴した。
判決
王座裁判所のエドワード・クック裁判官は、「女王エリザベス1世が国王大権により一般法の適用を免除されるかどうか」が本件における争点であるとし、議会制定法に国王大権について触れていない場合、すべての人にその法律を適用する趣旨であり、国王であっても免除は認められないとした。また、国王は本来「正義の源泉」であるはずなのに、本件のように脱法に利用することは到底許されないという。したがってマグダレナ校から女王への売却は無効であり、ジョン・ウォーレンは無権利者であるとした。
これに対し、大法官エルズミアは、国王大権は大法官府裁判所の起源でもあるとしてこれを擁護するとともに、本件ではオックスフォード伯の持つ不動産の価格がスピノーラ以降の開発により1万ポンド以上に増大していることから、これをマグダレナ校が取得するのは良心に反するとした。「大法官府の存在する理由は、人間の行動は多様で果てしないものなので、どの行動にも過不足なく当てはまり、かつ遺漏のない一般法を作ることが不可能であるからである。大法官府はそれがいかなる性質のものであれ、詐欺、信義違反、不正や抑圧について人々の良心を正し、コモン・ローの厳格性を緩和するのである。」
John H. Langbein,Renee Lettow Lerner&Bruce P.Smith,History of the Common Law 333-334(2009)
Glanvile’s Case,72 Eng.Rep.939(K.B.1615)
1615年10月開廷期。フリート監獄の囚人グランヴィルは、人身保護令状により王座裁判所に連れてこられた。フリート監獄の看守は、イングランドの大法官であるエルズミア卿の命令で、フリート監獄に収監されたのだと返答した。・・・そして、その原因を検討すると、彼がフランシス・コートニーに対して得た800ポンドの負債と6ポンドの損害賠償の支払いを命ずるコモンロー裁判所の判決が履行されたことを認めるように命じた大法官府裁判所の判決に違反したために収監されたことが判明した。この負債の根拠は、金の装飾のついたダイアモンドであり、それはグランヴィルによって確かに本物のダイアモンドであるとして販売されたものであるが、実際にはトパーズに過ぎなかった。30ポンド以下の価値しかないのに300ポンドの価値があるとして販売されたので、コートニーはだまされたのである。そこで大法官府は、グランヴィルは宝石を取り返して100ポンドを支払った上でコモンロー裁判所の判決が履行されたことを認めなければならないという判決を下したのである。しかし、コモンロー裁判所の原判決は、誤審令状により(王座裁判所によって)維持されたものであった。
この問題について、王座裁判所はグランヴィルの身柄を解放し、クック主席裁判官は、コモンロー裁判所の判決が下された後に大法官府裁判所で訴訟を行うことは、エドワード3世(治世)27年の法律第1号およびヘンリー4世4年の法律第23号に違反すると述べた。‥・
この釈放の後、大法官は同じ事件についてグランヴィルを再度収監し、グランヴィルは1616年の1月開廷期に人身保護令状を請求し、1616年の5月開廷期に再度釈放された。
注
1616年2月12日に、コートニー、彼の弁護人、およびエクイティー事件における書面を作成した大法官府の書記官に対する王権軽視罪(Praemunire)の正式起訴状が王座裁判所で組織された大陪審に提出された。クック主席裁判官は、陪審員に対して起訴を認めるよう強く促し、認めないなら陪審員を収監すると脅したという。大陪審は起訴することを拒絶した。
当時法務総裁(Attomey General)であったフランシス・ベーコンは、直ちにこの出来事を国王ジェームズ1世に報告し、国王が「国王が絶対的権力を持つ裁判所である大法官府裁判所に対する侮辱」に対応するように勧めた。べ-コンは、国王がこの機会を利用して「君主制の真の原則に基づいて、陛下の権威を確立し、(国王)大権を強化するように」と進言した。その間、エルズミアとベーコンは、クックがどんな根拠を有していようと、それを無視する形で紛争を代理していた。1616年3月16日、国王はベーコンを含む4名の勅撰弁護土に、大法官府の記録を調査し、この問題に対する報告書をまとめるよう命じた。
彼らは、「コモンロー裁判所の判決が出た後に、大法官府で手続を行う慣行の強力な流れ」があることを認めた。
ジェームズ1世の裁決(1616年)
・・・それに対抗するコモンローのいかなる手続きにもかかわらず、朕の大法官、すなわちその時点での国璽の保持者は、朕の臣民に対し、その訴状に基づいて、朕の大法官府の古くから続く実務および手続に従って、その事件の真の理非および正義として長らえるものとして、エクイティー上の救済を与えるのを止められることはないことを朕は意図し命ずる。というのは、すべての裁判官の上に立って裁くことができ、朕の複数の裁判所の間にその管轄権をめぐって生じた相違点をいつでも取り上げて判断することができるのは、国王の配慮および公職に伴う権限だからである。・・・朕はこれについて、朕(国王)を人々の上に立たせた神に対し責任を負う。・・・
Supreme Court of Judicature Act 1873,s.25 1873年最高法院法
(現行法はSeniorCourtsAct1981,S.49(1))
Subject to the provision of this or any other Act, every court exercising Jurisdiction in England or Wales in any civil cause or matter shall continue to administer law and equity on tlle basis that,wherever there is any conflict or variance between the rules of equity and the rules of common law with reference to the same matter,the rules of equity shall prevail.
本法その他の法律の規定に従い、イングランドまたはウェールズで民事の請求原因または事項について裁判権を行使するどの裁判所も、コモンローとエクイティーを「エクイティー上の法原則とコモンロー上の法原則との間に同一事項に関して抵触または相違がある場合には、エクイティー上の法原則が優先する。」ということを基礎として引き続き運用する。
現在の裁判所