資本主義とはなんなのか
幸福とは何かを考えた結果、 #資本主義 について真剣に考えるべきであるという結論に至った。今日はその話をしたい。 資本主義とはなんなのか?
#資本主義 とはなにか。この質問に明瞭な答えは存在しない。そう、驚くべきことに存在しないのだ。 #資本主義 を定義することをさまざまな人が試みて、そしてさまざまな定義が乱立している。ここではいちいち取り上げないので例えば #COTENラジオ の「#234 資本主義の経済学史 〜現代人が知っておくべきレジェンド学者たちの持論!」とかを参照いただきたい。 僕が重要だと思っていることは、僕らはいま自分たちが生きているこの #社会 のことをよくわかっていないということだ。 僕らは当たり前のように毎日スーパーやコンビニで食料品を買って食べて生きている。どこからともなく #貨幣 というものを手に入れ、それを使い商品を購入している。 もし #貨幣 がなくなれば、もしくは目の前のスーパーが商売をやめればすぐに飢え死にしかねない。言うなれば自分が生きるためのあらゆる要素を「外注」して生きている。にもかかわらず、明日の飢えの心配などついぞすることなく毎日を過ごしている。 では僕らは #貨幣 をいかにして手に入れているのか。きっと僕も含むほとんどの人は #労働 をすることによって #貨幣 に変えている。 僕がしている #仕事 は #食料 を作るでもなく、なにか #住居 や #衣類 に関連するような作業でもない。ただカタカタとキーボードをうって、たまに会社の人としょうもない #会議 をしている毎日だ。僕が働かなかったところで誰かの命が失われることは多分ないし、なんなら誰も困らないと思う。しかし、そんな労働をしている僕のもとには、それなりに遊んでもおつりが返ってくるだけの収入が毎月入ってくる。 考えてみればとても不思議なことである。誰の生命にも関わらない #仕事 をしている僕が、なぜ自分の生命を維持するのにあまりある #賃金 を得ているのだろう? 一方で、悲惨なことに文字通り死ぬまで働き続ける人、残業代が出ないとわかっていながら働き続ける人もいる。しかし、なぜ労働者は自分の命を落としかねないと知りながら、何の得もないと知りながら働きすぎてしまうのか?それもごく少数の変わり者ではなく、ふつうの人がふつうに働きすぎてしまうのか?
僕はこうした疑問の答えを探りたいと思った。なぜならば、いまの #資本主義 をそのまま継続したところで人類は幸せにはなれないのではないかと思っているからだ。 労働を続けさせられるメカニズムはなにか
僕はかつて「働かないよりも働くほうが簡単である」と書いたことがある。
労働は悪でありこの世から根絶するべきものだと思っている。しかしわたしは労働を続けるだろう。労働をしたほうが楽な社会である限り。
この #労働 をしたほうが楽という性質はどこからくるのか。僕は上記の記事を書いたときは #社会 規範がその答えだと思っていた。ここで考えは長らく止まっていたのだが、さらに踏み込んでその社会規範が作られるメカニズムはなにかを考えられることに気づいた。 なぜ資本主義を考えるのか
さて、なぜここまで熱意をあげて #資本主義 を考えるのか。端的に言えば「自分の幸せを考える」ためである。 「カネを稼ぐ」以外の行動が存在しづらい社会
まず、この社会ではカネを稼ぐ以外にやることがない。というかカネが関係しないことを探すほうが難しい。これはあまりに当たり前すぎるが、驚くべきことだ。
何かを頑張ることに見返りを求めることが当たり前で、見返りがカネという形態をとっていることが当たり前なのである。そうでなければ異端だとされる(僕からすれば見返りがないと動かない人間のほうが不思議だが!)。
稼ぐのは自分だけなのに、稼いでも幸せになれない
自分の食事も誰かに作らせればいいし、娯楽も誰かが作った作品を鑑賞したりしていればいい。しかし、何をするにもカネがかかる。そしてカネを稼ぐことだけは誰も代替してくれない。
しかし、どんだけカネを稼いだところであなたは大して幸せにはなれない。
カネを持ってりゃ幸せになれるのか?明確に否だ。
金で幸福は買えないのは離婚した #ビルゲイツ をみればわかる。 #ビルゲイツ ほどの大金持ちの例を出さなくても、僕が会ったことあるお金持ちでもみんなそうだ。結局みんな何かこの社会に対して自分ができることを探しているし、お金があるからもうこの社会とは縁を切ってひとりや身内だけで幸せになろう、なんて人はほとんどいない。 まして、いま持っているお金が増えたって——貯金や投資をしたところで——それは #資本 の自己増殖という現象をただ観察し続けているにすぎない。 僕の見立てでは、お金は稼ぐのでも増やすのでもなく、減らすときに幸福が発生し得る。単にモノを買うだけでは十分な幸福は得られない時代かもしれない。しかし、お金の使い方はいまや多岐にわたる。
僕は昔、気まぐれで病気の子どものために使う無菌室を設置するための費用としてお金をいくらか寄付したことがある
なぜ寄付したのかよく覚えていない。
何ヶ月かあと、お礼メールという形で子どもたちの写真を見た。僕は泣いた。人生で初めて、自分が稼いだお金に「意味」があったんだと思えた。
僕はそれ以来、お金を稼ぐことの重要性をやっとまじめに学び始めたのだ。そして今に至っている。