學生運動與日本動畫
富野: 「安保」という言葉が出てきたので、僕の体験を話します。僕は安保闘争の絶頂期のころ、大学 1 年生でした。なので、渦中には入れなかったという取りこぼし感はありました。思想・イデオロギーでものを考えなければいけないということを先輩や世論が言っている。でも僕はデキの悪い学生だったので、右翼とか左翼といったイデオロギーが分からなかったんですね。その後大学では反核運動が頂点に達します。大学 4 年の時に広島・長崎の第 9 回原水爆禁止世界大会を見学しにいったんです。その時の様子は大江健三郎さんが「ヒロシマ・ノート」に書いています。その大会は左翼・右翼、そして国が完全に決別した大会だったんですね。そこでは「ソ連のような共産主義の国が使う核は悪ではなく、アメリカのような帝国主義の国が使う核が悪なのだ」といった主張が展開されていて、僕は広島や長崎でそういう主張をするイデオロギストの存在に衝撃を受けました。そんな体験は経つつも僕はアニメ業界にしか就職ができず、そういった思想的な活動とは一切無縁で過ごして来ました。ですから、そういったイデオロギー的なものを(作品に)取り上げていないし、全く考えたくもなかったのです。
宮崎駿は、60 年安保闘争には批判的で傍観していたが、60 年安保闘争が下火になった頃に、雑誌「アサヒクラブ」の写真を見て政治的興味を持ち、デモに参加するようになった。
1968 年に高校 2 年で成田闘争に参加。押井の大学入学時に学園紛争は終息に向かうが、学生運動は押井の原風景となって、いくつもの作品に顔を出している。後に押井自身は自らの世代を「(学生運動という祭りに)遅れてきた世代」と語っている。
以前在不同場合裡都提過,日本動畫導演所關注的命題,整體趨勢是不斷向「私性化」演變的 — — 從人類、社會等大命題逐漸變成世界系之類的小情感。
這和一代代導演們的青春期成長背景有密切關係。宮崎駿、富野由悠季這代 40 後,經歷過戰敗和第一次安保鬥爭,很容易產生那種全人類命運、人與自然之類宏大敘事的情懷;
押井守、大友克洋這代 50 後,經歷了全共鬥、第二次安保鬥爭的價值觀崩潰,往往帶有強烈的虛無主義氣質,討論的命題也縮小至以「日本社會」作為出發點; 到了庵野秀明、細田守這代 60 後,成長環境已經是去政治化的「無父社會」,他們關注的更多是一種小共同體中的人際關係,心之壁、親情之類;
到了新海誠、長井龍雪這些 70 後,青春期是在商品爆炸的消費社會中度過的,又經歷過泡沫經濟狂歡後的沒落,他們傾向於以懷舊的基調來把戀愛、友情純粹化,二人世界比周邊社會更加重要;
而最新一代導演呢?自小在網路世界中成長,面對複雜的世界、情感也彷彿和玩遊戲一般,以一種快速、刺激性的方式來營造情節起伏和角色,對人的關注已經很弱了。
在實現了日本戰後經濟復興的 1940 年體制面前,社會運動不過是年輕人自我感動的「過家家」。
革命發生了,然後當然失敗了。
沒有革命的現實世界一如往昔,而且諷刺的是,越變越好了。引發戰後曠日持久革命浪潮的美日安保體制還繼續存在著。經歷了 1960 年第一次安保鬥爭,1970 年第二次安保鬥爭,最後就連美蘇冷戰都結束了,美日安保同盟體制依舊完好如初,彷彿會永遠持續下去。
「世界已經沒法被改變了。」這是從 70 年代安保鬥爭失敗之後,即使經濟奇蹟都無法沖抵的日本社會「閉塞感和絕望感」。
從現實的結果來看,日本戰後社會運動無疑是失敗的。
美日安保體制依舊存在,全共鬥運動一地雞毛,新左翼運動在無序混亂中走向暴力極端化的終局,聯合赤軍成了永久的污點,中東赤軍沒有實現世界革命,反倒幫助祖國渡過國際石油危機,在動畫行業,橋頭堡東映動畫的工會運動以幹部們集體離場告終……
但是「革命」以另一種方式重塑了日本戰後社會。
曾經走過安保鬥爭時代的年青人,無論認可與否,無論是否參與其中,都或多或少的被革命思潮所影響。他們畢業後加入日本經濟建設,「革命」透過他們繼續對日本社會產生著影響,尤其在日本的政治經濟文化領域,
人們依舊談論著那個時代的思考與爭鳴,青春熱血,甚至天真愚蠢。
宮崎駿、高畑勳、押井守、安彥良和、富野由悠季、大友克洋…那一代人集體定義了戰後日本動漫的面貌,打造了上世紀 70 — 90 年代舉世矚目的日本動漫的「黃金時代」。